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 次の日の朝、子爵夫人に別れの挨拶をして、ランディさんの本邸を後にした。
 出て直ぐのところで、ランディさんが馬を止めて私に言った。
「邸の裏に小さな山があるだろう」
 眺めれば、邸の裏手に針葉樹に覆われた、小高い丘とも言える山が見えた。
「こどもの頃は遊び場になっていたんだけれど、あそこに白い兎が住んでいてね。私はそれを捕まえたくてよく追いかけたものだよ」
 その話は、前に一度、レティから聞いた事がある。
「兎を捕まえてどうするつもりだったんですか」
 訊ねれば、くすり、と笑って、別に、と答えた。
「ただ捕まえたかったんだ。捕まえて触ってみたかった。それだけさ」
 そして、またゆっくりと馬を進め始めた。
 そっか……。
 ランディさんの方でも、見えないラインが引かれたのを感じる。友情と口にする程度には私の位置づけが出来たという事なのだろう。それはまだ危ういものなのかもしれないが、口にしている間に確実なものに変わっていくのかもしれない、とも思う。
 一抹の寂しさが私の心の内にも過りもするが、仕方がない。
「案外、捕まえてしまうと、こんなものだったかって思うのかもしれませんね」
 私の答えに、「そうかもしれないね」、と返答があった。
「手に入らないから、余計に思ってしまうのかもしれない」
 ……きっと、そうだよ。
 ざわつく心を静める事にも慣れていくかもしれない。でも、そんな風にして生き続けて、私は何を得られるんだろう。なにか得られるものがあるのかなあ?
 何か色々なものが、どんどん削ぎ落とされていくような感覚すらある。結果、得られたのが、悟りの境地なんて言うもんだったら、殴るぞ、おい。って、誰を?

 ……今日の空の色は、薄青い。

 気がつけば、こうして外を歩く事もこれから早々出来なくなるに違いない、と気付いたのは、遅まきながらアルディヴィアの都の高い塀の向こうにラシエマンシィを認めた時だった。
 ちぇっ。もうちょっと、のんびりとするんだった。
 そう思いながらも、ほんの少しだけ安心する部分も感じた。
 ……もうすぐ、終る。やっと、終る。
 グルニエラの馬上で、残りの道を前よりも暖くなった風を感じながら歩く。都の門を潜り、久々に眼にする街並みを目に焼き付ける。人の声や雑多な生活音、匂いを嗅ぎ取りながら、ゆっくりと坂道を上っていく。
 馬に揺られる感覚。握る手綱の感触。
 そんなものでさえ、これから先、滅多に味わえるものではなくなるだろうものを抱え込む様に、自分の中に焼き付ける。
 グルニエラとも、お別れだなあ。ツンデレお嬢様のこの子は、私が乗らなくなった後はどうするんだろう?
 グレリオくんに訊いてみた。すると、「牝馬ですから」、と婉曲な答え。……ああ、繁殖に回されるのか。
「グルニエラは良い馬ですから良い環境に置かれて、きっと、小馬も良い馬に育つでしょう」
「そっか。相手も良い馬だと良いね」
 マニア受けな性格だけれど、気が合えば、上手くいくだろう。馬だけにウマが合う、なんちゃって。……自分で言っていて寒いな。
「血統から良いですから、番の相手もそれなりの馬が選ばれるでしょうね」
「そうなの?」
「殿下の馬と同じ父系ですよ。確か同じ祖父であったかと」
 へえっ! あの鹿毛のでっかい馬と親戚かあ。血統の事は良く分からないが、殿下が乗っているってだけで、良い馬には違いないだろう。
「おまえ、実は凄い子だったんだねえ」
 そう言って首を撫でると、『まあね』、と自慢げに鼻を鳴らした。
「私、今迄そういう事も知らずに来たんだね」
 おざなりにしてきた色々な事の中には、知るには遅すぎた事柄も多いのだろうなあ。状況に振り回されて、見失ってきたものも多かったのだろう。
「でも、グルニエラはキャスに懐いていますから、今後も乗る機会はいくらでもあるでしょう」
 グレリオくんが言った。
 あれ? 彼はまだ知らないのだろうか。私が殿下の下を離れる事を。……まあ、そうかもしれないな。特に話すほどの事でもないのかもしれない。
「今度は、もっと、気楽な状態で走らせてあげたいね」
 そんな機会があるかどうかも分からないが、走る事が好きな子だから、そうしてあげたい。
 すると、そうですね、とグレリオくんは笑った。
「偶には遊んであげて下さい。それが無理でも、厩舎に会いに。でないと、また拗ねて大変ですから」
「そうだね。お許しが出るなら」
 そう答えながら上る坂道も、ゴールが見えてきた。

