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 人というのは、自分にとって都合の悪いものは見ないようにする、という話がある。目に映っていても、脳が認識を拒否したりするというのだ。
 これは、逆に言えば、『自分にとって都合の良いものだけを認識する』、とも言える。
 例えば、同じ絵を二人の人間に見せたとしても、まず自分の最も興味のある部分に焦点を合わせる。
 現実、人間の目の焦点が合う部分というのは、ほんのごく一部で、あとはぼんやりとしか見えないものだ。あとは、焦点を移動させてはっきりと認識するポイントをいくつか集めて、全体像を把握するらしい。だから、焦点を合わせなかったぼやけた部分は、脳がそれまでの経験によって勝手に補正して認識もしている。故に、人によっては見なかった、認識しない存在も有り得るってわけだ。
 それは、情報に関しても同じ事が言える。
 契約書に書いてあっても、読み落としがあったりする。
 作る方は、細かい文字は読みたくないという意識をついて、大事な部分をわざと小さく書いたりする。わざと難しい漢字を多くして、読みにくいものにする。
 ちゃんと目を通したつもりでも、都合が悪い話は、脳みそが勝手に拒否する場合だってある。
 つまり、何が言いたいかっていうと、契約書はちゃんと何度も読んで、読み落としがないようにしましょう。ではなくて、私も、思いっきりそういう傾向の只中にある、って話だ。

 私と伝説の巫女との相違なんて、山ほどある。
 美香ちゃんが条件に相当するのだから、当て嵌まらなくて当前だ。
 まず、髪の色が違う。
 聖なる存在ではお約束である処女じゃない。
 年齢だって、まったく行き過ぎている。
 伝説の巫女は、やはり、ハイティーンの少女だったそうだ。私の年はこの世界では行き遅れもいいところ。負け組なんてものじゃなくて、年齢制限に引っ掛かって土俵にもあがれないらしい。
 それに、極め付けは、私は神様なんぞ、これっぽっちも信じていないって事だ。俗っぽさに頭の先までどっぷり塗れて、神聖なんて、これっぽっちもありゃしねえ。
 要は、状況証拠のみで物的証拠はまったくなし。クロに近くとも、起訴には至らない容疑者状態だ。
 有り難い事にそれは皆も分かっているらしく、概ね、『気のせいだろう』の方向で話は纏まったようだ。引き攣った笑みを浮かべながら、レティにそういう事は迂闊に言いふらさないように念押しはしていたが。
 ……マジ、冗談じゃねえや。巫女と呼ばれるぐらいだったら、魔女の方がなんぼかマシだ。似たようなもんではあるが、清く正しく美しく、なんてモットーは、私の柄じゃない。そんなもんは木端微塵に砕いて、ブタの餌にでもくれてやるさ!
 ああ、でも。
 美香ちゃんが刺された理由がそこにあるのならば……浮かばれない。

 まあ、そんな状態で気まずくも一日過ぎて、帰国の途についた。
 駐屯するランデルバイアの兵士達と、遠巻きに眺めるファーデルシアの民衆の見送りを受けての、地味な出立だ。ミシェリアさんやちびっ子達もどこかで見ていたかもしれないが、分からなかった。
 ああ、そういや、ヒルズさんに謝るの忘れていた。……でも、ま、いいか。今更、善人ぶる必要もない。やる気なんてこれっぽっちもないぞう。けッ!
 この道は、いつか来た道。
 ランデルバイアへ連行されていく時に通った道。
 今またそこを進んでいる。三ヶ月ほど前の事だと言うのに、もう十年も昔の事のように思える。
 グルニエラが拗ねるといけないので、今回、私は馬上にいる。だけど、体力の回復は今一つなので、疲れたら馬車に移るように言われている。
 馬車には、レティと新しく加わった医師のケリーさんが乗っている。レティにとって、ケリーさんは祖父にも相当する年齢だそうで、同乗する事にグレリオくんも安心しているみたいだが、やっぱり、その傍にぴったりと張りついている。まあ、派手な求婚劇は皆の知るところではあるので、そんな行動も生温い目で見守って貰っているようだ。
 だらだらと田園風景を眺めながら、北へと向かう。……いや、だらだらしているのは、私だけか。
 皆、やっと故国へ帰れるとあって、足取りもどことなく軽く感じるし、雰囲気も明るい。
 二日、三日と行軍を続け、四日目に夕立にあった。
 酷くはないが、しとしと雨に、早めに陣を張る事になった。
 皆が天幕などを用意している間、私は、樹の下で雨宿り。
 そこで、久し振りにエスクラシオ殿下と顔を合わせた。多分、目が覚めて見舞いに来た時以来だろう。
 でも、さして話す事もないので、殿下の隣で太い樹の幹に寄りかかって、ぼんやりと降る雨を眺める。
 アストリアスさんと、ランディさん、ウェンゼルさんが護衛するように私達に背を向けて、周囲に立っている。
 誰も何も喋る事はなく、沈黙の中、ときどき強まったり弱まったりする雨垂れの音だけが響いていた。
「なにを考えている」
 ふ、と殿下の口が開いた。
 訊いたのは、私にか?
「別に、なにも」
 私は答えた。
「ただ、なんとなく思い出していただけです」
「なにをだ」
「川に落とされて森の中を彷徨っていた時も、雨が降っていたな、と」
「そうか」
 また、沈黙がやってきた。
 横を見ると、殿下もまた、降る雨を眺めていた。
 灰色の濃い風景の中で見るその人は、影も風景に溶けて実体感が薄らいで感じた。端正な容姿と相まって、まるで一枚の絵を見ているかのような印象を受ける。
「なんだ」
 こちらを向く事なく問われる。
「……いえ、別に」
 私は、また前方に視線を戻す。
 なんか不思議な感じだ。
 気に掛けて貰っている気もするが、そうでもない様な気もする。
 私に対する態度や対応は、やはり、人間というより猫に対するような扱いだと感じる。乱暴さ加減とかそうだし、時折、感じる優しさはペットに対するそれに似ているとも思えなくはない。気まぐれに与えられる様な。この人の傍にいると、自分がとってもちっちゃな生き物の様な気がしてくるのも、そのせいかもしれないとも思う。
 それでも、嫌な感じはしない。傍にいても、意識はするが、嫌だという思いはない。こうして黙って立っていても、ちっとも気詰まりな感じはしない。無理に話さなければならない、という気にはならない。
 良くはないが、悪くもない、といった感じだ。
 敢えて言うならば、ニュートラル状態といったところか。
 静かだ。
 頭上を覆う木の枝を見上げる。
 この樹には、花が咲いていないなあ。
「もう少しこちらへ寄れ」
 再び、殿下から声をかけられた。
「濡れる」
 私のすぐ傍を、葉を伝って、雨が落ちてきていた。
「大丈夫ですよ」
 当ってないし。と、言っている傍から、頬に雫が当った。
「風邪をひく」
「このくらい平気です」
 服の袖で濡れた頬を拭う。
「濡れるのは嫌ではないのか」
「嫌といえばそうですけれど、多少なら気になりません」
「そうなのか」
 それでも、二歩ぶんだけその人に近付いた。
 それから、何も言われなかった。
 私も何も言わなかった。
 雨が止むまで、ただ並んでそれを眺めていた。

 その日、この世界で初めて、空に虹がかかるのを見た。
 オーバー・ザ・レインボウ。
 虹の向こうには、何があるんだろう。
 ……でも、黄色い煉瓦の道が、私には見えない。




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