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 このままじゃいけない。私は大きく息を吸って吐いて、心を落ち着かせる。
「まずは止血を。シャツを脱いで下さい」
 言いながら、自分も外套と上衣を脱ぎ、腕まくりをする。そして、部屋の台の上に置かれていた、洗顔用だろう洗面器に水を容れ、手を洗った。酒はないのか、と周囲を見回すと、ウィスキーかブランデーらしきものがあった。それで、もう一度、手を洗った。一応、アルコール消毒の代わりだ。そして、洗面器脇に置いてあったタオルと酒を、共にベッドにいるエスクラシオ殿下の所まで運んだ。手を洗った洗面器も中身を窓の外に捨て、それも運ぶ。
 その間に、ウェンゼルさんは、刺客をベッドから運び下ろした。……うえっ、目が開きっぱなしだよ。
 堪らず、目を逸らした。
 かすり傷と言いながら、やはり、痛むのだろう。殿下はシャツ一枚を脱ぐのにも苦労しているようだ。それでも、なんとか裸の上半身が曝される。……わお!
 彫像のような均整のとれた裸体だ。当り前のように腹筋が割れている。ただ、彫像と違って、そう多くはないが、戦でつけられたのだろう傷痕があちこちに残っていた。
 幸い、脇腹の傷は一直線に引かれた綺麗なもので、肉も削げていなかった。この切り口だと治りも早いだろう。だが、思ったよりも深いようだ。位置的に内臓や動脈や静脈も大丈夫だとは思うが、長さも十センチ以上はある。
 これがかすり傷だなんて、痩我慢を言いやがって。
「沁みますよ」
 私はタオルに酒を染込ませると、それで傷口を拭いた。
 酒を口に含んで吹き掛けるなんて様子がよくあるが、人の口中の細菌の数の多さを考えれば、こちらのやり方の方が良い気がする。私もこういった治療はした事もないのでよく分からないが、多分。兎に角、怖いのは感染症だという事ぐらいは知っている。……畜生、こんな事になるなら、普段から私に、怪我人の治療の手伝いをさせておけば良かったんだ。
 傷口に触れると、う、と短い呻き声が洩れた。
 なかなか良い声だ。そんな事を思ってしまうのは、私にはサディストの気があるのかもしれない。
 流れ出る血と酒で消毒を繰返す。
「くそ……わざとやってはいないか」
 どこか悔しげに言った。
「仕方ないですよ。傷が深いんですから、念入りに消毒しておかないと後が大変です。ウェンゼルさん、新しい綺麗なタオル、どこかにありませんか。できるだけ沢山」
 流れ出る血で、既に真っ赤っかだ。私も手首まで血で染まっている。早く血を止めないと、身体の負担が大きくなるばかりだ。
「探してきましょう」
 部屋を出ていくウェンゼルさんと入れ替わりに、アストリアスさんが、息急き切ってやってきた。
「殿下っ!」
「アストリアスか」
「御無事で」
「ウェンゼルに助けられた……つっ!」
「お怪我を」
「今、医師を呼びにいかせています。それよりも、早く止血しないと」
 血とアルコールのまざった、なんともいえない匂いに塗れながら、私は答えた。力を入れて押さえているにも関らず、後から血が流れ出てくる。縫うべきなのか?
