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風の音に混じって、剣が合わさる音が幾つも重なって聞こえた。戦う音。中佐たちの隊が生き残ろうと必死で戦っているのか。
馬の上で。
地の上で。
人が戦っていた。
行きすぎた向こうで、倒れる人の姿があった。
中佐たちは無事だろうか。
ランディさんは無事に抜け出ただろうか。
殿下たちはまだ来ないのだろうか。
立ち昇る土煙。
埃臭いその中に、僅かに錆びた匂いを嗅いだような気がした。
切る風の向こうで、男たちの呻き声が聞こえる。
叫び声。
打ち付ける鋼の音。
そんなものをすべて置いて、私は走り抜けていた。
ただ、夢中で。混乱の中、自分がどうしたいのかも分からず、逃げているのか向かっているのかも分からず、グルニエラを駆っていた。
横断した戦場の向こう岸、右翼の陣が見えてきた。こちらも他に呼応したか、陣の形状は残っていなかった。打捨てられた槍や楯が、地面のそこかしこに散らばっている。こっちも上手くいったみたいだ。
逃げろ、逃げろ! みんな、逃げろっ! 怖がれっ! 怯えろっ! そして、逃げてしまえっ!
殺し合いなんかやめて、家へ帰れ! 家族の許に。待っている人のところへ!
「ああああああああっ!」
突然、耳をつんざくような野太い男の叫び声が、一際、大きく聞こえた。
見れば、右斜め前方のすぐ近くで、歩兵のひとりが、背中から騎士に馬上から槍で一突きにされていた。太い槍の先端が兵士の身体を貫き、革製だろう胸当も難なく突き破って、光って見えている。串刺しだ。
……なんだ今の。どういう光景だ?
味方で素手の、明らかに自分よりも弱いだろう者を、しかも、背中から刺していた?
「うらああああっ!」
今、いたのはレキさん? 大きな剣を振り回していた人。笑っていた。頬についていたのは泥? 血?
ここにも、ゆっくりと膝から崩れ折れるように倒れる人がいる。
あそこにも。地面に倒れたまま、起き上がる様子はない。
哄笑する声が耳を掠める。
逃げる者を追って襟首を掴み、引き摺り倒して、仰向けになった腹に刃を突き立てている。
この人も笑っている。ぎらついた目をして、口を大きく開けて息をしながら、笑っている。獣のようだ。 否、獣そのものになってしまっている。狂ったケダモノたちが自分より弱い生き物を、目に付いた端から片っ端から狩っている。
アリを踏潰すように。
そこに。
あそこに。
あっちでも。
こっちでも。
理性を失った獣たちが、ただ殺戮を行っている。
広い大地の上、何をしているのかも分からず、何を求めていたのかも忘れ、ただ目の前の獲物を狩ることにだけ。
なに、ここ?
どこ、ここ?
皆、なにしているの?
私、なにしているの?
呆然とした。
まったく分からない何かがいる、そう感じた。目に見えない、何か。人を狂わす何か。
ガーネリアの亡霊……まさか、本当にそんなものが存在するのだろうか。でも、そうとしか思えない。取り憑かれているとしか思えない。でなければ、こんな事になるなんて有り得ない。考えられない。
皆、逃げて終りになる筈だった。兵士たちがいなくなれば、騎士達もどうしようもないって分かって、一緒になって逃げると思っていた。
なのに、なにこれ?
