-21-


 山脈を越えて、ランデルバイアの国境だった地域を過ぎたところで、薄々は気がついていた緯度の高さと出発時よりも進んだ季節を知った。
 所謂、ハイシーズン。旅行代金値上げの季節。
 腕時計の針が宵の七時を指しても、まだまだ明るい。レティの話だと、九時過ぎ位までは明るいのだそうだ。
「夏になれば、夜も明るいですよ」
「白夜だね」
 ケリーさんが答える。
「ERに勤めていた頃は昼も夜もなかったものだが、そんな環境下にあれば、ますます体内時計が狂いそうだ」
「ERに勤めてたんですか」
 緊急救命室。アメリカの連続ドラマで有名になった部所だ。
「一時期ね。週に百時間以上も働いたものさ。事故やら病気やら、強盗に遭った者やら次から次へと患者が送られて来て、毎日がてんてこまいだった」
「ERというのは?」
 不思議そうに問うレティに、私は答える。
「お医者様が二十四時間体制で詰めていて、急な事故や病気にも対処できる場所だよ。真夜中にこどもが発熱したりした時とかにでも、診て貰えるの。重症患者には取り敢えずの延命治療を行って、そこから専門の部所に預けられて、特定の治療に詳しいお医者様に診て貰えるんだよ。ご専門はなんだったんですか?」
「一応、小児科だよ。でも、それだけをやっていられるわけではないしね。一通りはこなさないと。こちらの世界では一人の医師がどんな症状でも診るから、似たようなものだ。あそこまでハードではないけれど」
 ケリーさんが苦笑した。
「しかし、専門スタッフを育成し似た様なシステムを作る事が出来れば、この世界でこどもの死亡率を低くする事も可能だろう」
「やはり、多いですか」
「多いね。医療の未発達や感染症など基礎的な知識の不足もあるが、医師の数が少なすぎる。有効な薬の不足もある。鎮痛剤ひとつにしても、ろくな薬がないし。民間療法によっては有効なものもあるが、殆どが、なんの根拠もない呪い《まじない》ものだったりするし。あと、貧しさから医師にみせる事も出来ない者も多い。当然、一部の裕福な者をのぞいては、衛生面で問題を抱えている。その為、こどもに限らず大人であっても、初めは軽いものであっても、こじらせて手遅れになる事も珍しくない。課題は多いよ」
「じゃあ、医療システムの確立も出来るといいですね」
「うん。だが、やはり、まずは先立つものが必要だよ」
 結局はそこに行き着くな。それもあって、ケリーさんもランデルバイアに来る事になったんだし。
「先は長そうですね」
「いや、まったく。だが、その分、やり甲斐はあると言えるだろう。もう少し若ければ言うことないんだが、こればかりはしょうがないね。だが、何事も一歩でも前に進む事が肝心だ。そう思うね」
「そうですね。最初から諦めていては、何にもなりませんから。私もできるだけお手伝いしますわ」
 レティが笑顔で答えた。
 希望というのは、こうして生まれてくるものなのか。
 ……出した犠牲の数だけ、未来が少しでも良い方に進んでくれれば良いのだけれど。

