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 馬に揺られるのも久し振り。
 こんな風に殿下に抱えられて乗るのはグスカの戦場以来、二度目だ。あの時の殿下は甲冑を身に着けていたのでがちゃがちゃと煩く、当る頭が痛かった。でも、略式の騎士姿の今日は、ダイレクトにその息遣いが感じられる。……なんだか妙な気分だ。温もりを感じながらその手に支えられている自分が、とても小さな女の子に戻ってしまったかのような錯覚さえ覚える。
 馬は軽快な足取りで森の間を走る道を進む。木々の向こうに湖が見えた。どうやら城の裏手の方角に向かっているようだ。
 一瞬、横に並んだランディさんが私を見ているのが分かった。酷く哀しそうな表情に見えた。でも、話しかけてくる事はなかった。
 なんだ?
 さっきから、なんだか変な雰囲気だ。いや、昨日、アストリアスさんが来て、その時も私を見る目が以前と違うものに感じた。
 憐れむような、痛いものでも見るかのような目。そんなに酷い状態なのか、私は? 自覚もないし、鏡を見ていないから分からないが。それとも、私の境遇に同情しているのか? 今更?
 なんだか良く分からない。
 森を抜けて、小高い丘の道に出た。
「見ろ」
 立ち止まって、殿下は言った。視界一面にブドウ畑が広がっていた。
 棚には作られていない苗が等間隔に並び、太陽の光を浴びて広がった緑の葉が、風が吹く度にざわざわと揺れて一斉に鳴った。とても綺麗な風景だ。牧歌的というのか。
 調和の取れた美しさだ。力強くありながら、優しい。明るい開放感がある。大地の豊かさとその恵みの息遣いが、眺める私にも伝わってくるような気がする。
 でも、そんな感覚は一瞬だけ。ガラス窓についた雫の様に、あっ、という間に流れ落ちて消える。
「美しい風景だ。そう思わないか」
 殿下は風の音に交じる静かな声で言った。
「戦が長引けば、今頃、この辺りも荒らされていただろう。だが、それもなく、実ったそれは収穫され人々に食され、咽喉を潤し、またランデルバイアの酒蔵をも満たすだろう」
 そっか。
「これもおまえの守ったものだ」
 そうなの?
 思わず殿下を見上げれば、青い瞳が私を見下していた。
「おまえがあの道を見付けていなければ、本城の奇襲は有り得なかった。本隊は街道を進み、間違いなく今も戦は続いていた。結果、より多くの者が傷つき、涙し、嘆きの声を響かせていただろう」
 大袈裟な表現だ。そんな実感もないし、結果論だ。
「……ただの偶然です」
「そうだな。意図はなかっただろう」
「奇襲を思い付いたのは殿下です」
「そうだな。だが、この戦の重要な局面、局面で、おまえが我々の道標になった事実に間違いはない」
 殿下はそう言って馬首を返すと、再びゆっくりとした足取りで馬を進めた。
 腰に回された手はしっかりと安定して、微動だにしない。ちらり、とその手の持ち主の顔を見上げれば、太陽の下、赤い髪がオレンジ色に光り輝いて見える。暖い微風を受けて靡くそれは、いつもより快活な表情を感じさせた。
「なんだ」
 ふいに訊ねられ、いえ、と言い淀む。
「そう言えば、殿下の誕生日っていつですか」
 同い年と言われても、とてもそうとは思えない人に問うと、なんだ、と苦笑が洩れた。
「もう済んだ。白狼月《はくろうづき》の四日だ」
 なんだ、先々月じゃないか。微妙に年上か。なんとなく安心した。
「戦場で迎えられたのですか」
「いや、出陣より前だ」
「ああ、そうですか」
 私の方が先に出たもんな。その間だったか。
「おまえは」
「私ももう過ぎました」
「いつだ」
「金華月の十八日です」
「……そうか」
 僅かな間があった。
「それで、何か思い付いたか」
「え?」
「褒美をやると言っただろう。何か思い付いたか」
 ……そういや、そんな話もあったな。
「おまえが失ったものに比べ、足りるものではないだろうが、僅かなりとも報いる事はできよう」
 低く深い声は肌に染込むように聞こえた。
「ひとつだけ」
 私は答えた。一つだけ、ここの所ずっと願っている事がある。結論と言っても良い。
「言ってみろ」
 促す言葉に、躊躇いが出た。
 ええと……
「言う前にひとつ訊きたいんですけれど」
「なんだ」
「ランデルバイアに帰るのは絶対なんですよね」
「そうだ」
 拒否を許さない響きがあった。
「ここに残りたいのか」
「……そういうわけじゃないです」
「では、なんだ」
「なにってわけじゃないんですけれど、タイミングみたいなもので」
「よく分からんな」
 規則正しくリズムを刻む馬の蹄の音を聞きながら、言い方を考えてみる。
「必ず聞いて貰えますか」
「星を取って来いなどという元より不可能な事以外であればな」
「そんな馬鹿な事を言いやしませんよ。もっと簡単で、細やかな事です」
 こどもじゃないんだから。
「では、なんだ。言ってみろ」
 揺るがない存在。一国を支える柱としての権力と実力を有するその人を私は見上げた。

