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 戦の最中の人間の心理状態は異常だ。戦っている最中でなくとも、直面しているだけで、かかるストレスに平常心を失う者がいる。理屈なく、手近なところで暴力行為に走りもする。
 私はそれを身をもって知っている。
 だから、ルーディが、敵国と通じたかもしれないという疑いを持たれて連れていかれたのならば、どうなるか分かったもんじゃない。無防備な若い女性でも、だからこそ、容赦しない場合もあるだろう。
 だが、既にもう連れていかれて三日が経っているという。いや、もう四日か。
 どうか、ルーディが無事でありますように。
 もし、神様がいるならば、彼女を助けてくれますように。酷いめに遭っていませんように。遭いませんように。お願いです。お願いします。どうか、どうか……
 私は、この世界に来て、初めて祈った。
 夜の布団の中で深い眠りに就く事もできず、祈りながら夜明けを待った。

 次の日、戦が再開された、とホルトくんが教えてくれた。
 都に向かう途中の砦で、ランデルバイア軍とファーデルシア軍とが戦っている最中だという。
「どこの砦?」
「ヨランダって聞いた。ここから西に馬で三、四日ほど行ったところにある」
「三日……」
 全体の移動距離からいけば、随分と近付いた。が、行軍では同じ距離を行ったとしても、通常よりも倍以上の時間がかかる。この状況では遥か遠くに感じた。
「大丈夫だよ、そんなに時間かからないよ」
 ホルトくんは、私を励ますように言う。
「うん、そうだね」
 口の端をあげて笑みの形を作ってみる。でも、上手くいかない。なんて、情けない。
 睡眠不足のせいか、頭の芯にぼうっとした感じがある。眠くはあるのだが、それとは反対に冴え冴えとした感もある。怠いのに、そこら中を走り回りたい気分もある。相反するふたつの感覚に身体が支配されて、ひとつの事に集中も出来ず、何をやってもちぐはぐな感じがある。脈絡もないバラバラの事をしているような気がする。
 こんなんじゃ駄目だ、と分かってはいる。
 こういう時にこそ落ち着いて、ちゃんと食べて、ちゃんと眠らなければ身体はもたないし、いざという時に考えられないし、動けない。よくない傾向だと自覚してはいるのだが、出来ないでいる。
 役に立たない心配と祈る事しか出来ないでいる。まるで、それに依存しているかのように。……自己嫌悪に蝕まれて、チーズみたいに穴だらけになりそうだ。
 でも、穴を塞ぐ手立てはなく、その日も、それだけで一日が終った。