 その夜、懐かしくも忌まわしき思い出のある砦で、私達は一泊した。
 到着すると同時に、例によって、すんげぇ鬱陶しいほどに暑苦しい歓迎があった。汗臭い、いかつい男ばかりが集まって歓呼している様子は、何度見ても見慣れない。
 そのうち、『ァ兄貴ぃっ!』って絶叫が聞こえてきそうで、いけない世界が開けそうだ。
 猿山も更にパワーアップして、大賑わい。酒に酔払った猿達が、所構わずはしゃぎまくっている。既に真夜中近くだってのに、未だその声が部屋まで聞こえてくる。なんか、時々、内臓の中身をぶちまける音も交じって聞こえる。……うえっ、もらいゲロ吐きそう。
 この分だと明日は二日酔い患者が続出かもしれない。つか、折角、アルディヴィアに戻ったとしても、酩酊した兵士ばっかりで締まらないものになるんじゃないのか?
 私とレティとケリーさんの草食組三人は、それぞれに一室ずつあてがわれ、部屋でお休み。いや、レティは分からないな。今頃、婚約者と一緒に、ハートマークを飛ばしまくっているかもしれない。しかし、それはそれで健全だろう。
 明日からこの三人は行軍とは別行動になると、部屋に入る時、ウェンゼルさんから聞いた。
「私とベルシオン卿と、グレリオが護衛として同行します。明日はベルシオン卿の本邸で御世話になり、次の日、半日ほど本隊より先行する形でラシエマンシィに入る予定です」
「それは、身の安全の為に」
「そうです」
「すみません」
「なにがですか」
「いや、だって、この様子だと帰国の時のアルディヴィアも、相当な歓迎なんじゃないんですか。お祭りみたいに」
「ああ、そうですね。ですが、そう愉しいものではないですよ。私は元より参加する立場ではありませんでしたし、他のふたりも興味はないでしょう。それよりも、あなた方の身の安全の方が重要ですし」
「はあ。有難う御座います。本当に、最初から最後まで、ウェンゼルさんには御世話になりっぱなしでしたね。なんか護衛っていうよりも、何から何まで御世話かけちゃって、本来の仕事以上の事をさせちゃったっていうか。本当に申し訳なかったです。なにか御恩返しができると良いんですけれど何もできないし、こうして言葉だけなんですけれど、有難う御座いました。ウェンゼルさんには、一生、感謝し続けます」
 それには、ウェンゼルさんは微笑んだ。
「貴方の傍は、予想以上に大変でした。しかし、反面、もうすぐお傍についていられないと思うと、寂しくも感じます。おそらくこれから先、私の見えないところで貴方がまた無茶をやっているのではないか、危険なめに遭っているのではないか、と心配する事になるのでしょうね」
 いやあ。
「もう、大して何も起きないと思いますよ。私も大人しくしているつもりですし」
 やる気ないしな。
「そうですか。ならば、良いのですが」
 その笑みは薄く、溜息に消えてしまいそうなものに感じた。
「それに、またアストラーダ殿下のお茶の時間に御邪魔すると思いますし。今度、その時は、一緒の席でお茶をしませんか。殿下もその方が愉しいのではないですか」
「そうですね。一度ぐらいは、そういう機会をもてると良いかもしれません」
「絶対、その方が愉しいですよ。隠れて話を聞いているよりも」
 エスクラシオ殿下の下を離れて、私がこの先、どういう扱いになるかは分からないが、もう一度ぐらいならば、アストラーダ殿下とお茶をする機会も与えられるだろう。
「そうですね」
 と、ウェンゼルさんは相づちを打ち、ふ、と急に改まった様子で私の顔を見て言った。
「こういう機会も二度とあるか分かりませんから、御手を取らせて頂いても良いですか」
「どうぞ、こんなんで良ければ」
 私は何も思わず、右手を前に差し出した。
 ウェンゼルさんは、恭しいほどに私の手を指先に軽く取ると、甲に唇を落した。
 たったそれだけの行為が、これまでなかった程に艶めいて感じた。
「勇敢で無鉄砲でありながら、脆く弱くもあり、また、辛辣で頑固でありながら、繊細なまでに優しくある類稀なる我が姫、貴方と共にあって過した時は私にとっても冒険であり、生涯、忘れる事がないかけがえのない思い出となるでしょう。たとえ一時でも、身命を賭して心より守るべき姫を得られた事は、騎士としての誉れであり歓びです。貴方と出会えた幸運に心より感謝を申し上げます」
