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 異世界の生活は、かなりアバウトだ。
 というのも、この世界には、時計というものがないから。一応、日時計や水時計、あと、香の燃焼時間で計るなんて事もしているみたいだが、基本的には太陽の位置を見て決められる。
 でも、大陸の北方にあって緯度が高いであろうこのランデルバイアでは、夏と冬の日照時間の差が滅茶苦茶あって、やっぱり、オールアバウトのようだ。体内時計によるところが大きい。
 朝、鐘の音で起床し、以降、日が暮れるまで、約二時間ごとに鳴る鐘の音で時を知る。
 城の鐘は神殿の上にあって、そういう役目を負う人が撞いているそうだ。
 一度、私は持っている腕時計――電池ではなく、振ると自動的に充電されるやつだ。だから、まだ使える――で、計ってみたら、今の時間、最初の鐘は朝六時から七時の間に鳴る事が多い。たまにフライングして五時半という時もあったが。途中の鐘は、大体、十分から十五分前後の誤差。酷い時は、三十分遅れという時もあった。でも、まあ、皆、気にする事もない。
「きょうは少し遅くないか?」
 日常会話のネタになるぐらいだ。
 まず、城の鐘が鳴って、それに合わせて街の鐘も鳴り響く。音色の違う響きが重なって、合唱しているようにも聞こえる。
 初めて聞いた時には、なんだか不思議な感じがした。今はもう慣れてしまったけれど。
 そんな時間感覚のせいもあるのだろう。食事は、一応、城内で働く人たちの為の食堂みたいな場所が、地下一階にあって、朝夕の二食。
 無料で食べられるだけ有り難いわけだが、お腹が空くんだ、これが。それは私だけでなくみんなそうで、でも、他の人たちは外に出入りが可能だしお金も持っているから、時間をみて城下でなにか買ってきたり食べて来たりが可能。偉い人たちはちゃんとお茶の時間があるから、そこで間食がある。
「お腹すいたよう……」
 昼も過ぎた頃になると、辛い。お腹も恥じらいを忘れて盛大に鳴りもする。
「甘いもん欲しい」
 考えていると、脳みそがからからになって、その内、何も考えられなくなる。ブレーカーが落ちたみたいに、突然、思考が止まる。ブドウ糖の欠如だ。これでは仕事にならない。
「チョコレート……キャンディ……」
 日本で私のデスクには、常に常備してあった。でも、それも今はない。一かけらも一粒も手にも入らない……切ない。空腹でここまで切なくなるなんて、初めて知った。

