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 天幕の中にいると自分の息で窒息しそうで、私は外に出た。
 とっぷりと陽も暮れた夜の間を、心地良い風が渡っていくのを感じた。
 強すぎず、肌を撫でていくような優しい風だ。こんな風に落ち込んでいなければ、もっと気持ち良いに違いない。
 ウェンゼルさんは、黙って離れた場所から私をみていてくれている。
 私は、皆に、だいぶ気を遣わせてしまっているようだ。でも、ごめんなさい、と謝る気にもなれなかった。
 もやもやとしたものが胸の内に溜って、口先だけの言葉も出すのを阻んでいる。こういう態度はいけないと分かっていても、今はどうしようもなかった。
 感謝も謝罪も、誰にもする気にはなれなかった。自分を憐れむ惨めさに打たれながらも、それを止められない。唯一できる事と言えば、ひとりで誰からも離れている事だけだ。
 ……畜生。こんな自分、嫌いだよ。
 並ぶ天幕の間を抜けて、小川の流れる場所まで出る。そこまで来て先客に気付き、回れ右をしたところ、「馬鹿者が」、と言われた。
「何故、巫女をかばう」
 ……うしろに目でもついてんのか、あんたは。
 私は立ち止まると、振り返って、川べりに佇むエスクラシオ殿下の後ろ姿に向かって答えた。
「巫女をかばっているわけじゃありません。私自身が嫌なだけです」
「非情にはなりきれぬか」
「当り前です」
 振り返らないその人に向かってきっぱりと言ってやる。
「何故」
「何故って」
 決まってんじゃん。
 美香ちゃんはまだ十八になったばかりで、何も知らなくて、人生経験も足りなくて、でも、赤ちゃんが出来て不安だろうに、自分が原因で戦争になっているって知って、そして……私と同じ、日本人だ。この世界で、たったひとり私と同じ国に生まれ育った……ああ、そうなのか。私が拘るのは……
「黒髪の巫女が生き残れば、おまえは生きてはおれぬ」
「……どうしてもですか。どうしても、どちらかが死ななければいけませんか。女である事を捨てても駄目ですか」
 その答えはなかった。
「先の褒美として、巫女の命を助けることを願っても駄目ですか」
「……ランディが私に食って掛かった。これまでは、グレリオだったのだがな」
 そう言って、私を振り返る。
 薄い月明りの下、影ばかりが濃く、その表情はぼやけて見えた。しかし、そこに怒りはなく、何故か寂しい印象を受けた。
 何故だろう。
 陽の下で血のついた甲冑を身に着ける姿よりも、人とは異質な存在に感じた。死神の名が相応しく感じる。否、闇の王と言うべきか。青白い月の光そのもので出来ているかのようだ。
「人の心は移ろうものだ。他者からの影響を受け、考え、思い、惑い、悩む。それ故、人であるとも言える。その心なくしては、人とは言えぬと私は思う。しかし、それだけに厄介でもある」
 夜に溶ける声は密やかで、知らない内に懐の内に忍び込んで来るようだ。
「なんの話ですか」
「例えば、誰も寄りつかぬ塔に幽閉され、生涯、すくなくとも数十年の長き時に渡って誰とも口をきくことを許されず、会う事も許されず、成すべき事もなく、ただあるだけの存在を人と呼べるか。孤独の中で、それで生きていると言えるか」
 一瞬、息が止った。
 言わんとする事が分かった。
「……もし、ふたりとも生かすとなれば、黒髪の巫女はそうなるという事ですか」
「おまえならば、それに耐えられるか」
 やはり、どちらかが、という事か。
「そこまでの犠牲が必要と」
「ランディの変化を見れば、致し方あるまい。本人が否定しようとも、その色は滲み出る。おまえ自身が女である部分を捨てたと口にしようとも、どれだけ注意を払おうとも、影響を受ける者は出るだろう。それが黒髪の巫女ならば、より強く表れるとも考えられる。それでなくとも利用しようと考える者は多いだろう」
 だから、どうか、と問われ、答えられるわけがなかった。そんな滅茶苦茶な選択肢、誰にも選ぶことは不可能だろう。
 他人よりは孤独に対して耐性はあると思う。だが、そんな監獄に入れられるような生活、否、監獄に入れられる方がまだましかもしれない。
 誰にも会う事もなく、生きている意味さえ疑われる。
 それは、死よりも良いと言える事なのか。
 精神がもつのだろうか。
 数十年後、年を取ってから、無事にそこから出れたとして、どうなるのか。
 待ってくれている人がいるのか。
 それとも、更なる孤独があるのか。
 一度、生きる意味を失ったものが、新しい生活を受入れる事が出来るのか。
 自分が知るものとすべてが変わってしまっているだろう世界で、どうやって生きていくというのか。
 人生の内、長い時間を監獄の中で過した囚人の中には、出所を嫌がる者もいるそうだ。
 ……きっと、ふたたび自由を得られる事になっても、解放される喜びよりも、再び異世界に来た時のような気持ちになるだろう。途方に暮れ、不安と恐ろしさを感じて生きていかなければならない事が分かるのだろう。しかも、今よりもずっと、年を取った状態で。
「戦が終れば、私を幽閉しますか」
 問えば、いや、と否定の言葉がある。
「それは本意ではない。女王陛下や兄上が許す筈もない」
「でも、」
「ランディもそこまでは愚かではない。己の感情がおまえの立場を悪くする事は知っている」
 この人は……
「感情もまた、時が経てば移ろいもしよう。それとも、大地を踏みしめるが如く落ち着きもするか。そのどちらかを待つ事になろうな」
 私は重ねて問う。
「……運命って信じますか」
 沈黙があった。
「黒髪の巫女は、ジェシュリア王子と会った事を運命と言いました。彼と会う為に自分はこの世界に来たのだと」
「あると言えばあるのだろう。神が存在するのと同じように」
 吐息が答えた。
 狡い言い方だ。
「おまえは信じるのか」
「いいえ」
「だろうな」
 ふ、とした笑い声があった。そして、言った。
「ならば、生きろ。運命などに頼らず、己の才覚を頼りに生き抜け。何を捨てても何を犠牲にしようとも、生き続ける事を欲するがいい。そして、奇跡などなくとも何者であろうと生きていける事を、証明してみせろ」
 その瞳は夜の闇の中で判然としないのに、私を射竦める。
「甘さを捨てろ。これは戦だ。ランデルバイアの一員として、おまえとても例外ではない」
 口調は静かであるのに、なんて惨い。容赦のない。
「なんでそこまでしなきゃいけないんですか。なんでそんな事を証明しなきゃなんないんですか」
 関係ないあんたに!