 ……どっ! どうしたんだ!? なに、急に!
「顔が赤いですよ、キャス」
 私の手を持ったまま、ウェンゼルさんが、しれっとした表情で言った。
 いや、だって、急にそんな事を言われたら、照れるじゃないかああっ! そんな言葉、真顔で言われたら、普通にキスされるよりも何倍も恥ずかしいぞっ!
「そのように照れるところを初めてみましたが、なかなかに可愛らしいですよ」
 ふぎゃあっ!
「意外ですね。もっと早くに分かっていれば、そういう表情を幾度となく見れたかもしれないのに、残念です」
 そういう事言うか! 今、それ言うかっ!? てか、隠れサドだったのか、君はっ!!
 ……騙された。
「ウェンゼルさん、人が悪いです」
 やっと、それだけ言うと、くすり、と軽く笑って手が放された。
「この任を受けた事を感謝しているのは本当ですよ。戦をする以上に辛くもあり、失態も犯しましたが、とても刺激的で、愉しくもありました。こんな経験は一生の内、二度あるものではないでしょう」
 では、明日の朝、お迎えにあがります。
 と、初めて私に向かって正式な騎士の礼をしたその人は、密やかな足音と共に部屋を出ていった。
 ……本当にね。
 私は吐息を洩らす。
 この三ヶ月の出来事は、私にとっても、生涯、忘れる事がないだろうと思う。いつか、この時を懐かしく思い返したりする事もあるのだろうか。けれど、常に痛みを伴うものではあるだろうけれど。
 窓から外を覗けば、暗闇の中、松明の明かりが幾つも揺れているのが見える。状況さえ考えなければ、これもなかなか綺麗な景色だ。
 とん、とん、と軽いノックの音が聞こえた。
「眠ったか」
 低く聞こえたのは殿下の声だ。なんだ、こんな時間に。
「いえ、どうぞ」
 答えれば扉が開き、僅かに疲労の色をみせるエスクラシオ殿下が、アストリアスさんを伴って入ってきた。
「どうかしたんですか、こんな時間に」
 部下とは言え、女の部屋を訪れるにしてはマナー違反となる時間だろう。いいのか?
 訊ねれば、ひとつ私に言っておかなければならない事がある、と言う。
「なんですか」
「明日、話す機会をもてるかどうかも分からないからな。一応の指示はランディ達に伝えてあるが、念の為におまえにも言っておく」
「はい」
「明後日、ラシエマンシィに戻った後、おまえは一旦、東棟の部屋に戻る事になる。衛兵や警備の者達もいるが、私が戻るまで一歩たりとも部屋から外へ出るな。私かランディが呼びに行くまで、誰が来ようとも部屋から出る事はならん」
 えー?
「戻って暫くは城中も慌ただしくあるだろう。それが落ち着くまでは、 おまえも気を緩めるな。未だ、おまえを狙う者がいる事を忘れるな」
 ……それでか。
「分かりました。それで、それについて、その後、進展はあったんですか」
 それには、いや、と短い否定の言葉があった。
「だが、多くの者達が動き回る中が、最も狙いやすい時でもある。騒ぎで姿も声も紛れやすくある。用心に越した事はない」
 ま、尤もだな。
「それで、戻ってから、私は何すりゃ良いんですか」
「なにもするな」
 ……ぼうっとしてろってか。
 アストリアスさんが、苦笑を浮かべて言った。
「足りない物や欲しい物があれば、侍女達が用意するよ。それに、君も戦の疲れが溜っているだろう。暫くの間、部屋でゆっくりと休養を取るといい。せめて、元の体形に戻るくらいまでの間はね」
 ダラダラして肥え太れってか。まあ、それも良いけれどな。飯さえ不味くなけりゃ。それが、問題。
「分かりました。じゃあ、暫く、寝て食べて暮らします」
「うん、そうしなさい」
 アストリアスさんの、こんな満足そうな笑みを見たのは初めてかもしれない。
「それで、私の処遇って、いつごろ決まるんでしょうか」
 その問いを発した途端、消えてしまったけれど。
「それは陛下の御都合による。それまでは、私の庇護下にある」
 無表情の殿下が答えた。
「そうですか」
「話はそれだけだ」
「わざわざ有難うございました」
「ゆっくり休め」
「おやすみなさい」

 何か変わったかのような気がしても、何も変わってなかったりする。
 ……実際、そんな事ばかりだ。




 << back  index  next>> 





inserted by FC2 system