 クゥーン。

 わんこではないが、情けない鳴き声もでる。
 ……あ、本当にリアルわんこが鳴いている。城には馬だけでなく、犬も多い。番犬としてだけでなく、冬の季節は馬よりも犬ぞりが大活躍だそうだから、その為に飼っているのだそうだ。一度、見せて貰ったら、ハスキー犬のような犬が一杯いて、凄く可愛かった。でも、そこも付き添いがなければ近付いてはいけない場所だから、勝手に遊びに行けない。ちぇっ!
 閑話休題。
 こういう時は部屋に戻ってベッドの上でごろごろしているか、椅子に座って大人しく夕食の時間を待っているべきなんだろうが、薄暗いあそこに戻る気にもなれず、仕方ないのでひとり静かにいられる場所を捜した。というか、数日前から目をつけていた場所へ行ってみた。
 そこは、城の西、二階と三階の間の外壁側、乗馬の練習場から見える位置にあった。
 どうやら二階の書庫の日除けの為だろうつけられた屋根で、結構な長さと幅をもって張り出ている。三階の廊下の窓を開けて下を覗くと、予想通り、運動音痴の私にも楽に下りられそうだ。
「よっ、と」
 窓に片足をかけて跨ぐようにして下りた。うん、強度も問題なく、座っても大丈夫。陽当たりが良すぎる気もするが、暗いよりはマシだろう。紫外線は気になるが今更だし、ビタミンDの補給と思えば良い。光合成だ。
 基本的に、私は外出禁止だ。たとえ、城の中であっても。出られるのは、許可された場所で誰かが一緒の時だけ。明るい陽の下では、瞳の色が分かってしまうから。でも、他人のいないここなら、大丈夫だろう。
 私は壁に凭れ胡座をかいて座った。
 見える景色は、乗馬場と植え込み。その向こうには石の外壁が詰み上がり、哨戒中らしき兵士さんの姿がひとり、ふたりと小さく見られるだけだ。乗馬場では、今日は誰も練習はしておらず、代わりに柵の中で馬たちがのんびりと過している。あとは、青い空だけ。
 あぁーあ!
 大きく伸びをして、身体の力を抜いた。排気ガスもなにもない空気の清々しさを取り込むが、当然、お腹は張らない。
「どうすっかなぁ……」
 脳みそはカスカスの状態だが、ぼんやりとメモを広げて読んでみる。考えられる方法は幾つかあるのだが、それが実現可能なのか判断がつかず、その内容も酷く曖昧なものでしかない。やはり、情報がまだ不足している。
「構想としては、脅すか、堕とすか、なんだよなぁ」
 だが、どうやって? それが決まらない。
 むーん?
 ひたすら思考を宙に彷徨わせる。思い付かなくても、兎に角、ぼんやりとでも考え続ける。粘り強く。そうしている内に、何かの拍子に回線が繋がって、アイデアが生まれたりするものだ。
 ……でも、お腹空いたなぁ……
 やはり、この状態で思考を続けるのは難しいみたいだ。そよ風は涼しく、陽射しは気持ち良い暖さだ。でも、空腹がぜんぶ台なしにしてしまっている。残念この上ない。
「きみ」
 声をかけられたのはその時だ。どこか甘ったるさを感じる男の声だった。振り返れば、三階の窓からその声の主が顔を覗かせていた。
「君、そんな所でなにをしているの」
 初めて見る顔だ。随分とよく出来た造作の。オレンジ色というか、赤みの強い蜂蜜色の長い髪に紫色の瞳をした男性……ん?
「ひなたぼっこ中です」
 私は答えた。
 すると、男性は、へえ、と愛想の良い笑顔を浮かべて言った。
「だったら、暇でしょう。私の部屋で一緒にお茶をしないかい。ひとりじゃつまらなくてね」
 ……ナンパなんて何年ぶりだ?
 いや、そんな事よりも、お茶、イコール、プラスお茶菓子。私の頭の中で公式が立つ。そして、私はお腹が空いている。でも、
「知らない人にはついていっては駄目だって言われているんです」
 そう断ると、その人は少し驚いた表情をした。
「誰に? 誰がそう言ったの」
 ううん、言っていいのか?
「エスクラシオ殿下にです。あと、ガルバイシア侯爵にも」
「ああ、君、あのふたりの部下なんだね。それじゃあ、逆らえないねぇ。細かいことにもいちいち煩いからなぁ」
 よく知った口振りだった。
「じゃあ、少しそこで待っておいで」
 そう言うと、その人は窓から離れていった。……なんなんだ。
 それから、十分ぐらい経ってからだろうか。廊下側が、急に騒がしくなった。
 立って窓越しに覗いてみると、メイドさん達がわらわらと集まってきていた。小さな机と椅子が運ばれてきて、廊下に設えられた。その上にはテーブルクロス。
 なんだ、なんだ、って、ここでお茶する気かっ!? 廊下の真ん中でっ!?
 ……呆れた変人だ。普通、どっちかに許可を貰いに行くもんだろうよ。それとも、貰えないと踏んだか、面倒臭かったかで、強硬策に出たのか?
 やあ、と開かれた窓から、またその人が顔を出した。
「ここでするんだったらいいだろ。君はついてきたわけじゃないんだから」
「そりゃあ、理屈ではそうですけれど」
「嫌かい」
「嫌というより、これが知られたら怒られそうです」
「それも困るね」
「はい。でも、命令を受けたという事でしたら、御相伴に預かります」
「ああ、人に命令するのは嫌いなんだよ」少しだけ困ったような顔があった。「でも、それで付合ってくれるんだったら仕方ないね」
「はい」
「じゃあ、上っておいで。命令だよ」
「はい」
 私は内心喜んで、また窓から城の中へ入った。

「ところで、君、名前はなんというのかな」
 自分は名乗らず、その人は訊ねる。
「キャスです」
 私は答えた。
「キャスって、愛称だよね。キャス、なに?」
 ええと。
「キャスバル・レム・ダイクン」
 ごめん、シャア少佐……大佐か。一度、言ってみたかったんだ。
「ダイクン。聞いた事のない名前だね」

 ……異世界では通じない洒落もある。




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