「宣誓をしただろう。その身と命を引き換えに、ランデルバイアの為に働くと誓った筈だ」
 誓い、誓い、誓い!
 道義を捨てても、守る必要があるものなのか。それほど価値のあるものなのか?
「でも……彼女だけなんです。この世界でたったひとり同じ国に生まれ育って、私が仲間と呼べる人間は。彼女がいなくなれば、私は本当にひとりになってしまうんです」
 異邦人である私。異分子である私。
 人種が、というよりも、瞳の色が黒いというだけではみ出した存在だ。黙って、絶滅を待つしかない。
 最後の一羽になってしまった時、年老いたトキは何を思っただろうか。でも、私がトキと違うのは、私がこの世界では邪魔な、本来、いてはならない存在だという事だ。
「向こうはそうは思っていない。己が生き残る為であれば、自らの手は汚さずとも躊躇いなくおまえを殺すだろう。現に、大勢の民の命よりも我が身と腹の中の子を優先させた。現にカリエスは暗殺されそうになったところを逃れて来た」
 カリエスさんが……そんな事、ひとことも私に言わなかった。
「使者を手にかけるは、宣戦布告と同じ。それだけの覚悟をファーデルシアも持ったという事だ」
 覚悟。覚悟か。
 これまで、私はどれだけ覚悟を決めてきた事か。覚悟しようとしてきた事か。
 私には血を分けた家族もおらず、この先、家族を作る事も許されない。たったひとりの仲間ですら、殺されるのをみている事しか出来ないでいる。邪魔者扱いされながら、そうしてひとり年老いていく未来に、どれだけの覚悟が必要なのか。そうして生きていく事にどれだけの意味があるというのか。
「貴方には分からないです。故郷があって、心配してくれる兄弟がいて、想ってくれる女性がいて、信頼できる仲間がいて、慕ってくれる部下がいて、なにもかも持っている貴方には、私の気持ちは分からないです」
 ひとりで平気だと思っていたのに、そうじゃなかった。帰る場所がなくても大丈夫だと思っていたのに、そうじゃなかった。
 スレイヴさん達に会って、気付かされた。損得感情なしに、あんな風に思いあえる相手がいる事を羨ましいと思った。
 気付いてしまった今、突き刺さるようにそれを感じる。
 何故、ルーディやミシェリアさんや、ちびっこ達を守りたかったか。あの人達が好きだったから。はみ出した私を何も言わずに受入れてくれて、私も本当の家族以上に好きで、あそこが私の帰る家だと思っていたから。そして、ミシェリアさんも、ここが私の家だと言ってくれたから。
 或いは、私の仲間と呼べたかもしれない人達……でも、もう、あそこにも戻れない。帰れない。二度と会えないかもしれない。でも、守る事ならできるかもしれないと思った。守りたいと思った。
 美香ちゃんはそれとは違うけれど、でも……
「確かに、おまえの気持ちは分からないだろう。だが、今更、そんな泣き言が出るとは意外だな」
「それを気付かせたのは、貴方やあなた方でしょう」
 本気で泣きそうになりながら、私は訴えていた。
「誰も私の名前をちゃんと呼べないじゃないですか。高原霞って名前を、きちんと正確な発音で呼べるのは、この世で美香ちゃんだけなんです。私の本当の名前は、『おまえ』でも『キャス』でもなくて、『カスミ』なんですよ。そんな事すらも忘れてしまっているでしょう、貴方達は!」
 呼ばれない名前はないのと同じだ。
 名を持たず、
 国を持たず、
 仲間と呼べる者も持たず、
 肩書きすらもない。
 あるのは上っ面を形作るものばかり。
 キャスと呼ばれる、白髪の魔女という偶像。黒髪の巫女のなりそこない。
 確かなものなど何一つない。
 私は一体、何者なのか?
 何故、ここにいるのか?
 私は踵を返すと、自分の天幕まで走って戻った。そして、外套だけを脱ぎ捨てると、そのまま寝台で毛布に包まった。
 孤独だけが、ひっそりと私に寄添っているのを感じた。




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