- 14 -


 お休みする前に、ひとつ御褒美。
 図々しいかな、と思いつつも神殿を覗いてみた。そしたら、本当にアストラーダ大公殿下が私を待っていた。ちゃんと、お菓子を用意して。
「昨日は来れなかったのだね」
 神殿の控室と言うには豪華な一室で、殿下と向かい合ってお茶を御馳走になった。
「はい。仕事がひとつ詰めの段階でしたので、午後からずっと部屋に籠っていました」
「そう、それは大変だったね。で、その仕事は終ったの」
「一応は、先ほどエスクラシオ殿下に提出してきたところです」
 ああ、生クリームが美味しい。日本では当り前に食べていたケーキが、こんなに美味しいものだなんて知らなかった。潤う。カスカスの脳みそも、あっという間に復活だ。
「それは良かったね」
「はあ、それがあまり良くなくって……殿下はエスクラシオ殿下の部下の方たちをご存知ですか」
「知っているという程ではないけれど、名前ぐらいならば分かるよ」
「セグリアさんという方は御存知でしょうか」
「セグリア……ああ、ガスパーニュ侯爵の事だね」
「へえ、侯爵様なんですね」
「うん、旧い家柄でね。セグリア・ラスティ・イル・ガスパーニュ侯爵。ディオの近習のひとりだね。彼がどうかしたの」
「いえ、」ちょっと厭な感じの人だったんだけれどね。「本日、初めてお会いしたものですから、どういう方かと」
 すると、アストラーダ殿下は眉尻を落した困ったような笑顔を浮かべ、
「ひょっとして、苛められたのかい」
 あー、そういう人なのか……私だけじゃないんだな。
「いえ、そんなのではなくて、少々、手厳しい方だな、と思いまして」
「まあ、彼もプライドの高いところがあるからね」アストラーダ殿下は苦笑した。「どういう理由であれ、いきなり現れた君が、直接、ディオに関ることを善しとしない面もあるのだろう」
「ああ、そうなんですね」
 そっか、そういう事もあるか……私は新参者で、身分があるわけじゃないからな。男社会では許せないところもあるだろう。ましてや、ここはバリバリの身分制度のある世界だし、よりその意識が強くてもおかしくはない。
 目の前にいる、優しげな微笑みを浮かべる男性を、私はあらためて見る。
 うん、美形だ。目の保養だ。でも、この人にしても王族で、普通であれば私の立場では話をするどころか、お目通りでさえ叶う相手ではないのかもしれないなぁ……迂闊だったなぁ。廊下のお茶会の噂が耳に入った人の中には、腹を立てる人も多数いるだろう。
 身分制度というのは頭の中では分かっていても、自由平等を建前にしてきた日本で暮してきた私にとっては、実感の薄いものだ。唯一それらしき身分としては、天皇陛下や皇族の方々で……あれ? あれあれあれ? うわあ……やべぇ! もしかして、そうなの!? だったら、やばいっ! 今まで、せいぜい大企業の社長レベルの相手程度でしか物を考えてなかった!
「どうしたの」
「いや、えー、あー……」
 顔面蒼白。心身硬直。滂沱の汗。
 ひっじょおにマズイ。これは、相当、マズイぞ! いくら誘われたからと言って、のこのこ来てはいけない相手だったんだ。本人は良いとしても、周囲が黙っちゃいないだろう。体育館の裏側や屋上じゃないけれど、陰でシメられても文句は言えない状態だ、これは。げげっ!
 肩書きにプライドや自意識を抱いている男は少なくない。それを無視しようものがいれば、自分の存在意義を傷つけられたと怒る者がいて当然だ。現実、私も、日本でそういう人を何人も見てきた。しかも、旧くからの……ってどのくらい旧いの? 百年とか、千年とか!?
「えと、」
 でも、どうするこの状況。今、立ち上がれば、殿下に失礼にあたるだろう。かと言って、このままここにいても……
「キャス」
「……はい」
 向かい合うアストラーダ殿下の顔から笑みが消えていた。
「気にすることはない。君はこれからも、これまで通りにしていればいい。少なくとも、私に対しては」
 やけにきっぱりとした言い方だった。まるで、何かに腹を立てているみたいに。
「でも、これを知って気を悪くされる方が沢山いらっしゃるんじゃないですか」
 びくびくしながら質問してみれば、睨むでもなく真剣な表情が私を見た。
「言っただろう。私は人に命令するのは嫌いなんだ。私に命令をさせるような真似はしないで欲しい」

 ……そうなのか。そっか、そうなんだな。

 私も社会的立場で人を見るのは得意じゃない。肩書きに対する尊敬の念が薄いと、そういう所がこれまでも叱られはしてきたけれど、肩書きで人格が計れると感じたことがない。その地位に至るまでに、その人もそれなりの努力をしてきたのかもしれないけれど、そうでない場合だって多い。そう感じている。
 結婚相手としてならば、含めて考えもするが、そうでない場合は、人を判断する基準としては低い位置にある。
 まだ、良く知っているわけではないけれど、身分は別にして、目の前にいるこの人は良い人だと感じている。ちょっと変わってはいるけれど、優しい人には違いないだろう。その人を傷つけてまで、まだ会ったこともない見知らぬ誰かの御機嫌取りをしようとは思わない。通りすがりや、一時的なお客相手なら我慢もするが、そうではないから。
「分かりました。では、これからも、時間がある時はお茶をしに来ても良いですか」
 だったら、私は馬鹿になってやる。分かってしまったけれど、馬鹿な振りを通してやろう。なにも分からない振りをして、この関係を守ろう。図太さも使いようだ。まあ、いびられたら、いびられた時に考えればいい。
「どうぞ。いつでも歓迎するよ」
 その人の表情に柔らかさが戻った。
 へへっ、少なくとも美味しいお菓子は御馳走になり続けられるってわけだ。出世欲よりは食欲の方が人間の欲としては強いぞ……そういう事にしておこう。

 とは言え。
 アストラーダ殿下の社会的環境に私が接する機会がないだろうから、図々しくなれる部分もある。だが、エスクラシオ殿下に対してはそうはいかないだろう。
 無駄に煩わしい事は避けて通って間違いはない。
「ちょっとは考えなきゃいけないなぁ……」
 兎に角、立ち位置を定める必要がありそうだ。
「明日、グレリオくんに相談してみよっかなぁ」
 ちょっと頼りないけれど、いちばん率直な意見を言ってくれそうな気がする。
 取り敢えずは少しずつでも新しい環境に馴染んでいくしかないって事だろう。
 その為にも、改めてレッスン開始だ。




 << back  index  next >>





inserted by FC2 system