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 槍が私を刺し貫く事はなかった。
 地鳴りがした。
 いきなり、顔に生温い飛沫がかかった。
 重い蹄の音が行き過ぎて、男の呻き声が聞こえた。そして、どうっ、と倒れる音がした。
 目を開けば、馬ごと騎士が地面に倒れていた。横倒しになった馬は、四本の脚をばたつかせて起き上がると、主を置いて走り去った。
 乗っていた騎士は持っていた槍も取り落とし、倒れたまま呻き声をあげた。しかし、ごとり、と頭を落とすと、二度と動くことはなかった。身体の下から滲み出た赤い液体を、地面が吸収していた。
 私は傍に戻ってきた馬とその姿を仰ぎ見た。
 大きな鹿毛の馬に跨がった、黒い影。血の色の髪。
「殿下……」
 冷えた水を思わせる青い瞳が、私を見下した。その色を見た途端、頭の芯が、すっ、と冷えていく感覚があった。
 まったく、と手にした剣を鞘に収めながら、不機嫌そうな低い声が言った。
「こんな事にならないように手配した筈なのだがな」
 その声も、続く地鳴りの音に紛れて聞こえなくなる。地鳴りは、ランデルバイア軍の騎士達の乗る馬が大挙して駆ける音だった。
 その姿に、それまで殺戮を行っていたグスカ軍の騎士たちが、散り散りになって逃げていくのが見えた。
 黒い甲冑姿のエスクラシオ殿下は、それを馬上から黙って眺めていた。
「殿下っ!」
 一騎だけ、隊から離れて近付いて来たのは、グレリオ君だった。
 グレリオ君は地面にへたりこんでいる私を見付けると、吃驚した顔で慌てて馬から下りて駆け寄った。
「キャス! 怪我をしたんですか!?」
 え、と顔に掌を当てると、朱の色がべったりとついた。
「返り血を浴びただけだ」
 殿下が答えた。
「返り血……ああ、無事なんですね。良かった」
 グレリオ君は安堵の表情を浮かべた。
「おい、大丈夫か」
 続けて声をかけながら近付いてきたのはレキさんだった。そして、傍にいるのが殿下と気付いて、はっ、と息を呑んだ。
「おまえは」
 見下しての殿下の問いにレキさんは、「傭兵。レキだ」、とふてぶてしい様子で答えた。
「カリエスの旦那に雇われて、グスカ内の様子を知らせる為に潜入していた。たまたま、その魔女さんに会ったもんで、手伝った」
「そうか。御苦労だった。生きて国に帰る事が出来れば、その分の褒美も出そう」
「そりゃあ、どうも」
「立てますか」
 グレリオくんが、私に手を差し出した。
 私はその手に掴まる。途端、温かいと感じた。見上げる顔は、いつものグレリオ君の顔だ。真面目で、心を持つ、思い遣りのある人の顔だ。人の体温のぬくもりに、ほっ、として、また力が抜けた。よろけて、全身を預ける形でグレリオ君に寄りかかってしまった。慌てて、抱き締められるようにして支えられた。
「腰が抜けたか」
 殿下の呆れたような声が言った。
「それでは馬に乗れまい。こちらに貸せ。連れていこう」
「少し休ませて、私が連れて行きますが」
「かまうな。少し目を離した隙にちょろちょろと動き回るような奴だ。これ以上、ここに置いておくわけにはいくまい。私が連れていく。おまえは、その男を陣まで案内してやれ」
 ……立つこともままならない相手に、ひどい言い草だ。でも、こんなところにこれ以上いたくないのは本当だ。殿下なりに気を遣ってくれているのか。
 レキさんが、ち、と小さく舌打ちするのが聞こえた。
「では、お願い致します」
 グレリオ君が答えると、私の前に新しい手が差し伸べられた。私はその手を握った。
「鐙に片足をかけて下さい。いきますよ。せぇの、」
 掛け声と共に弾みをつけて、腰を支えたグレリオ君が私を押し上げた。その勢いで、エスクラシオ殿下の馬上に引っぱり上げられた。
 横座りの形で、殿下に身体を支えられた。片腕が腰にしっかりと回される。
「このまま陣へ戻る。あとはビルバイアに任せるが、決して深追いはするなと伝えろ。逃げる者は討たなくていい、手向かう者だけを討つよう徹底させろ」
