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 ……髪が、鬱陶しい。

 私は伸びた前髪を指先で抓んで、伸びた長さを確認した。
 眉が軽く隠れるくらいの長さがベストだった筈が、今は目が隠れて頬にかかるまでになっている。当然、サイドもバックも同じかそれ以上に伸びていて、うすらみっともない中途半端なボブへアーになりつつある。どこか貧乏臭くみえるのも、気に入らない。
 ……切りたい。後ろは無理にしても、前髪だけでも切りたい。この欲求は強い。

 切っちゃえ!

 決心も早い。ハサミはないので、アストリアスさんから貰った、折り畳み式の小型ナイフを取り出した。
 シャギーをいれるように削げば、多少、乱雑でも形になりやすいだろう。
 そして、髪にナイフの刃を当てたその時、
「いけませんよ」
 天幕の陰からウェンゼルさんが顔を出して、私に言った。ていうか、君、いつからそこにいたんだ?
 えーっ。
 不満の声を大きくして言えば、苦笑が浮かんだ。
「髪を切らせるな、と陛下よりの御命令も受けて参りましたので」
「そんな、髪ごとき良いじゃないですか。どうせ、またタダで生えてくるんだし」
 別に化粧もおしゃれもしていないんだから、それぐらい許して欲しい。というか、私の髪を心配するよりも、もっと重要な案件があるだろうに。王様稼業ってそんなに暇なのか?
「陛下よりって事は、陛下の護衛をする事もあるんですか」
 普段はアストラーダ大公殿下の護衛を務める騎士に、私は訊ねる。
「ええ。陛下をおひとりにするわけには参りませんから、そういう時に呼ばれる事はありますよ」
「ああ、なるほど」
 そりゃあ、王様もひとりになりたい時はあるだろうなぁ。その邪魔をしないように気配を断って警護できる人物は重宝もされるだろう……しかし、本当にお庭番みたいだ。
 しげしげと、こちらの世界では決して体格に恵まれているわけでもないその人を見る。
 日本人に比べれば大きいには違いないが、それでもあちらの世界の平均的な白系の外国人となんら変わらないだろう。茶色の髪に茶色の瞳。その顔立ちも感じは良くはあるが、平凡と言えば平凡。どこにでもいそうな兄ちゃんだ。でも、だからこそ、護衛のスペシャリストなのかもしれない。
 ボディーガード。SP。用心棒。個人的には、黒沢映画が一番だ。でも、ウェンゼルさんでは、主役を張るには少し年足らずか。椿二十郎? ……語呂悪いな。
「陛下の御命令は分かりましたけれど、前髪が目にかかって鬱陶しいんですよ。先っぽの方が傷んできているし。伸ばすにしたって綺麗に伸ばさないと意味がないと思いませんか」
 枝毛ばさばさは嫌だよ。
「それは私には分かりかねますが、陛下のお言いつけですので、我慢してください。城に戻れば手入れもできるでしょうし、それまでは」
「それでも切ったら、不敬罪ですか」
 そう訊ねると、首が竦められた。
 ちぇっ。
 異世界に来て九ヶ月にもなろうかというのに、こういう些細なところが、未だ馴染めない。いや、異世界というよりも、私が今おかれている環境、制度においてというべきなのだろう。
 私は並ぶ天幕の間、木箱の上に座って上を見上げる。薄曇りの空を眺めて、溜息を吐く。
「気になるのでしたら、後ろだけでも縛ったら如何ですか」
 そんな提案を貰った。
 ああ、縛るのも鬱陶しいけれどなあ。でも、少しはすっきりするかもしれない。
「でも、縛る紐を持っていないんです」
「そうなんですか。私も持っていませんし……しかし、誰かが予備を持っているかもしれません。訊いておきましょう」
「ああ、だったら、そこまでしなくてもいいですよ。我慢します」
 仕方がない。
 私は手にしたナイフをポケットに仕舞うと、立ち上がって、自分の天幕の脇に立て掛けてあった、お手製の木の枝で作った釣り竿と傍らに置いてあった木のバケツを手にした。そして、それを持って近くを流れる川へと向かう。
 何も言わないまでも、ウェンゼルさんもついてくる。この地に移動して三日。それ以前よりも、彼にもお馴染の行動だ。
 張られた天幕の間を歩いて土手を越えた先に、緩やかな流れの川がある。そこで釣りをするのが、ここのところの私の日課だ。

