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暗い夜道を、ただ方角だけを定めて進んだ。
ファーデルシアの王城を目指して、時々走っては、疲れたら歩くを繰返した。外套は宿に置いてきてしまったけれど、身体を動かしていれば寒くはなかった。ただ、時々、ぐらり、とした眩暈を起こすのは、まだ薬の影響が残っているせいか。
途中、馬が走る音に隠れたが、あれは、私を追ってきたカリエスさんだったかもしれない。
行く先、聞こえてくる音や声が次第にはっきりとしてくるのを確認しながら、間違いなくルーディのいる場所に近付いている事を知った。
行ってどうなるか、何が出来るかなんて分からなかった。でも、とんでもなく危険な行為をしようとしている事は分かっていた。ひょっとしたら、直ぐに殺されてしまうかもしれない。
でも、それでもかまわないと思った。これは、ただの自己満足だ。自分が傷つこうが、他の誰が傷つこうが、死のうがかまわなかった。或いは、美香ちゃんでさえ、どうなったってかまわない。ただ、ルーディさえ無事ならば、それで良い。それさえ確かめられれば、文句はない。
人ひとりの許容量なんてたかが知れている。思いは無限大、なんて誰かが言っていたが、その中で本当に守れるものなんて一握りだ。少なくとも私の心は、そんなに大きくできてはいない。
だから、今、私はルーディを取る。そうする事で、私は自分を守る。
矛盾しているようだが、私にとっては、それが正しい答えだった。本当は、カリエスさんを詰る資格など、私にはない。神という名はついていないけれど、私もルーディを通して、私の信じるものを守りたがっているだけだ。でも、所詮、人間なんてそんなものだろう。
二時間ほど歩き続けて東の空が明るくなりかけの頃、行く手に灯が見えてきた。
一面が薄い群青色に染まる中、私はファーデルシアの王城の前にいた。
拍子抜けする程に何もなかった。
ある筈の戦いも、その痕も、死体すらもなく、本当に何もなかった。
ランデルバイアの兵どころか、ファーデルシアの兵さえいない。門兵どころか、人っ子ひとり姿がなかった。
一体、何が起きたのか、何が起きているのか。
近くの茂みに身を潜ませて、様子を窺う。
喧騒は聞こえる。城の中からだ。
正門は開かれているから、そこからランデルバイア軍は入ったに違いないが、そこまでの経緯が分からない。
中に手引きする者がいたか、或いは、夜陰に乗じて塀を乗り越えて密かに中に入り込んだか。……まあ、この際、どっちでもいい。
問題は、私はこれからどうするか、だ。
ルーディを探すにしても、何処にいるか分からない。しかし、所構わず探し回るには城は広すぎるし、危険も大きい。
実際、死ぬ覚悟なんてとうに出来ているが、それでも城の中に入った途端に、ばっさり、というのは避けたい。ルーディも無事で私も無事である事が、ベストな結果である事に間違いはないのだから。
取り敢えず、真正面から入るのはやめて、裏口を覗いてみる事にした。荷物の搬入口に使われている方だ。
多分、普段は食料品が主に運び入れられるであろうから、造りとして倉庫や厨房が近いに違いない。そういう場所で争っている確率は低いような気がする。そこから入って、まずは一度、訪れた事のある美香ちゃんの部屋に行ってみる事にした。
城壁づたいに走って、かつて荷馬車に乗って入った事のある通用門を目指す。
途中、上からなにかが目の前に落ちてきた。ごん、と硬い音を立てて地面で跳ねると転がった。これは、兜か? 鋼の打ち合う音から、どうやら、城壁の上で人が争っているらしい。
……あっぶねーっ! これ当っただけでも、打ち所が悪ければ死ぬ。前方後方だけでなく、上方も注意だ。でも、お陰で、ぼうっとしかけていた頭が、一気に覚める。緊張感を取り戻す。
そろそろと通用門に近付き、壁にぴったり張り付いて中を覗く。
幸い、誰もいないようだった。走って次の物陰に移る。そうやって移動を続ける。卵の殻の上を歩くような注意深さで。獲物を狙う猫のように足音を潜めて。
あちこちに、戦の準備を進めていたのだろう物資などが置かれていて、先の見通しが悪い。でも、その分、私も見付かりにくい。
一度、案内された美香ちゃんの部屋へは、この先をもう少し行ったところの建物の間を抜ける通路を通り、途中、右にある小さな階段を上っていった記憶がある。
あれは、神殿前でエスクラシオ殿下と初めて会ったその後だ。
……あれ? 神殿にいる確率の方が高いのか?