「ラシエマンシィに帰ったら、」

 彫像のような美しい横顔。
 ああ、本当に奇麗な男だな。時々、滅茶苦茶、憎たらしくも思うけれど、でも、この人だったら本望だ。

「……私を殺して下さい」

 手綱が急に引かれた。馬が驚いたように急停止した。
「今、なんと言った」
 青い瞳が見開かれ、私を見た。
 アストリアスさんとランディさんも馬を止めた。
「私を殺してくれ、とお願いしました」
 私は繰返した。いつもは感じる錆びた味は口の中に浮かばなかった。
「出来れば、以前、お願いした通りに怖くないように、気付かない内にお願いします。それが無理だったら、出来るだけ苦しくない、痛くないやり方で」
「馬鹿な事を!」
 噛みつくような声が答えた。
「どうしてですか。たった今、叶えてくれるって言ったじゃないですか」
「そんな馬鹿な願いは聞かん! 何故、戦功に対し死をくれてやらねばならん! そんな話、聞いた事もない!」
「いいじゃないですか。敵国の王でさえ国葬した人が今更でしょう」
「あれは、おまえが言い出した事だ! 大体、そんな願い、私が許したところで、女王陛下や兄上がお怒りになるだけだ!」
「だから、その説得も含めてお願いしているんですよ」
 そんなに怒るなよ。たかだかひとりの命だ。あんたにしてみりゃ、大した事じゃないだろ。
「こうして生きていく事が辛いんです。この先、ひとりで皆の幸せそうな顔を見ながら、騙して、陥れて、嘘ついて、自分も誤魔化して生きていくのが、考えるだけで辛いんです。それが良い事に繋がるとしても、私の手には何も残らない。それが辛いんです。だから、」
「聞かん!」
「お願いです」
「駄目だ! 許さん!」
「どうしても?」
「どうしてもだ!」
「……酷いです」
 聞いてくれるっていうから言ったのに。
「残酷ですよ。もう、私には何も残ってはいないのに」
「……おまえにとって、今、周りにあるものは、いる者はそれほど価値のないものばかりなのか」
「そうは言わないけれど……でも、一番じゃないです。皆、私以外に一番の人がいて、私がいなくても幸せでいられるんです。でも、私には誰もいない。瞳の色が黒いってだけで、これから先も、死ぬまでずっとひとりなんです。瞳の色を隠して、隠れて生きていかなきゃいけない。なのに、それを他国に知られたら、今度はランデルバイアが攻め込まれるかもしれない。また戦になって、なんの関係もない大勢の人が私の為に死ぬかもしれない。一番じゃないけれど、好きな人達が傷つくかもしれない、殺されるかもしれない……また、私は誰かを殺したくなるかもしれない。それを想像するだけで嫌なんですよ。辛いんです。だから、そうなる前に……私を解放して下さい。お願いします」
 その人の手の中で、頭を下げた。
「これ以上、惨めな思いをしたくないんです」
「……馬鹿者が」
 肩が引き寄せられ、胸板に顔を押し付けられた。
 温もりと、力強い鼓動の音が私を包んだ。
 それは抱擁と言うには乱暴で、やっぱり、無造作に猫を抱いたりするものに近いように感じた。それでも、涙を滲ませる程度には充分の優しさだった。
 結局、殿下は私の願いに対して、はっきりとした答えを言ってくれなかった。というよりも、受入れて貰えなかったんだろう。
 その後、城に戻って、また同じ部屋のベッドに繋がれた。
 私は、そのままベッドの中に潜った。
 願いを口にしてしまった事に、後悔を感じていた。
 ……黙っていれば良かったのに。それで、勝手に自殺でもなんでもすれば良かったのに。
 でも、それと同時に、あの人が怒った事に嬉しさを感じていた。
 ……嬉しかったんだ。

 あの人は、私が死んだら、少しは悲しみを見せてくれるだろうか?




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