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 特に当てがあるわけでもなく、私は彷徨っていた。
 見知らぬ土地を、ただ風の吹く方向に向かって歩いた。
 追っ手はなかった。まだ、私がいなくなった事には気付かれていないらしい。
 追っ手どころでなく、危険な真似をしている事は分かっていた。馬鹿なことをしている自覚もあった。でも、そんな事はどうでも良かった。怪我をしようが、死のうが、襲われようが、どうでも良かった。ただ、目の前にある自由の方が、重要だった。
 誰にも命令されず、何も言われず、気遣われず、ただ好きなように好きな方向に行ける事が嬉しくて仕方がなかった。
 ……ああ、これじゃあ、本当に猫だ。野良猫、いや、家出猫か。迷い猫。
 そう思ったらおかしくて、また笑えた。
 日暮れまでの二時間ほどを歩いた頃、小さな村を見付けた。
 家々の窓は木戸で塞がれていたけれど、細い灯の光が洩れていた。人は住んでいるらしい。
 私は村の中で一番大きな家の扉を叩いた。
「すみません、戦から逃げて来たのですが、一晩、泊めてもらえませんか」
 嘘はついていない。
 扉が細い隙間を作った。
 固太りのがっしりした体形の禿頭のおじさんが、その向こうに覗いて見えた。
「突然、すみません。ここまで逃げて来たのですが、陽も暮れてしまって。一晩、納屋の隅でも眠る場所をお借りできないでしょうか」
 黙って、あっちへ行け、と手を振られた。扉の隙間も閉じられる。
 あー、やっぱり……
 この戦時下でなくとも、他所者を家に入れるのは危険と判断するのは分かる。でも、野宿も心許ない。もう一軒、家の扉を叩いた。
「他所者はとっとと出て行きなっ!」
 今度は露骨に追い払われた。分かっているけれど、ちょっと悲しい。
 でも、もう一軒だけ、と勇気を振り絞って戸を叩く。と、痩細ったお爺さんの姿が、ちらり、と見えた。
「うちにゃあ、泊めるとこなんてないよ」
 そう断られた。
「隅っこでもいいんです。ご迷惑をおかけしませんから」
「そうは言っても、儂は一人暮らしだしな。屋根があるだけで良いってんなら、神殿に行くといい」
 そう言って、扉が閉められた。
 神殿? どこ?
 でも、そういう事ならば、行ってみよう。神の家ならば、無神論者相手でもむげにはすまい。
 私は道を進んで、それらしき建物を探した。
 宵の口の時間であっても、見知らぬ土地で、街灯のひとつもない道をひとりで歩くのは心細い。おっかなびっくりで、歩みも自然と遅くなる。こんな暗さは、滅多に経験できるもんじゃない。日本にいる頃、道端で痴漢にあった時の方がまだ明るかったくらいだ。
 ナマふくろうの声、初めて聞いたよ。うわっ、足下、今、なんか通った!
 光るふたつの目がこっちを見ていた。イタチか、あれ? マジ、初めて見た。
 気がつけば、蛙の鳴き声が耳に入った。ちぃちぃと高い声の虫の鳴き声も微かに聞こえてくる。
 なんだ。怖くないじゃん。いや、怖いには違いないが、必要以上に身構える必要もなさそうだ、と気がついた。いざとなれば、防犯ベルがある。村人には顰蹙をかうだろうが、不審者撃退にはなるだろう。なんせ、兵士でさえびびったんだから。
 私はひとつ深呼吸をして、また神殿を探して歩き始めた。
 それから、三十分ぐらい歩いた先、牧場の隅にぽつん、と建つ神殿を見付けた。
 扉はついていたが、鍵はかかっていない。恐る恐る、開いてみた。すると、思いがけず、数人の人影があった。手に蝋燭を持ち、順番に、正面の台の上に飾られている小さな像に祈りを捧げている。
「あのう、」
 声をかけてみると、ひとりの人が私を振り返って、にっこりとした笑顔を浮かべた。まだ若い女性だ。
「あなたも神のお導きあって、いらしたのですね」
 ……いきなり断定かよ。
「いえ、戦を逃れてここまで来ただけなんです。一晩、過せる場所を探していまして。ここにいても良いでしょうか」
 すると、まあ、と大袈裟に驚く表情があった。
「それはお気の毒に。どうぞ、中に入ってらして。ここにいる皆、神の導きあって集いし仲間です。苦境にある者を追い出したりはしませんわ」
 はあ。なんだか大袈裟っぽいが、背に腹はかえられない。少なくとも、油断させておいて強盗するなんて真似はしなさそうだ。  私は、そろそろと中に入って、並ぶベンチの後ろの方のひとつに座った。
 まあ、いいや。勝手に寝よう。疲れた。
 そう思って横になったところ、突然、聞こえてきた歌に、ぎくり、とした。
 アメイジング・グレースだ。
 歌詞はこちらの言葉に直されているが、フレーズはまったく同じ。この場にいる私以外の人達全員が、声を揃えて歌っていた。
 うわあ、なんて所に来ちまったんだ、私っ。例のいっちゃってる集団の人達だ。つか、ひょっとして村から拒絶されたのは君らのせいか! 一緒にされた!?
 ……あー、なんだかなあ。まあ、いいけれどな。基本的には人畜無害みたいだし。しつこい勧誘さえなければ、どうって事はない。
 夜が明けたら、とっとと出ていこう。そう考えてもう一度、寝直そうとしたら、最初に声をかけてきた女性が近付いてきた。
「よろしければ、少し、お話ししませんか」

 ……壺も印鑑も買う金、持っていませんが?
 これは、なんかの呪いかよ。アイリーン、君もなかなかしつこいな。




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