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 なんとか無難に遣り過ごせた夕食の後、レティ達が母親に婚約の報告をするようなので、邪魔にならないよう部屋に引っ込むと、ランディさんが謝罪にやってきた。
「気を悪くしただろう。すまなかった。でも、どうか、母を許してやって欲しい」
 そう言う表情は、ランディさんの方が傷ついているように見えた。
「私はなんとも。気にしないで下さい。ランディさんこそ大丈夫なんですか」
 この表情は、以前にもグスカで見た事がある。
「私? 私は大丈夫だよ」
「でも、あの時と同じ顔していますよ。私が恨む気持ちを諦めてくれってお願いした時と」
 そして、戦の声が近付いてきたチルバの街で荒れ始めた街の様子を見ていた時も、同じ表情をしていた。
「無理しないで下さい。お父さん達の事、悔しいのは分かっていますから。憎むなって言う方が無理だって分かっていますから。私だって同じなんです」
「ウサギちゃん……」
「私、夢の中で、これまで何度もジェシュリア王子を殺しました。現実では殺さなかったけれど、夢にあの時の事が出てきて、その度に、口汚く罵って剣で刺し殺しているんです。いつも血だらけになって、いつも心臓が止まりそうな感覚があって、目が覚めるんです。その夢を見た時は、起きてからも現実だったのかって思いもします。だから、お母さんの事もランディさんの事も責められない。でも……夢から覚めた時、凄く苦しくて嫌な気持ちになります。自己嫌悪にもなります」
 見上げるエメラルドグリーンの瞳は、今にも涙があふれ出て来そうにも見える。
「ランディさんも、きっと似たような感じなのかと思います。それよりももっと、強い気持ちだろうと。でも、私のせいで、スレイヴさん達とも知り合って、余計に苦しめてしまったかもしれません。多分、これからも同じような思いをさせる事になります。ランディさん達には、いつか謝らなきゃって思っていました。ごめんなさい」
 憎しみという感情の、なんと根深いこと。他の感情を圧する力を持つ。
 敵を憎まなければ、自分を保てないのだ。心の奥底で、時折、囁く罪悪感に苛まれながら、仕方がなかったのだ、あちらが悪いのだから、と己の行為を正当化し続ける。そうしなければ、すべてが壊れそうになってしまう。……そうまで憎む事が間違っていると分かっていても。嫌だと思っていても。失われた命を思えば、理不尽さの前でそうやってもがかずにはいられない。
「ウサギちゃんが悪いんじゃないよ」
 頭を下げれば、ゆっくりと抱き寄せられた。
「ただ、私達が愚かなだけなんだ。分かっていても、同じ事を何度も繰返す。何度も同じ悪夢を繰返してしまう。他に方法を知らないから」
 背や腰に回された腕は空気を抱く柔らかさで、私ではない大切な何かを抱きかかえている様に感じた。
 多分、今、ランディさんの腕の中には、ふわふわとした毛の小さな兎がいるのだろう。爪も牙も持たない、温もりだけを伝える優しい生き物だ。
 深い溜息があった。それは、絶望してのものではなく、安堵に近いものだ。
「ごめんね」
 いつかと同じ、謝罪の言葉。
 これは私に言ったものか、兎に言ったものなのか。でも、同じ答えだ。
「いいんですよ。許します。だから、ランディさんも私を許して下さい」
 先に一歩を踏みだす為には、お互いにしてしまった事を許すしか方法が見付からない。でも、一度、許したとしても、なにかの切っ掛けで人の心はすぐに揺らいでしまうのだ。だから、その度、お互いに許し合うしかない。
 憎しみが薄れるまで。地を踏みしめるが如く落ち着くまで。或いは、風化するまで。
 時に解決を委ねるしかない。そう感じる。
 でも、いつまで続けなければ、ならないのだろう?