「それよりも、この事を知られないようにしろ。特にグスカ側にはな。それと、そこに転がっている者から王の手掛かりがないか探せ。それと移動できる部屋の用意だ」
「御意」
 おい、こんな傷を負って、えらい冷静だな。でも、その方が私にも有り難い。
「それを飲ませろ」
 残る酒の入った瓶を横目で見ながら、殿下が私に言った。
「馬鹿いっちゃいけません。出血が酷くなるだけです」
 傷口を押さえながら、私は答えた。
「気付けだ」
 不満げに鼻を鳴らす顔色は、若干、蒼ざめている。触れる肌からも滲む汗の感触があって、体温が下がった感じがあった。
「ぼうっとしてきましたか」
「それほどでもない。痛みがあるからな。おまえは大丈夫なのか」
「なんでですか」
「血を見るのが怖いのではないのか。以前、倒れもしたろう」
 ああ、リーフエルグの時の事か。
「あれは、あんまり人並外れて気持ちが悪い様子だったので。普通の死体は見慣れました。それに、血も傷を見るのも、元から苦手じゃありません」
 日本で、もっとエグイものを見た経験があるからな。映像でだけれど、医療の教材用に作ったくも膜下出血時の血管のバイパス手術の様子。脳みそがモロ出しの。あれもそういう物体と思ってみれば、気持ち悪くもなんともないし、逆に興味深かった。その時、付合っていたオトコに話したら、顔を顰められたが。
「そうなのか」
「はい。ああ、今の内に報告してもいいですか。ディディエ王子の事ですが」
 気を紛らわせる為にも。
「話せ」
 私は傷口を押さえながら、王子に関するすべてを報告した。
「……というわけです。ですから、或いは、交渉自体が成立しないかとも思われます」
「また、面倒な跡継ぎを育てたものだな、グスカ王は」
「逆に丸め込むのは簡単かもしれませんね。こちらから具体案を提示すれば、流されて頷きもするでしょう。ただ、王の居場所を吐くかどうかは分かりませんが。脅せば、怯えて口もきけなくなるでしょう。甘やかして懐柔すれば、搦手で嵌められない事もないでしょうが、それにも時間が必要かと」
 途中、戻ってきたウェンゼルさんから受け取った新しいタオルと取り換えて、淡々と事務的な会話を続ける。そうしている内に、出血は減ってきた感がある。
 それから暫くして、やっと、医師が連れられてやって来た。その顔には見覚えがある。以前、私が城で拉致されて帰ってきた時に手当てをしてくれた人だ。
 医師は殿下の傷口を見て、私の説明を聞いて、大丈夫だろうと答えてくれた。改めて医療用の消毒薬で洗った後、塞がりかけていた傷口を縫う事もなく、軟膏を塗ったガーゼを押し当て簡単な治療をすませた。
 そして、念の為、と用意してきていた飲み薬を渡し、飲ませた。
 殿下が一番、辛そうな顔をしたのは、その時だったかもしれない。
 包帯を巻いた後、新しいシャツに着替えた殿下は、アストリアスさんが用意した新しい部屋に移る事になった。
「手掛かりらしき物は所持していませんでした」
「そう容易くは尻尾をつかませないか。だが、近くにいて指示を出した可能性がある。探索を続けろ」
「御意」
「それと、ディディエ王子だが、暫く放っておけ。気を揉ませるだけ揉ませておくといい。それとは別に、城中に残っている者の中でこちらに靡く者もいるだろう。何か洩らすかもしれん。丁重に扱って懐柔しろ」
「御意」
 ……そう来たか。王子は放置プレイに切り替えるって事だな。結構、効果あるかも。それにしても、人が悪い方法でもある。やはり、サディストの気か。
 君、と医師に呼ばれた。
「はい」
「殿下は今晩、熱を出される可能性がある。誰かついていた方が良い」
 ああ、そうか。
「はい。では、私か誰か別の者でもつかせるようにします」
「うん、では頼むよ。私は兵士達の治療があるから。何か異常がみられれば、いつでも呼んでくれ。なければ、朝には包帯を取り換えに様子を見に来るから」
「分かりました」
「キャス、貴方も手を洗った方がいい」
「ああ、そうですね」
 ウェンゼルさんに言われて、自分の両手が赤く染まっているのに、気が付いた。
 まあ、なにはともあれ、大事にならずに済んだようだ。
 不幸中の幸いと、一息つく。
 今、殿下になにかあれば、全てが水泡に帰す。
 結局、アストリアスさんに頼まれて、私が付き添いをする事になった。まあ、内密にするんだったら、しょうがない。
 私達は、その後、殿下ともども二部屋先にある別室に移動した。




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