暫し考える。だが、やはり、当初の予定通り、部屋に先に行ってみる事にした。神殿のある場所はエスクラシオ殿下も知っている。巫女のいそうな場所として、真っ先に押さえるだろう。つまり、争いが起きている可能性が高い。
金属の鳴る音が、壁に反響して幾重にも重なって聞こえてくる。人の呻き声や、叫び声らしきものも交じっている。
皆、ばらばらの場所で戦っているようだ。一体、どこで争っているのか、まだひとりも姿を見ていない。
と、おっと!
爪先に当るものに気がついて、足を引っ込める。下方も注意。
人だった。ファーデルシア兵。もう、死んでいる。足を動かした拍子に、ぴしゃり、と水音がした。
溜る血の匂いが漂っていた。前は嗅いだだけで吐きそうになっていたこの臭いにも、既に慣れてしまった。この短い間に、人の死が当り前になった。なんと簡単に人が死んでいく事か。
私は通路を塞ぐように横たわる死体を跨いで、先を急いだ。
……なんだろうな、この感覚は。どこか素通りしていく感覚だ。怖いとか、哀しいとかそんな感情はおざなりにして、なんの感慨もなく、ただ、『ああ、そうか』、という頷く感覚。
ふ、とひとつの言葉が頭の中に浮かんだ。
メメント・モリ ――死を想え。
常に死を想って生きる事を充実させよ、というラテン語の言葉。よりよい死を迎える為に一生懸命に生きろ、という解釈に通じるのか。ならば、それは、東洋思想と重なる。
けれど、そう生きたところで、他人の手によって無に帰す命もある。それまでしてきた努力が水の泡になってしまう。おそらく、私はそれが嫌なのだ。頑張ったら、頑張った分だけ見返りが与えられるのが、当り前であって欲しいのだ。
利用されるでなく。無駄になるのではなく。断ち切られるのではなく。
私自身を振り返れば、そう一生懸命努力して生きてきたわけではない。そこそこ、という感じだ。でも、ルーディは違う。ルーディも、今、あそこにいるちびっこ達同様、早い内に両親を亡くしてあの養護施設で育った。ミシェリアさんをもうひとりの母親のように思って、成人してからも施設に残って、手伝っている。
彼女自身、あまり過去を話そうとはしないので、ほんのさわりだけしか聞いてはいないけれど、これまで寂しい思いもしてきたと思うし、苦労してきたんだと思う。それは、ちびっこ達への接し方を見れば分かる。一緒になって怒ったり、笑ったり。そして、なによりも許す。
えらいな、と思った。怒鳴って叱りもするけれど、ルーディは、ちゃんと直ぐその後には抱き締めて、愛情を伝える。叱られたちびっこが、寂しくならないように。
なかなか出来ないな、と思う。大人であっても、感情の制御はできるもんじゃない。たとえ、こども相手であっても。少なくとも、私には出来なかった。或程度のインターバルが必要だった。それを易々と出来るルーディはすごいな、と素直に感心した。
普段、のんびりし過ぎているとか、ちょっと大ざっぱであったりもするけれど、それは経験の差であるし、性格だ。大した欠点じゃない。きっと、将来は良いお母さんになるに違いない。
巫女と呼ぶなら、美香ちゃんや私よりも、ルーディの方が相応しいと思う。でも、巫女なんかよりも、素敵な人と恋をして、結ばれて、自分の子を産み育てて。色々ありはするだろうけれど、穏やかで真当な幸せが似合う娘だ。幸せになるなら、誰よりも真っ先にルーディがなるべきだと思う。
私の勝手な思いではあるのだろうけれど、でなければ、世の中が間違っているとも思う。でも、世の中が間違っている事は多い。だから、私はここに来ている。私の事で巻込まれているならば、尚更、許せるものではない。ルーディが許してくれても、私は私が許せない。
……私は、こんな時に何を考えているんだろうな。
建物を刳り貫いたような通路の向こうから、剣を打ち合う音が間近に響いて聞こえた。切り取られた画面のような範囲を、右から左へ二人の騎士が剣を御互いに叩き付け合いながら、移動していくのが見えた。
私は立ち止まって壁に張り付いて息を潜め、騎士達が壁の向こうに見えなくなるのを待った。
見えなくなったところで、急いで階段の上り口に近付き、上を目指した。
でも、その上からも、人の争う気配があった。