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 ゆっくり時間をかけて陣へと移動する間に、身体の震えは止った。乱れていた私の気持ちも治まった。
「ウサギちゃん!」
 陣に着くと、ランデルバイアの騎士姿に戻ったランディさんが走ってきた。
「無事で良かった、心配したよ。怪我は」
「大丈夫です。これは返り血を浴びただけで、あとはかすり傷程度です。ランディさんも無事で良かったです。ウェンゼルさんは?」
「彼も無事だ。さっき、君を探して合流した」
「よかった……」
 私の我儘であれだけの事をして、ふたりとも命を落とさずにすんだ。それが救いだ。
「これの事は任せる」
 馬から降りて殿下はそっけなく私を託すと、足早に歩いて行ってしまった。待っていたらしい部下の人たちが駆け寄ってきては、後を追いかけながら口早になにやら報告をしていた。でも、身は離れても、私にも錆びた鉄の匂いが移ってしまったようだ。
「さ、こっちへ。まずは、その血を綺麗にしないとね」
 その後ろ姿を見送る私の背に軽く手を添えて、ランディさんが促した。
「中佐は、スレイヴさんは無事なんですか。ギャスパー君やサバーバンドさん達は」
 案内される道すがら問えば、ランディさんは首を軽く横に振った。
「君達が騒ぎを起こして直ぐにこちらも動いたが、あれだけの混乱の中、私は自分が抜けるのに精一杯で、彼等を気にする余裕もなかった。だが、彼等も戦場をよく知る者たちだ。きっと無事だよ。首尾よく逃げられた時にはこちらに連絡を入れるよう言ってあるし、訪れた時には通すように手配もしてある」
「そうなんですね」
 そう思いたい。
「怪我したって聞きましたけれど、大丈夫なんですか」
「ああ、腕を少し掠った程度だから大した事はないよ。君も随分と怖い思いをしたろう。ウェンゼルから君を見失ったって聞いた時は、心臓が止るかと思った」
「ごめんなさい……」
 怪我をした分も含めて謝る。私が巻込まなければ、ランディさんやウェンゼルさんを危険なめに遭わせずにすんだ筈だ。
 少し、落ち込む。でも、ほんの少し、反省に必要な分だけだ。戦場という場所を侮っていた分だけ。やってしまった事を、グズグズと悔やんでなどいられない。それに、彼等にも矜持というものがあるだろうと思う。それを無視して私が思い悩むなどというのは、僭越というものだろう。
 次はもっと上手くやる。
 だって、仕事だから。慈善事業をやっているわけじゃない。
 ぽんぽん、と頭の上で手が跳ねた。いつものように。私が沈んでいると思ったのだろう。私はその手の持ち主を見上げた。
「大丈夫です」
 少しだけ微笑みを見せる顔を見て、私は答えた。
「顔を洗って、今のうち身体を休めておくといい。追って、殿下から何があったか、具体的な報告の求めがあるだろう。どちらにしろ状況が掴めないことには、私達も動きようがないから」
 ランディさんは、微笑みながらも心配げに言う。
「今だけは肩の力を抜いて。まだ、先は長いのだから」
「はい」
 私は大きく息を吸って、吐いた。
 ……でも、こんなのが、これからまだまだ続くのか。

