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 桶にぬるま湯を汲んで来たウェンゼルさんは、それを手桶に少しずつ移して取り替えながら、私の顔、手、足を絞ったタオルで拭いた。そうするのが当り前のようにしていた。
 私は黙って、されるがままにしていた。
「グルニエラが寂しがっていますよ」
 片手に人の血に汚れた私の足を置いて拭いながら、ぽつり、とウェンゼルさんが言った。
「貴方がいなくなってから、貴方を探すようにいつもあちこち見回して、近付く者が貴方でない事にいちいちがっかりしている様です。一度、他の者が乗ろうとしたのですが、嫌がって乗せませんでした」
 そうか。
「気まぐれな子だから」
「……そうではないでしょう」
 前にしゃがむウェンゼルさんは、俯く私の顔を覗き込んで言った。
「主である貴方が好きだから。一緒にいたいと思うからでしょう」
 でも、そんなのは一時的な事で、いない事にもすぐに慣れるよ。
「貴方は、貴方にあるその寂しさが、他の者にも同様にあるという事に気付かないでおられる。いや、敢えて、気付かない振りをされているのか。そうやってでしか、ご自分を守れないと思っておられるようにも私には感じられます」
 黙っている私に諭すでもなく、ウェンゼルさんは静かに言った。
「喪失感は貴方の為にだけあるわけではないですよ……と、私の声は、今の貴方には届かないのでしょうね」
 私も寂しいですよ、と囁く声で付け加えられた。そして、また足を拭い始めた。
 丁寧に、片方の掌で足を包むようにして。猫を撫でるように。

 ウェンゼルさんはその後、何も言う事なく、部屋の隅にあった衝立を持ってきてくれて、その陰で私は着替えた。足の鎖は繋がれたままだったので、町娘風のシンプルなドレスを頭から被って着た。
 その間、また、ウェンゼルさんは部屋を出ていった。
 着替え終った私は、そのままベッドの上に寝転んだ。
 白い天井を見上げる。
 ああ、なにもないな、と思った。
 何もない。
 それが、とても好ましく感じた。
 そして、この部屋には、私ひとり。
 誰にも傷つけられたりしないし、誰かを傷つけたりしなくて済む。
 最初から何もなければ良いのに、と思った。
 何もなければ、何も起らない。辛い事も、悲しい事も、争いも、怒りも、憎しみも起きない。
『嬉しい事や、楽しい事もないよ?』
 そう言われるけれど、そんなのもいらない。
 何かを求めれば、必ずリスクが生じる。だったら、いらない。プラスもマイナスもいらない。何もいらない。
 この感覚は、何処かで覚えがある。何処だったか……ああ、あの時に似ている。最初に訪れたランデルバイアの砦で、襲われた後だ。あの時私は……そうか、そうだったんだ。あの時から何も変わっちゃいなかったんだ。エスクラシオ殿下に生きていて良いって言われて、そう思い込んでいた。ルーディ達を助ければ、全て、帳消しになると思っていたんだ。
 でも、そうじゃなかった。だからか? だから、ルーディは死ななきゃならなかったのか?
 私に思い出させる為に。
 私は間違って、この世界に来ただけだという事を。
 本来、いてはいけない人間だという事を。

 ……私は死ぬ為にこの世界に来たという事を。

 瞬間、く、と口から笑い声が漏れ出た。出てしまった声は抑えようもなく続く。腹筋が震えた。かと言って、大声あげてのものでもなく、ただ筋肉が引き攣るように笑い声がついて出てくる。おかしくてしょうがない。
 随分と嫌われたものだ。私を嫌うのは、この世界なのか、やはり、神と呼ばれる存在なのか。
 神? 今更? ルーディは助からなかったというのに?
 そう思うと、また笑えた。
 お腹が痛い。でも、止らない。
 お腹を抱えて、ただ私は笑った。
「キャス?」
 ウェンゼルさんが戻ってきた。訝しげな問いがある。
 仰向けに寝転んだまま見れば、手には皿を持っていた。
 私の為に運んできたのだろう食事。
 だが、その匂いが鼻に届いた瞬間、胃がびくついた。
 あれだけ続いていた笑い声は、突然、止まり、私は慌てて鼻と口を手で押さえた。消化器全体が、下から上へと大きく波打つのを感じた。急いでベッドから下りると、鎖を引き摺って窓に向かって走っていった。
 その間も激しく収縮運動を繰返す胃に耐えながら、かかっていた鍵を開けると、乱暴に窓を引き上げた。そして、下を確認する間もなく、吐いた。
 昨日から殆ど食事をしていなかせいもあって、中には何も残ってはいなかった。胃液と僅かな水分だけ。食道が焼けるような痛みを感じた。酸っぱい味で口の中が一杯になり、嫌な匂いが鼻をついた。それでも、身体はない筈のものを排出しようとしていた。
 気持ちが悪い。
 全身が痙攣するように動き、痛みさえ感じた。
 息が苦しい。
 それでも尚、止まらない。唾液さえも邪魔だと言わんばかりに、吐き出させようとする。
「大丈夫ですか」
 ウェンゼルさんが、私の背をさするのを感じた。
 窓の縁にしがみつきながら、口を開け、涎が垂れるのに任せたまま荒い呼吸を繰返した。
 酷い状態と分かっていたが、どうしようもなかった。
 それでも暫くする内、次第に波はおさまっていった。
「だい……じょ、ぶ」
 やっと、そう答えると、カップの水が手渡された。
「口を濯いで」
 水を口に含んで、残る臭いを洗い流した。咽喉に、ひりつく痛みが残ったが、それも徐々にひいていった。
 カップを返し、そのまま窓枠を握ったまま床にへたりこんだ。
「戦の影響が出たのでしょう」
 ウェンゼルさんが、みっともない筈の私を嫌がる様子もなく言った。
「初めて人を殺した兵士がなったりもしますが、貴方の場合は、死体と血の臭いを嗅ぎすぎたせいですね。そのせいで、身体が肉の類を受け付けなくなっているのでしょう」
 ああ、そうか。そんな事もあるんだな。話には聞いていたけれど。
 タオルが手渡されて、それで涎やらを拭いた。
「時間はかかるかもしれませんが、後で身体に優しいものを用意させましょう」
「いい」
 どうせ、食欲なんてないし。
「食べなければ、身体がもちませんよ」
 当り前の事を言われた。
「嫌でも今は食べるべきです。でなければ、心がますます弱る。辛いかもしれませんが、今は生き残った者としての義務を果たすべきです」
「……生き残った者の義務ってなに?」
「死んだ者の事を忘れず、覚えている事。そして、その人の分まで生きる事ですよ。どんなに辛くてもね」
 そうなのか? そう言われても、よく分からない。
 私はのろのろと立ち上がった。そして、ベッドへと戻った。
 一歩あるくごとに、ざらり、ざらり、と床の上の鎖が鳴った。
 まるで、奴隷のようだ、と思った。
 でも、それとは別に、こんな私を、何故、彼等が生かそうとしているのかが不思議だった。
 この場に留めようとしている。死ぬべきものを守ろうとしている。
 そう考えると、この鎖は私を地上に繋ぎ止める為の物のようにも感じた。

 ……足が、とても重い。




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