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 夜になって、張られた天幕の中でぼうっとしていると、また、エスクラシオ殿下がやってきた。
 共はおらず、一人だ。どうやら、お忍びらしい。
 天幕の入り口の布を片手で上げ、「来い」、と一言で私を呼ぶ。
「なんですか」
 のそのそと出ていくと、黙って歩き始めたので、後をついていった。
 暗い夜道を散歩でもあるまいに、と思っていたら、殿下の馬が一頭だけ用意されて待っていた。
「乗れ」
 説明をする気はないらしい。……へえい。
 そのまま馬に跨がると殿下も後ろに乗り、また片手で抱きかかえられるようにして、ゆっくりと馬を進めた。
 そんな、遠出なんかして良いのか?
 首を傾げながらも、黙って成り行きに任せた。
 野営地から少し遠ざかったところで馬は速度をあげた。
 暗い中、よくも平気で手綱を捌けるものだ。下弦の月明りだけが頼りになる前方には、細い道がぼんやりと見えているぐらい。私はただ乗っているだけだが、それでも怖く感じもする。
「何処へ行くんですか」
 少し不安になって訊ねてみると、
「おまえが好きな場所だ」
 との答え。
 私が好きな場所?
 少し考えていると、蹄の音に交じって、ちょろちょろと水の流れる音が聞こえてきた。……ああ、ここだったか!
 岩場近くに生えている樹の傍で馬を下りる。と、大きな岩の向こうに湯煙が立っているのが見えた。
 温泉だあっ! 久し振りぃっ!
 なんと、よくもまあ、覚えていてくれたものだ。
「少しは気分も晴れるだろう」
 樹に馬を繋ぎながら、殿下は言った。
「お気遣い、有難うございます」
 こういうところがこの人の不思議なところだ。こうして然りげなく、人のツボを突いてくる。
「気にするな。見張っていてやるから入ってこい」
 タオルが放り投げて渡された。
「有難うございます。お願いします」
 ここは素直に甘えておく。うわあい!
 大体、風呂らしいものに入るのは、二ヶ月近く振りだ。出来るだけ身綺麗にするにしたって、限界がある。なんとなく、あちこちがむず痒い気がしたりもする。それが解消できるだけでも嬉しい。
 さっさと服を脱いで、湯に浸かった。
 じんわりと身体を包む温かさに、途端に骨抜き状態になった。湯に同化してダラダラ状態。
 はあ、極楽、極楽。うう、こんな幸せがある事など、今迄すっかり忘れていた。ああ、なんだか、目からしょっぱい液が……
 雲間に見える星を見上げながら、思いきり手足を伸ばした。すると、湯面の下に揺れて見える自分の脚が目に入った。
 ……あれ? 私、こんなに脚、細かったか? ちょっと待て、肋が……うわ、メチャ肉が落ちて洗濯板状態じゃねえか、げげっ! 肩も、っていうか、胸がっ!? 骨皮筋衛門そのまんまだ。うわあ、すげえショック。なんだ、これ……やべえ。頬とかこけてんじゃねぇか?
 触ってみれば、皮膚が硬くなったような気もする。ううっ!
 ウエストが細くなった自覚はあったが、まさか自分がここまで痩せているとは思っていなかった。鏡のない生活が続いて、自分の姿を見る機会がなかったせいもある。
 こりゃあ、みんなが心配するわけだわ……鳥がら女と言われた事が、今頃になって身にしみる。
 おそらく、体重は五キロ以上落ちている事だろう。元々、標準体形範囲内であったが為、これだけ落ちると激痩せだ。しかも短期間に激減した為に、他人から見ればいっそう露だろう。つか、ますます貧乏臭いし、憐れに思われる。テレビの前でせんべい齧っているおっかさん体形も嫌だが、そういうのもご免だ。モデル体形も憧れるが、行き過ぎもいかんよ。
「どうした」
 岩の向こうから声があった。どうやら、わたわたした私の気配を感じ取ったのだろう。
「いえ、まあ、ちょっと」
「なんだ」
「いや……あまりの自分の痩せっぷりに、がく然としまして」
 ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。
「それだけ堪えていたという事だろう。ここひと月が特に」
「はあ、」
「自害まで図ったのだから、当然、そうなのだろうが、おまえが何も言わないから、皆、口出しできずにいた」
「ああ、まあ、はい」
「しかし、自覚もなかったか」
 呆れるでもなく、言われる。
「……はい」
 だって、精神的なものだから目に見えないし、ここの人達にしてみれば、大した事ではないかもしれなかったから。この程度の事って、甘えているって思われるかもしれないから。だって、戦争してたんだから、辛いのは当り前だし。
「おまえは、我慢が過ぎる」
 そうなのか。
「しかし、だからこそ、城から連れ出そうと考えたとも言えるが、それにしても、予想外の事も多過ぎた」
「……はい」
「半分は、おまえ自身の責任だ」
 ううっ!
「自覚しています」
「だが、半分は私の責任でもある」
 う。
「結果的に、我々が得られた勝利の半分は、死んでいった兵士達の、そして、もう半分は、おまえと犠牲になった娘達の死と苦しみの上に成り立っていると言えよう」
 低く流れる声は、溜息のようだ。暗闇の中に立ち昇る湯煙に溶ける。
「死者に対しては兎も角、おまえにどう報いれば良いのか分からない。かといって、望む死を与えてやるには、我々にとって既に荷が重すぎる。おまえにとっては不本意だろうが、命運尽きるまではランデルバイアの地の上に留まり続ける事を我慢してもらうしかない」
「……はい」
「その上で、出来るだけおまえの意に副う事を考えよう。おまえは何を望む」
 なにを?
「ここでは誰も聞く者はいない」
 ああ、そういう事か。他人が聞けば、多少、無茶とも感じる願いでも聞いてやるって配慮か。それならひとつだけある。
「……誓いを、最初に貴方に誓った内容を破棄する事は可能ですか」
「それは、私に従うと宣誓した事か」
「はい。手を貸す代わりに私の命を守って下さるという」
「それを破棄したいと」
「はい」
「おまえは、」
 そう呟いた後、長い沈黙があった。
 やはり、駄目なのだろうか。騎士としてのプライドが許さないだろうか。人の上に立つ者としての矜持に反する事なのだろうか。
 水の流れる音を聞きながら、私は答えを待った。



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