 その後、指定された場所で顔を洗って、案内された天幕で仮眠をとる事にした。
 見慣れない場所でひとり平服でいるのは、異分子である事を証明しているようで、居心地が悪かった。早く軍服に着替えたかったけれど、着替えの入った荷物はグルニエラが持っていたので我慢した。
 台の上に毛布を敷いただけの簡易寝台の上で横になったが、布を一枚隔てた向こうを行き交う人の気配が気になって仕方がない。
 静かだが、ざわついた空気。そこかしこにある刺々しさが、一触即発の地雷のように散らばって感じる。
 無理矢理に目を閉じても、私を殺そうとしたあの男の顔や先ほど見たばかりの光景が思い出されて、落ち着きを失う。徹夜で動き回って身体は疲れている筈なのに、倒れ込んでもおかしくない程なのに、ささくれだった神経が束の間の眠りに入る事さえ許してくれない。毛布にくるまって、うーうー唸りながら左右にごろごろと寝返りをうっていると、入り口の方から、キャス、と小声での呼びかけがあった。
「寝ていますか」
「いえ、大丈夫です。どうぞ」
 答えれば、騎士姿のウェンゼルさんが入ってきた。
「御無事で」
「ウェンゼルさんも」
 短く再会を喜ぶ顔も、疲労の色が滲み出ている。
「荷物をここに置いておきます。グルニエラは外に繋いでありますよ」
「ああ、わざわざ有難うございます」
「どういたしまして。貴方からは目を離さないようにと言われたにも関らず、見失うような事になってしまって、申し訳ありませんでした」
「いいえ、あの状況では仕方なかったです。まさか、あんな風になるとは、私も思ってもみなかったので。こちらこそ、すみませんでした。でも、本当に無事で良かったです」
「よく頑張りましたね、お見事でした」
 お互いに深く会話に立ち入らない姿勢。話さないというより、話せない。どう話してよいか分からない。
「いえ、そんな……ただ、運が良かっただけです」
「ある方に言わせれば、運を味方につけるのも才能の内だそうですよ」
「アストラーダ殿下が?」
「おや、お聞きになりましたか」
 ふ、とした笑みが私を見た。
「猊下はあの様な方でらっしゃるし、供人を連れ歩くのも政治的お立場上、憚られるものがあるので、城中においては、私どもも常にお傍から少し離れて護衛をするようにしているのですよ。だから、貴方の事も、最初、猊下が見付けられた時から知っていますよ。お茶の席でも何度かお部屋で御一緒させていただいていましたし」
 ぜんぜん気付かなかった。どこにいたんだろ? 天井裏はないし、まさか、戸棚の中とか……んなわけないか。きっと、それ用の隠し部屋でもあるんだろう。でも、忍者みたいだな。お庭番衆。
「アイリーンの話をした時とか」
 そう答えると、く、と咽喉の奥で笑う声がして、ええ、と頷いた。
「あの時は、私も笑いを堪えるのに必死でした」
「もっと早く言ってくれればよかったのに」
「言えば、貴方も遠慮されるでしょう。それに、押しつけがましく思われたりするのは、猊下の本意ではないでしょうし」
「そんな風には思いませんよ。アストラーダ殿下には、とても感謝しています」
 そんなにも心配されているとは思わなかったけれど。
「貴方が来られてからの猊下は、とても愉快そうにしてらっしゃる。ですから、無事に戻って、またお茶の時間の話し相手になって差し上げて下さい。それが猊下のお望みです」
「……はい」
 ふ、と柔らかな表情のその人の面影を思い出して、私も少しだけ気持ちが和んだ気がした。
 ウェンゼルさんは、アストラーダ殿下から頂いたという茶葉も差し入れてくれた。
「気持ちが落ち着きますよ」
 リーフと匂いからハーブティのようだ。そう言えば、チルバにいた時に、ウェンゼルさんがいれてくれたお茶がそうだった事を思い出した。慎ましやかな気遣いが、後ろにいる殿下の影を思い出させ、心の底から有り難いと感じた。
 思えば、これまでウェンゼルさんの言動や行動で、アストラーダ殿下を思わせるヒントはいくらでもあったような気がする。それに気付かなかった自分が薄情だと思い、申し訳なくも思った。

 その後、教えてもらった場所でお湯を貰ってきて、さっそくハーブティを飲んでみた。以前、私が腹を立てていた時にいれてくれたものと同じ味がした。それが妙に懐かしく、一かけらの優しさが口中に溜っていた錆の味を洗い流してくれた。そうして、私は深い眠りにつく事ができた。
 ……我ながら単純だと思う。




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