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 さて。

 戻ってきた城の部屋で書き物を終えた私は、手に持っていたペンを置いた。
 あとは、何が必要か。しなければならない事は?
 出来れば、という事はあるが、必ずしもしなければならない事はない。サボったところで、問題はないに違いない。些細な事だ。その辺は、甘えさせて貰おう。
 とすれば、他にする事はない。
 見回すと、部屋の隅にいつの間にか私のショルダーバッグが置かれていた。
 カリエスさんが持ってきてくれたか。ああ、これも随分と傷んだな。気に入ってたんだけれどな。そろそろお役ご免の時期だろう。
 それ以外は、何も変わったところはない。
 確認した私は、机の前で上体を反らし、思いきり伸びをした。
 部屋の中はそろそろ薄暗くなってきている。
 黄昏時。
 物思いに耽るには、良い時間帯だ。
 私は椅子から立ち上がると、未だ足に繋がれた鎖を引き摺って隣の部屋に通じる扉をノックして開いた。
「ウェンゼルさん」
 そこで待機する人も、本を片手に寛いでいた。
「なんですか」
「お茶を頂きたいんですけれど」
「畏まりました」
「ええと、ハーブティまだありますか、アストラーダ殿下から頂いた。出来れば、あれが飲みたいんですけれど」
「まだ少し残っていたと思いますよ」
「良かった。じゃあ、お願いします」
「直ぐにお持ちします」
 別の廊下に通じる扉を開けて出ていくウェンゼルさんを見送って、私は扉を閉めた。
 この城もなんだか面白い作りになっている、と気付いたのは最近になってからだ。多分、襲撃された時に敵を迷わせたり、逃げる為に工夫されているのだろう。
 この世界でも、気付けば、色々と面白そうな事がある。私の見ていない場所でも、そういうところが一杯あるんだろうな。でも、これじゃあなあ……
 足に引き摺る鎖を見て、苦笑する。
 まったく、この世界に来てから、随分とえらいめに遭ったものだが、これは最たるものかもしれない、とも思う。
 殿下もなに考えてんだか。
 動き回らなければ、危険もないと思ったのか。だが、実際、あの男の考えている事など分かったためしがない。
 赤い、光によっては血の色にも見える髪を持つ。錆びた印象は、染みついた戦場の臭いのせいだったか。自身さえも、落ちない臭いに鬱々として、酒を飲まずにはやっていられないらしい。あの完璧さは、神経質な面の表れでもあるのだろう……その内、ストレスで心筋梗塞起こすか、脳溢血とか肝硬変になって死ぬぞ。
 人が死んだり殺すのを嫌がりながら、剣をふるう。命を下す。それでも冷えた水の色をたたえる青い瞳で人を誘い、錆びた道へと引きずり込みやがる。ついた渾名が、『死神』。
 まったく、難儀な男だ。一体、何を求めて戦っているのか……否、それも多分、誰とも変わらないものなのだろう。
 ああ、でも、あの瞳の色は空を映した色なのかもしれないなあ。
 地にあって、天を映した色。綺麗な色。
 私はあの人を通して、本当は空を眺めていたのか? 怖いと思いながら、憧れていたのかもしれない……あんな風になりたい、と。
 そうだ。私はあんな風になりたかったのだ。己の信念に従い、何事にも動じない揺るぎない存在。計画を立案し、実行できる能力と行動力を持ち、且つ、柔軟に動く事も出来る。そして、大事な者達を確実に守るだけの器量を有する……そんな風になりたかった。
 ぼんやりと取り留めもなくそんな事を考えていたら、ウェンゼルさんがティーカップを持って戻ってきた。
「どうぞ」
 ティーポットからカップにお茶を注いで渡してくれる。
 独特のハーブの香りを私は吸い込んだ。
「なんか、久し振り。アストラーダ殿下はお元気でしょうか」