敵である人達がいる。でも、何故、味方である筈の者を殺そうとしているのか。
ばさり、と音が聞こえて、目の前に人が落ちてきた。
慌てて手綱を引き、グルニエラを止める。周囲を見回せば、物凄い勢いで戦車が突っ走っていくのが見えた。どうやら、あれに跳ね飛ばされたらしい。
地面に突っ伏したグスカの歩兵は、ぴくり、とも動く気配はない。ゴム人形のように、だらり、と四肢を放りだして転がっている。
……死んでしまったのだろうか。
私はグルニエラから下りると、恐る恐る近付いた。
何故、そんな事をしたのか。
多分、くしゃくしゃになった髪の色がギャスパー君に似ていると思ったから、だと思う。それとも、実際に戦場で死んでいくという事がどういうものか、確かめたい気持ちもあったのかもしれない。そして、生きているならば助けたいという気持ちも、少しはあったのか。
私は倒れている兵士に近付き傍らに屈むと、仰向けに身体を返した。抵抗のない身体は重く、遅れて回る首も捩れをみせる。
息を呑んだ。
身体を支えた手に、ぬるり、とした感触があって、そこで初めて私は兵士がただ戦車に轢かれただけでなく、斬られている事に気が付いた。
胸から腹にかけて、砂に塗れたざっくりと深く刃を受けた切り口が見えた。赤く光って見えるのは、内臓の一部かもしれない。頭もかち割られている。瞬間的に目を逸らしていた。
年の頃は私とそうも変わらないだろう兵士が、既に息をしていないことは、一目で分かった。赤い血の筋をつけた蒼白い顔は作り物めいて、生の欠片も残されていなかった。
死者を前にして、私は悲鳴をあげたりはしなかった。泣きもしなかった。
淡々と、これはただの肉塊だ、と感じた。ぞっ、とはするが、テレビで見るそれとあまり変わらない。血の色は女だから慣れている。ただ、鼻腔から吸い込む常にない濃い匂いで、口中が鉄の味ばかりになって気持ち悪かった。
それとも、私の感覚も麻痺してしまっているのか? でも、ああ、なんて厭な匂いなんだ。
肌が干からびて感じる。埃っぽい真っ只中で、立ち竦んでいた。
ゆっくりと立ち上がる耳元で、風の唸り声があがった。髪の先を、さあっ、と撫でられる感触があった。
傍にいたグルニエラが、高い嘶きをあげた。
振り返る先から、また、頬に風を受けた。
切先が、私の肩すれすれのところを通り過ぎていった。
太陽を背にする、大きな姿が目の前にあった。馬に乗り、太い槍を手にしたグスカの騎士だ。私を狙っていた。銀色の甲冑が冷たく光って、口元は、それよりももっと冷たく笑っていた。
声にならない悲鳴をあげて、私は後ずさった。ひやりとした汗が、全身から吹き出た。
槍の先が私に狙いを定めようと、揺れている。目が離せない。
また、振り下ろされた。
「馬鹿野郎! 早く逃げろ!」
キン、と音をさせて、槍が弾き返された。
「レキさん」
目の前に立ちはだかったその人を見上げた。
「これで、借りは返したからな! さっさと行けっ!」
借り? え、あれ? 貸しじゃなくて?
今ひとつ呑み込めなかったが、そんな事を考えている場合でもない。私は、足をもつれさせながらその場から逃げ出した。
が、すぐに別の追っ手があった。
今度は反対側の横の地面に突き刺さった。
ぶうん、と風が唸る音が耳元に聞こえた。
背中に、冷や汗が流れた。
逃げれば、すぐにまた、槍の先が脇を掠めた。
馬を操り、私の走る速度に合わせて追ってくる。そして、太い槍を突き刺してくる。
右。左。また、右。
矢継ぎ早に振り下ろしては、遊んでいるかのようだ。逃げる私の姿を楽しんでいるようにも感じる。
その証拠に、高い笑い声と奇声も聞こえてくる。
左足で、落ちていた小石を踏んでしまった。前に滑る感じがあって、私は尻餅をついてしまった。
立ち上がろうにも、立ち上がれなかった。膝に力が入らなくて、立ち上がろうとしても、地面につけた手が離れなかった。
そのまま、じりじりと腰を引き摺って後退するのが精一杯だった。
ぎらつくばかりの目と合った。
そこには、なにも映ってはいなかった。私を見ていても、人形に嵌められたガラス玉のように、瞬きひとつなかった。
ぞっ、とするような笑みも強ばって、顔面に張り付いて見えた。
人に見えなかった。人の形はしていても、人が持っている筈のなにかが欠如してしまっているように感じた。
なんだろう?
何故なんだろう?
怖い、と思うより先に、私はそんな風に思った。
あの時に似ている、と思った。
ランデルバイアに連れてこられる途中で寄った砦で、兵士たちに襲われた時。あの時の男たちもこんな顔をしていなかったか?
ああ、では、私ではどうにも出来ない。命乞いをしたところで、聞く耳など持ってはいないのだ。そんな余裕も、心もどこかに行ってしまった人だ。
槍の切先が、私の身体の中央に定められた。
ぶつぶつと、何事か呟く声が耳を掠めた。
騎士の口元が微かに動いていた。
やられるものか、と聞こえた。
「殺られるものか、殺られるものか、やられるものか、やられるものか……」
笑いながら、繰り返し呟いていた。
「ガーネリアの亡霊なんぞに殺られてたまるものか、殺られるものか、やられるものか、殺ってやる、やってやる、やってやる、やってやる……」
完全に正気を失っている。
もう、駄目だ!
私は、固く目を瞑った。