 ……だって、暇なんだもん。

 本来、私がすべき仕事は、既に終っている。だから、今は、上司であるエスクラシオ殿下の近くでアシスタントみたいな仕事をしているが、その殿下も不在だとする事がない。他の仕事の手伝いをしたくとも、極力、他人との接触を制限されている身なので、それも出来ない。怪我人の治療にあたる人たちがとても忙しい状態にある事は分かってはいても、手伝う必要はないと言われている。じゃがいもの皮むきぐらいは当り前に出来るので、料理の手伝いも出来るに違いないのだが、主に私の面倒をみてくれているアストリアスさんからは、婉曲な言葉遣いながら、手伝うな、と言われた。
 そんなに料理、下手じゃないぞ。というか、あんな不味い飯を食べ続けるよりも、自分で作りたい。が、駄目だそうだ。いや、本当に不味いよ、戦場の飯は。臭い飯ってこの事なんだな。みんな、よく我慢して食べていられるな。
 蝿ぶんぶん、だし。殺虫剤持って来い! って、そんなものもないか。
「じゃあね、また呼んでねぇ」
 途中、兵士に投げキッスを寄越して手を振るお姉さんを見かけた。
 娼婦のお姉さん達だ。この光景も、すっかり見慣れた。なんと、朝夕、荷馬車の送迎付き。近隣の街の娼家からやって来る。
 ストレスやら本能的なもんやら、男も溜るもんが多い。長期に渡ってストイックさを貫くには、精神がもたないらしい。とは言え、一般女性に手を出す事は禁止。だから、決して奨励しているわけではないが、或程度は仕方ないと黙認している。暴力禁止は勿論、金払いもしっかりしているってところで、お姉さん方の受けが良いらしい。たまに、いたしている最中の声が聞こえて来る事もあるが、これにも嫌でも慣れた。てか、道理で、アイリーンの話にみんなびびったわけだ。
 娼婦だけでなく、他にも沢山の非戦闘員が陣の中に常駐していたりする。
 向こうでは、投石器の修理の為だろうか、木材を加工している。その隣では、剣を打ち直したり、防具の手入れを行っている人達がいる。その他にも、靴の修理やら床屋さんなんかもいる。あちこちで火が焚かれ、湯気が立ち昇る。大声での挨拶が飛び交い、まるで、街がひとつ越してきたかの様な賑やかさだ。
 実は、全体のおよそ一割ほどが、兵士相手に商売をする為に、自主的に行軍に参加している者達なのだそうだ。当然、危険はあるが、確実に需要が見込めるところからのものらしい。現実的に考えて、大工仕事や鍛冶仕事なんて、職業軍人には無理だ。彼等の存在でこの遠征が成り立っている部分も大きい。ま、戦時の経済学だな。
 兎に角、そんなわけで、みんなする事に困っていない。私以外の人は、みんなとても忙しい。山ほどしなきゃいけない事があるらしく、気忙しく動き回っている。
 暇しているのは、私だけだ。
 でも、その暇を潰そうにも、私の行動範囲は限られている。与えられた天幕の外に出る事は許されるが、暑苦しいフード付きの外套を目深に被る事を義務づけられている。そして、決められた人物以外とは会話もしてはいけないし、近付いてもいけない。
 でも、その決まった人物たちは、話し相手になってもらうにはとても疲れているし、忙しいことが分かっているので、とてもじゃないが、「かまって」、なんて言えないだろう。下手に声をかければ、邪魔をする事にしからならない。だから、私はひとりでなんとか空いた時間を潰すしかないわけだ。
 でも、野外で生活しているこの状態で出来ることなんて、限られている。持ってきた本も読み終えてしまった。たまに針と糸を借りて、裁縫もするけれど――月のモノのアレは手作りせねばならないもんで――目が疲れる。それで、考えた揚げ句、結局、釣りをするくらいしか思い付かなかった。
 釣り道具は、そこら辺にあるもので自分で作った。竿は木の枝を伐ったものだし、糸はあまっていた縄を貰ったもの。針だけは、武具の手入れの為に同行している鍛冶屋さんに頼んでもらって作って貰った。そして、小石を詰めた端切れで作った小さな袋に、拾った鳥の羽根を結びつけてルアー代わりにした。
 こんなもんだから、成果は期待できない。たまに、馬鹿な小魚が引っ掛かっても来るが、本当に小さいので、すぐに川に戻している。ボウズの記録を更新中だ。
 毎日、川岸にある大木の下、太い木の根に腰掛け、川面に釣り糸を垂れながら、ぼうっとする。欠伸をしながら、時間を遣り過ごしている。なにもしていないのと、そう変わらない。でも、人の生死に最も近いこの場所でこんな事をしていれば、その内、悟りが開けるに違いない。
 ここは、戦場。現在、侵略戦争の真っ最中だ。
 私は攻める側にいて、戦地を転々と移動しながら、張られた陣の中で、生死を境にする兵士たちを眺めて過している。明日には骸を曝しているかもしれない騎士たちが行き過ぎるのを、ただ黙って、眺めて過している。
「戦況はどうなんですか」
 少し離れた位置に腰掛けるウェンゼルさんに訊ねる。
「一進一退ってところですね。あちらも必死ですから」、と事務的な口調の返答がある。
「ノルト将軍が陣頭指揮を執っているだけあって、粘り強く持ち堪えられていますよ。それでも、足並みの乱れは隠しようもないそうですが」
 ふうん。まあ、グスカにとっては、首都防衛戦だ。必死にもなるだろう。
「まだ、暫くかかりそうなんですかね」
「どうでしょうか。でも、もう、そろそろだと思いますよ。多分、ここ一両日中には」
「じゃあ、また、移動ですか」
 この場所での釣りもきょうでお終いかな。
「いえ、ここはこのままになるでしょう。傷病兵もおりますし」
「ああ、そうなんですか」
 じゃあ、明日もここで釣りかあ。

 本日は晴れ時々曇り、のち、血の雨が降るでしょう。

 ……憂鬱だ。




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