 出発の時と同じく、到着も出迎えがいない静かなものだ。
 裏口からこっそりと敷地内に入り、グルニエラから下りる。
「じゃあね。これまで有難う。元気でね」
 こすりつけてくる頭を撫でて別れを告げる。最後に角砂糖もあげた。
「お預かりします」
 グレリオくんが手綱を牽いて、グルニエラを促して私から引き離した。
「うん、お願い。労ってあげるよう世話する人達にも言ってあげて」
「ええ、伝えますよ。心配しないで下さい」
「キャス、部屋まで送るよ」
 と、ランディさんが私の肩に軽く手を添えた。
「では、ケリーさん、貴方はこちらに。部屋までご案内します」
 ウェンゼルさんが、馬車から下りたケリーさんに声をかけた。
「ああ、頼むよ。いや、近くで見ると、また凄い城だね。迷子になりそうだ」
「でも、直ぐに分かるようになるでしょう。そこまで複雑な造りではないですから」
「そうなのかい。では、ミズ・タカハラ、また後程」
「はい」
 先に城内へと入っていく二人の背を見送って、私達は別の入り口を目指す。
「彼は君の事を、キャスとは呼ばないのだね」
 歩きながら、ランディさんが言った。
「一応、お医者様と患者だから。そこまで、まだ親しくはないし」
「ふうん、でも、神の御遣いとして同じ世界から来たのだろう」
「神の御遣いはどうかは分からないけれど、でも、国も違うし、言葉も風習もまったく違う国だから。こっちに来なければ、一生、会う事もなかったと思いますよ」
「へえ、そうなのか。名前の前に言ったミズというのは?」
「ああ、それは、女性に対する敬称で……」
 そこから、私はランディさんに自分が暮していた世界の風習などを喋りながら、部屋へ向かった。
 そんな些細な事が、なんだかとても不思議に感じた。
 チルバの街で同じ家に暮していて、これまでも話す機会はいくらでもあったというのに、私も自分のいた世界の事を話そうとはしなかったし、ランディさんも訊こうとはしなかった。隠していたわけではないが、おそらく、これが私が作っていた壁の弊害というものだったのだろう。彼等としても、訊ねたくとも切っ掛けが掴めなかったのではないか、とも思う。
 孤独を寂しがりながらも、私は彼等に近付きすぎないように、無言の内にシャットアウトしていた。いや、それとも、逆に話さない事で、自分が異質な存在である事を意識しないが為もあったかもしれない。
 しかし、どういう理由であれ、エスクラシオ殿下の下を離れることで気負う必要がなくなった今、漸く、まともに彼等と日常会話が出来るようになるというのも皮肉な話だ。
 これからも私と共にあると言ってくれた人に、今更、こんな態度を取るのは間違っているのだろうか。徹底してこれまで通りの態度を貫くべきだったんだろうか。それとも、最初から間違えていた?
 こんな事を考えるのも今更だ。彼等に対しては、考えすぎて駄目にしていた部分が多かったのだから。
この先、私の身がどうなるかも分からない状態でいる内は、せめて、目の前にある微笑みを消さないようにすべきなのだろう。私の為に剣にも楯にもなろう、と言ってくれた優しい人に報いるには、それくらいしか思いつかない。

 ……でも、本当に、人間関係って難しい。




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