 少なくとも、生きている間は同じ痛みが続くに違いない。
 だから、罪。だから、贖い。
 私は、それをスレイヴさん達から教わったように思う。
 背中に回されていた手が、髪を梳くような位置に移動した。腰に回された腕の力も少し強くなった。
 顔をみあげれば……ああ、うん。オトコの顔になっていた。柔らかさはあるが真剣味を帯びた表情には、本能的な欲の薄い膜がかかって見える。
 躊躇いをみせながらも、静かに唇が下りてきた。
 私の口元を目指して。
 声をなくした部屋は、とても静かだ。身じろぎする音ばかりが、大きく聞こえる。
 密着する体温を遮るように、右手を間に滑り入れた。そして、下りて来た唇を指先で軽く押さえた。
「駄目ですよ、ランディさん」
 嗜めるつもりもなく言った。
 塞ぐ指先の手首が、体温の高い手に取られた。
「キスもだめ?」
 ねだる甘い声が囁く。
「たぶん」
 私は、これまでになく情欲の色を帯びる瞳を見ながら答えた。
「私が応えられないのは知っているでしょう」
「それでも、欲しいよ。ずっと、欲しかった。君が死を願った時、どれだけ苦しかったか分かるかい。君が私の前からいなくなってしまうそれだけで、気が狂いそうだった」
 絡めた私の指先を、唇で愛撫する。まるで、指先が私そのものであるかのように、ゆっくりと焦らすように、掠めるが如く唇を這わせる。
「一時でも手に入れられるのであれば、命さえ惜しくない」
 なんという艶っぽさなんだろう。男がこんな色を帯びるところを初めて眼にした。こんな情熱的な口説き文句も聞いた事がない。五感のすべてが目の前にいる人に支配される……ほだされそうだ。でも、
「だからですよ」
 僅かに火照る自身の身体を感じながら言う。
「私は、ランディさんを私のせいで不幸にはしたくないんです。そのくらい好きですよ」
 もし、許される立場ならば、今、抱かれても良いと思うぐらいに好きだ。その唇で、手で、もっと触れて欲しいと思っている。感じたい、と。
 でも、これは恋なんかじゃない。恋などしなくたって、抱かれる事ぐらいは出来る。
「本当はね、死ぬ方法を考えた時に、誰かに抱かれる事を考えました。妊ってしまえば、殿下も私を殺すしかないだろうって。その時、真っ先にランディさんが思い浮かびました。ランディさんなら嫌じゃないなって。でも、そうなった時に相手がランディさんだって事が知られたら、ランディさんもただではすまないでしょう。殿下達だって、みんな苦しむに違いありません。レティには、絶対に許して貰えないでしょう。そんな事になったら、と考えついた自分が嫌になりました。でも、他の知らない誰かを相手にするのは、私の方が嫌でした。肉体的にも精神上でも。そして、これ以上、無関係な人を巻き込みたくないから」
 恋をしていないこの人に抱かれるというのも、逆に傷つける事になる。だから、出来ない。
 私は告白する。
「ランディさん。私は自分の立場を知った時に、恋はしないって決めました。誰かを好きになるのはやめようって。好きになるまいと決心して、これまで来たんです。そして、これからもそうあろうと思います」
 だから、いつもこの人達とは距離を置こうとした。好きにならない様に。ともすると、彼等は私にとっては魅力的に映ったから。一度、恋をしてしまったら、日本で関係あった男達よりも好きになってしまうだろうから。
 ……報われない恋をしたいとは思わない。これ以上、苦しい思いをしたくない。これからも。
 今、自分が立っている五十センチ四方を守るだけが、私にできる精一杯のこと。
 そうか、とランディさんは少し驚いた様子で呟いた。
「漸く、今、わかった。何故、君が私達の言葉を聞こうとしなかったのか。どうして独りでいようとしたのか……君はそうする事で、君自身を守っていたんだね。そして、私達を守ろうとした」
 腰から手が放された。そうして、手が大きな両手で包まれ、愛おしむように撫でられた。
「馬鹿だね、君は。こんな華奢な手で……」
 今度は愛撫するではなく、労るようなキスが指先に落された。
「ごめんなさい」
 低い位置にある頬に、軽く掠めるようにキスを返した。
「許して」
 ランディさんは一瞬、目を瞠って、そして、微笑んだ。寂しそうに。
「しょうがないね……頬になら良いかい? 友人として」
 瞳の中の色は失われてはいなかったけれど、言葉が透明な壁をつくり、私達を隔てた。
 それくらいならば、と黙って頷く。
 白金の髪が、眼の前を一瞬、遮った。柔らかい感触が右頬に触れる。
「許すよ、キャス。そして、君の事がとても好きだよ」
 優しい言葉が私の涙腺を撫でた。
 人から好きだと言われて、こんなに嬉しくて哀しかった事はない。
「ありがとう」
 他に言葉が見付からない。
「私こそ感謝を。そして、これからも私の剣は君と共にあろう」
 おやすみ、と蝋燭の炎さえ揺らさぬ柔らかい声が言う。
「良い夢を」
「おやすみなさい。ランディさんも良い夢を」
 温もりを放した手は、それでも余韻に包まれている。きっと、今夜は良い夢が見られるに違いない。
 でも、戸の閉まる音を聞いて、途端に咽喉に締めつけられるような痛みを感じた。
 あんまり痛くて、涙が一滴だけ零れ落ちた。
 これは、恋なんかじゃない。
 愛でもないだろう。
 おそらく、情愛と呼ぶもの。
 それでも、日本にいたら滅多に持ちえなかっただろうこんな気持ちを持てた事を感謝する。

 ……あの人が、これから先、幸せでありますように。




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