「はっ」
 そこで、漸く私は、忘れていたことを思い出した。
「あ、グルニエラ……」
 どうしただろうか。
「そこらへんにいるでしょう。連れて行きます」
 グレリオ君が、笑顔で答えてくれた。レキさんは、つまらなさそうにそっぽを向いている。
「ありがとう。お願い」
 私も乗せた殿下の馬は頭を返すと、騎士たちの流れからは逸れて、ゆっくりと歩き始めた。
 エスクラシオ殿下は大して周囲の喧騒に気に留める様子もなく、私の身体を支えながらも片手で悠々とした手綱捌きをみせている。
「あの、ランディさんは」
 気になっていた事を訊ねてみると、ああ、と頷きがあった。
「報告は受けた。少し傷を受けていたが、大した事はないだろう。今頃、手当てを受けている筈だ」
 無事だったんだ。
「良かった……ロウジエ中佐の事は」
「簡単にだが、聞いた。無事ならば、訪ねてくる手筈と聞いている」
「ウェンゼルさんともはぐれてしまったんですが」
「無事ならば、陣にて会えるだろう」
 どちらもそうであれば良いけれど。
「心配せずとも、あれはおまえなどよりずっと腕も立つし、用心深い男だ。戦場も初めてではないしな。今頃、おまえを探して先に陣に着いているかもしれん」
「でも、」
「普段、兄上の警護をしている者だ。気配を断って動く事にも慣れているだろう」
 え?
「なんだ、知らなかったのか」
 私の短い声に、前を向いたままの殿下は意外そうに言った。
「おまえの事がよほど心配だったとみえて、兄上があの男をおまえの護衛につけろと言ってきた。本来ならば、ラシエマンシィに残る筈だった者だ」
 アストラーダ殿下が……ああ、だから、アイリーンの事も知っていたし、レキさんの事も分かったんだ。
「おまえは人の事よりも、まず自分の心配をしろ。先ほどから、ずっと震え通しだ」
 ……当り前に気付かれていたか。
 エスクラシオ殿下の姿を前にした時から、急に身体が震え始めていた。止めようにもとまらなく、がたがたと音をたてそうな程に震えている。怖い、怖いと訴えている。気付かれない方がおかしいだろう。
「怖いなら、目を瞑って俯いていろ。見たくないものは見なくていい。本来、おまえが目にすべき筈のなかったものだ」
「……はい」
 すぐ耳元に、静かな深い声が聞こえる。それは、肌に染込むような夜の穏やかさを思い出させ、微かに労りみたいなものを感じた。
 私は言われた通りに目を閉じて、下を向く。そこかしこに転がっているグスカ兵の死体を見ないように。
 エスクラシオ殿下とは密着していたけれど、甲冑が固く私の身体を阻んで、金属の冷たい感触がたまに頬や額に当るだけだ。
ちょっと、痛い。でも、それよりも、腰を支える手から伝わってくる感触に気を取られる。
 大きくて厚い、力のある掌の感触。服を通しても分かる。
 だから、余計に安心して身体は素直に反応してしまっている。私の一部が、揺るぎない存在に縋り付いて甘えたがっている。
 いつの間に、この人にこんなに心を許してしまっていたのか。
 馬鹿者が、とそんな私の気持ちも知らないだろう殿下は、いつもの調子で口にした。
「安全な場所で大人しくしていれば良いものを。自ら危険に飛び込んでいってどうする」
「……すみません」
「戦場では、容易く人は正気を失う。知性も理性もなにもない。目の前の獲物の事しか考えていない。おまえを襲った輩もそういう者だ。恐怖をみせれば、より調子づいて攻撃的にもなる」
「はい」
「ここでは力こそすべてだ。小手先の奸計など、力の前に捩じ伏せられる」
「はい」
「だが、ともあれ、よくやった」
「……有難う御座います」
 淡々とした短い褒め言葉に、今度は泣きそうになった。
 私はますます俯いて、そんな顔を見られないように隠した。




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