「おそらく、元気でいらっしゃる事でしょう。貴方が戻って、また一緒にお茶の時間を過せる事を楽しみにしてらっしゃるでしょうね」
 ウェンゼルさんはそう言って微笑む。
「殿下の出してくれるお菓子がいつも美味しいから、つい、食べ過ぎちゃうんですよね」
「貴方が美味しそうに食べるのを見るのが嬉しくて、菓子職人の者達をつい働かせ過ぎてしまうと猊下は笑ってらっしゃいましたよ」
「あれ、そうなんですか。私としては、一度に一種類で良いんですけれど」
「それはそれで、余った分はメイド達が喜んで片付けていますし、出来の良いものは陛下らのお茶の席に供されもしていますから、問題ないでしょう」
「ウェンゼルさんは、食べないんですか」
「私は甘いものは苦手な方ですから」
「ああ、そうなんですか」
 私がいないからお菓子が減って、今頃、アストラーダ殿下付きのメイドさん達は、お腹空かせているかもな。
 ロッテンマイヤー……ゲルダさんと仲間達は元気にしているかな。皆、私がいないから、今頃、楽しているかも。
「なんか懐かしい気もしますね、まだ二ヶ月ちょっとなのに」
「帰国すれば、すぐにまた、同じ時が待っていますよ」
 ウェンゼルさんは軽く笑うと、
「それでは、また、何かあれば呼んで下さい。夕食時にはまたお運び致します」
「はい。有難うございます」
 隣室に戻っていくその人の静かな足音の後、扉が閉まる音を背中で聞く。
 実に面倒見の良い人だ。理想的と言っても良いほどに。
 男爵家の跡取りと言っていたが、弟や妹がいて、普段から面倒を見ていたのかもしれない。
 夕暮れの部屋。
 静かな部屋。
 車の音も、ジェット機の音も、電話の音も、音楽も、人の声もなにもしない。
 私の服の擦れる音と、時たま、鎖が鳴るぐらい。
 こんな静けさが、私は好きだ。
 前の世界では、得ようにも得られなかった穏やかさだ。
 この世界のこんな所は、気に入っている。
 あと、お茶が美味しいのも。
 さて、もう一杯。
 ポットから、空になったカップに琥珀色の液体を注ぐ。
 そして、ポケットを探り、手作りの巾着袋をとりだした。絞って閉じていた紐を緩め、その中から更に小さな薬包を取り出した。  何故か捨てる気になれず、ずっと肌身離さず持っていた。お守りみたいに。
 三角形に折られた薄っぺらたい包みを、中身を溢さないように気をつけて広げる。
 初めて中身を見たが、薄い灰色の顆粒状の粉が少量、包まれていた。見ようによっては、砂糖のようで、少々、頼りない気もしたが、まあ、効き目さえしっかりしていれば、文句はない。
 ケツ顎王子から渡されたというところが癪に障るが、仕方がない。面倒臭い手間を省くにはこの方法が一番良いに違いない。私も早く楽になれる。
 ずっと、死ぬのが怖かった。自殺なんて、自分には出来ないと思っていた。だから、他人の手を借りようと思ったのだけれど……でも、考えてみれば、人を殺す事が出来るなら、自分を殺す事も容易い筈だ。
 殺すのは、他人か、自分か。どちらも同じ事だ。
 どうして、もっと早くこうしなかったのだろう?
 私は、包みの中身をカップの中に落した。
 そして、ティースプーンでゆっくりとかき混ぜた。

 さて。

 私は、部屋をもう一度、見回した。
 出掛ける前の確認をするように。
 手元には、書いたばかりの手紙を入れた封書もある。
 表には、エスクラシオ殿下宛てとちゃんと名前も書いてある。
 うん、綴りも間違いはない。
 荷物は……まあ、勝手に処分するだろう。

 そして、他に何もないと分かると、カップのお茶を一息に飲み干した。



『アメイジング・グレースと迷い猫』

  END





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