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 アメイジング・グレースは賛美歌だが、コマーシャルに取上げられたり、有名アーチストがよく好んで歌う事からも、日本人にも馴染み深い曲だ。無神論者であろうと、耳に残るメロディが良いのだろう。
 それが、こちらの世界の人間にも受入れられるのは、当然な話だ。信心深いぶん、余計に。

 私の様子がおかしいとアストリアスさんにも思われたようだが、深く問われる事はなかった。
 笑いも収まって、用意された天幕に、私は早々に引っ込んだ。
 彼等がこの状況に対して、どのような行動に出るか興味はなかった。好きにすれば良い、と思う。
 なんであれ、所詮は凡人でしかない私の出る幕などない。
 その夜は、疲れもあってすぐに眠りについた。
 次の朝、早くに起きたけれど、隊が移動する様子はなかった。殿下の到着で、皆、動き回ってはいるが、どうやら進展はないみたいだ。小耳に挟んだ話では、群衆の数はますます増えつつあり、どうにもならない状況のようだ。
 ええじゃないか、と同じような感じか? あれは民衆の不満が溜った揚げ句のもんだったと思うが。
 しかし、一体、どういう経緯を辿って広まったかには興味がある。
 美香ちゃんの存在は、まだ公にされていない筈だから、たまたま歌っているところを聴いた誰かが広めたか、そんなところだろうとは思うけれど。
 それに、今、進路を塞いでいる人々は、どういう風に集まってきたのか、どうしてそうしようと考えたのか、それも知りたい気もする。純粋な好奇心で。
 なんでだろうなあ?
 ……いや、関係のない事に首を突っ込むとろくな事はない。大人しくしている方が身のためだろう。好奇心は猫をも殺す。
 関係ない。私には、関係ない。大体、知る方法なんてない。
 天幕の中でする事もなく、ただ、だらだらと寝転がって過す。
「キャス」
 天幕の外から呼ぶ声がした。グレリオくんの声だ。
 のろのろと身体を起こし、出入り口から顔だけを出す。
「なんですか」
「いや、その」
 グレリオくんは私の顔を見てから、躊躇うように瞳を伏せた。
「少し、散歩しませんか。天幕の中ばかりにいては、気が滅入るでしょう」
 珍しい誘いだ。彼からは初めてではないだろうか。でも、
「ごめん、そんな気分じゃないんだ」
 人と話したい気分じゃない。
 ちらり、と横を見ると、ウェンゼルさんが難しい顔をしている。殿下の事を皆にチクったのか。
「そう、ですか」
「うん、ごめん」
 顔を引っ込めようとする私に、「あの、」、とグレリオくんが大きな声を出した。
「レティから手紙が着いて、その、貴方のことをとても心配していました。無事でいるか、元気でいるかって」
 ああ、レティと、ちゃんとそうやって連絡取ってんだな。帰ったら、ふたりは結婚するんだろうなあ。
「そう。元気だって伝えておいて」
 それだけ答えて、中に引っ込んだ。
 いいな、羨ましいな、と思う。そして、次に吹き出した。
 この私が、他人の結婚を羨ましがるなんて!
 ……いや、そうじゃない。結婚したいわけじゃない。オトコが欲しいわけじゃない。欲しいのは、その結びつきだ。
 皆、挨拶だけを残して私の横を通り過ぎていく。誰かと一緒に幸せそうな顔をして、声だけをかけていく。私はひとりそれを眺めているだけだ。
 そんな事なら、いっそ、誰も通らない所にいた方が良いかもしれない。
 ふ、とそう思った。
 その方が通り過ぎる人達もいちいち挨拶なんかしなくてすむし、目障りにならないだろう。ああ、今ならば、塔に幽閉される事もふたつ返事で引き受けられるな。
 そう思った。
 これから先、どうしようかなあ……

 それから仮寝を繰返して、どれぐらい経ったのか。
 外が静かなので、ちょっと覗いてみた。すると、誰もいなかった。ウェンゼルさんもいない。
 どうやら、寝ている間に、ひとり置いてけぼりを食ったみたいだ。皆、何処へ行ったのだろう。
 でも、不思議な感じ。
 本当にひとりだ。清々しいぐらいにひとりだ。
 こんな事は、久し振りだ。いつも、寝る時以外は誰かが傍にいるのが当り前だったから。
 今なら、何処にでも行ける。
 そう思った。
 外に出たい。
 強烈な衝動を感じた。
 私は急いで軍服を脱いで、シャツとズボンだけの姿になった。上から外套を羽織り、自分のショルダーバッグだけを持って天幕の外に出た。そして、半ば駆けるようにして陣の外に出た。
 後先、何も考えず。
 方角さえ定めず。
 ただ、衝動に従って行動した。
 それから何処の道をどう行ったのか、はっきり覚えてはいない。足の向くまま進んで、広い草原に出た時、立ち止まって思いきり深呼吸をした。
 身体の中を風が吹き抜けていくような心地がした。
 上を見上げれば、雲一つない青空が続いていた。草の生える大地と空以外は何もなかった。でも、足下に、風に揺れる一輪の小さな白い花を見付けた時、私は声をあげて笑っていた。

 自由だ!




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