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 地獄を見た。
 咽喉はひりひりと痛み、身体中の節々が軋む音を立てて、筋という筋が引っ張られ、力任せにねじ切られているかのような苦痛を感じた。内臓は燃え盛る火を呑み込んだような熱に満たされ、身体の中で暴れ回っていた。そして、全身が、針で刺されているかのような、断続的なちくちくとした痛みを感じた。
 兎に角、滅茶苦茶、苦しかった。
 もう、これ以上ないほどにグチャグチャのドロドロな気分だった。

 畜生! 騙しやがって! 何が、即効性であまり苦しまずにすむだ! 嘘吐きやがって、ケツ顎のくせしやがって!! ばっきゃろぉおーーーーっ!!

 のたうち回る無意識下で、私はそんな風に毒づいていた。
 そして、疲れた頃にやっと楽になれた、と思ったのだが……

 最初に、白い天井と端の方にちらちらと動く白いものがあった。
 首を動かすと、ちらちらしていたものは、人の髪の毛だという事が分かった。当然、その下には人の顔があった。知らない人だ。お爺ちゃんっていうには、ちょっと若いぐらいの年の人。
「意識を取り戻しましたか」
 は? なに? 誰? 何がどうなってんの?
 訊ねようとしたが、口を開いても声が出なかった。気道がひりひりとして、風が吹くような音が出ただけだ。
「ああ、無理をしないで。咽喉が炎症を起こしていますから、しばらく声は出さないように。私の声が聞こえていますか? はい、であれば、まばたきを一回して下さい」
 ぱちり、とまばたき一つ。
「聴覚は大丈夫のようですね。この指は何本ですか」
 まばたき三回。
「これは?」
 まばたき二回。
「指先を私の手が握っている感覚はありますか」
 まばたき一回。
「足の指を握って」
 ぐーっ。
「開いて」
 ぱーっ。
「手足の神経にも異常がないようですね。気分は。吐き気とかしますか」
 少し。まばたき一回。
「頭痛は」
 ちょっとな。まばたき一回。
「副作用がまだ少し残っているようですね。ですが、二、三日もすれば良くなるでしょう。すぐに声も出るようになりますよ。それまでは安静にしていて下さい」
 ……すんげぇ、疲れた。
 つまり、あんたは医者か。てぇことは、つまり……
 と、そこで意識が遠のいた。

 次に目が覚めた時は、赤い髪が傍にいた。
 その下の顔は、相変わらず大層、造作の良いものだったが、えらく渋い表情をしていた。それはそれで見栄えを損なうものではないが、口を開いた途端、そんな感想も吹っ飛んだ。
「目覚めたか、馬鹿者」
 ……いきなり、ひでえ。
「自害をしようなどと、そこまで愚かだとは思わなかった。生きて城へ戻れという命令は忘れたか。まったく、おまえほど愚かで、傲慢で、我儘な女は他に知らん! まだチャリオットの方が聞き分けが良かったぐらいだ!」
 ……ひでぇ、猫以下かよ。
「妥協という言葉を知らんのか。おまえの中には、ゼロか百しか選択肢がないのか。しかもこんな手紙まで書き残しおって! 死者の言う事ならば聞くと思えば大間違いだ、大馬鹿者めが! 私は生者の言葉しかきかん! 死者の言葉なぞ、世迷言か恨み言だけでしかないからな」
 ……じゃあ、遺言状とかはどうなるんだよ。そんな事いったら、司法関係者が怒るぞ。ところで、低い声に重なってわんこの唸り声が聞こえるのは、空耳か?
「だから、言いたい事があれば、声に出して言え。それならば、多少は耳を貸してやらんでもない」
 ……ちっ、偉そうに。偉そうだ。
 額に掌が載せられた。さらりとした肉厚のそれはひんやりとしていて、気持ち良かった。
「二度と、自らの手で死のうなどという愚行を犯すな。考える事も許さん。おまえには、生き続ける義務がある。死んでいった者達の為にもどんなに辛くとも生きて、棘の道を行け。ひとりで払えぬ棘を前にしたならば、手伝ってもやろう。だから、生きろ」
 私が声を出せない事を知ってか、エスクラシオ殿下は勝手にひとりで言いたい事だけを言った。酷い言い様をされている事は分かっていたが、何故だかとても落ち着いた。……マゾに転向しつつあるのか、私?
「早く治せ」
 名を呼ばれたと思ったのは、気のせいだったか。
 その時には、私は目を閉じていた。




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