 その次の日も、前日と代わり映えもなく、なんの進展もなかった。
 ただ、街は違うみたいだ。ランデルバイアがいよいよ攻めてくるというので、これまで逃げようとしなかった人々も慌てて避難を始めているらしい。窓の外から、喧騒が聞こえる。
 でも、私にはまったく関係ない事で、する事もなにもない。
 昼間、眠れもしないのに部屋のベッドの上に転がっていると、扉をノックする音が聞こえた。
 はい、と起き上がって返事をすると、ヒルズさんだった。
「お茶をいれてきたんだが、どうかと思ってね」
「あ、ああ、ありがとうございます。いただきます」
 仄かに漂う香りは、ハーブティのようだ。でも、アストラーダ殿下のところで飲んだものとは、違うようだ。甘い匂いがする。
 カップを受け取れば、色も若干、濃いめ。
「かわった香りのするお茶ですね」
「ああ、ガーネリアではよく飲まれてたもんだが、最近は手に入りにくくてね。口に合うかどうか分からないが」
「へえ、そうなんですか」
 一口、飲んでみる。
「どうだい」
「匂いは甘くても、味はそうでもないんですね。すっきりした感じ。口の中がさっぱりとします」
「そうだろう。たまにゃあ違うもんを口にするのも、気分が変わっていいもんさ。最初は違和感があっても、飲んでいる内にすぐに慣れる。当り前になっちまうもんだよ。そん時、また前に飲んでいたもんを飲めば、また新鮮に感じるもんさ」
「ああ、そうかもしれませんね」
「そうやってその土地の土や水で育ったもんを食べている内に、人はその土地に馴染んでいくのかもな。私も魂はガーネリアのまんまだが、身体はすっかりこの土地に馴染んじまった。あんたはどうだい?」
「私ですか? 私は……」
 なんとも答えようがない。
「ランデルバイアにいたのは、ふた月ほどですし。その前に、ファーデルシアには七ヶ月ほどいましたが」
 馴染むどころじゃなかった。大体、この世界に来て、まだ一年ほどしか経っていない。ああ、あれから、もう一年になるのか。
「そうかい。それじゃあ、まだ慣れるどころか、右も左もわからねぇ状態だろうなあ」
 ヒルズさんはのんびりと答えた。
「けど、その内、落ち着くさ」
「だと良いんですけれど」
「ああ、大丈夫さ。嫌でもそうなる。そうすりゃあ、見えなかったもんにも気付くようになるし、分からなかった事も、自然と理解できるようにもなるさ。受入れられる事も増えるよ。そうやって、気付けば、ちゃあんと地に足がついてたりするもんさ。下手すりゃ、根っこまで生えちまったりする。まあ、そうなっちゃあ、今度は動けなくなったりもするが、それも悪いこっちゃねぇさ」
 そう言って、笑った。
 あれ、なんか……
「神の御遣いのあんたが空を恋しがるのは分かるが、地の上の暮らしも捨てたもんじゃねえよ。悲しい事も一杯あるが、楽しい事も同じだけ一杯あるさ」
「そう、ですかね」
 空を恋しがる? んなわけねぇじゃん。怖いばっかだよ、って、あれ、私が神の御遣いってなんで知って……なんか、ぼうっとしてきた。
「ああ、そうさ。今は辛い事ばっかりかもしれねぇが、その分、良い事もあるよ。そういうもんさ。神さんは、ちゃんとそういうのも分かってらっしゃるからな。あんたにも、きっと、この先に用意されているよ」
 瞼が重い……目が開けてらんない。身体が……揺れる。変だ。
「だから、今はゆっくり休んでおけばいい。楽しい事があったら、ちゃんと笑えるようにな」
 手からカップが取上げられた。
 あ、倒れる。
「次、目を覚ました時には、嫌な事はぜんぶ終っているよ。そしたら、ちょっとの間だけ泣いて、また、歩きだしたらいい」
 ちくしょお、一服、盛りやがったな……ぜんぶ終っているってどういう事だよ。あ、もう、駄目だ、意識が……
「ゆっくり、おやすみ」
 ベッドに倒れ込んだ頭を撫でる感触があった。
「眠ったか」
「ああ、可哀想に、ろくすっぽ眠れてもいなかったんだろうな。多分、明日の朝までぐっすりだろう」
 カリエスさん? あんたか、薬盛ったの、くっそお……おぼえてろ……
 足が持ち上げられて、ベッドにそのまま寝かしつけられた。掛け布団が肩まで引き上げられる感触がある。駄目だ、抵抗できない。指先ひとつ動かせない。怠い。
「いいのかい、目が覚めたら怒るんじゃないのかい」
「それでも、目の前で何も出来ずに苦しむよりはマシだろう。どの道、彼女にできる事はない。このままでは彼女の身体ももたないだろう」
「そりゃあそうだろうが、」
「言って言うことを聞くものでもないからな……まだ、泣き喚いてくれた方が安心する」
「そうかい」
「ああ、まだ、誰も一度も泣いたところを見た事がない。そうしてもおかしくない時が、これまでも何度もあったにも関らずな」
「そりゃあ、辛いな」
「ああ」
「旦那がじゃなくて、この娘がさ」
「ああ」
 ばかやろう、誰が本気で男の前で泣くかよ。そんな真似できっか……そんな誘うような真似……そこまで無神経な女じゃ……
 それから先の彼等の会話は聞いていない。

 深く沈むように、私は眠りに落ちていた。




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