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 それまで静かだった口調も、途端、堰を切ったかのように激しいものに変わった。
 こちらとしては、冷静さをキープするしかない。
「そんな事していませんし、誓って何もありません。その証拠に、殿下のお傍を離れる許しを得ました。いま、今後の処遇について陛下よりの御沙汰待ちです」
「たわけた事を! そんな世迷言を誰が信じるものか! 先ほどの聖騎士殿との会話、しかと耳にしておるぞ! しかも、何故、そちごときの処遇に陛下が沙汰を出さねばならぬ!? 語るに落ちるとは、この事ぞ!」
「いや、あれは、聖騎士の丸っきりの早とちりです。本当は、私に同行していた騎士の婚礼の話で」
 あのド阿呆のせいで、えらいとばっちりだ。
「処遇については、私が、」
「黙れ! 黙りなさい! 嘘はもうよい! 聞きたくもない!」
 目の前にいるこの女性が、風を操っているのではないだろうか。
 鋭い声と共に、どうっ、と全身が押される。その勢いに、思わずよろける。
 あぶない、あぶない。
「……もう、下におりませんか。風が強くなってきました」
「黙れと言うておろうっ!」
 一喝するコランティーヌ妃は、その人形の様な容姿にはっきりと怒りの衣を纏っていた。
 頬は紅潮し、瞳は輝きを増して、震える唇を噛み締めている。
 皮肉にも、これまで見ていたよりも生気に溢れた今が、最も美しいと私は感じた。
「ならば、何ゆえに、ディオクレシアス殿下は私に会おうとなさらぬ!? 何故、今更、諦めろと父に言われねばならぬ!? 父こそ、殿下との婚姻を強く望んだ筈であったのに! 殿下に相応しくなれと! 殿下こそ相応しい方だと! その通りにしてきたのに、その言葉を信じそうしてきたのに、それを今更!? 皆、そちが、おまえがここに来てからおかしくなったのだ!! おまえこそ、元凶にほかならぬ!!」
 フィディリアス公爵が……では、先ほど、陛下に御一緒されていたのは、コランティーヌ妃の事について相談していたのか?
「それは、私とは関係ありません」
 ああ、面倒臭い。話を聞こうとしない相手と話すのは疲れる。
 つか、殿下も殿下だ。ビシッ、と会って話をつけりゃあいいのに。男ってのは、普段、偉そうにしていても、こういう事に限って及び腰になるんだよなあ。てめえの尻ぐらい、てめえで拭けっつうの。
「おまえの様などこの馬の骨とも分からぬ様な者が、ディオクレシアス殿に相応しいと思うてか! その醜い容姿と骨と皮のような身体。そうして立っているだけでも、下品、極まりない! 御目に触れることすら汚らわしい! 御耳にその声を聞かせるだけで厭わしい! ああ、何故、このような者を御傍に置かれるのか!? ディオクレシアス殿に相応しいのは、この私! 私以外に、あの御方に相応しい者などおらぬというのにっ、何故っ!」
 ……ああ、もう勝手に言ってろ。
 完全にヒステリー状態だ。
 これだけ自信があるのは大したものだが、それを否定できないところが、もっと凄い。まあ、見た目に関してのみだけれど。
「誰にも……誰にも、ディオクレシアス殿を渡さぬ。邪魔はさせぬっ!」
「誰も取りゃあしませんって。もうちょっと我慢してくれれば、私も消えますから」
「いいえ、いいや、もう我慢できぬ!」
「そんな事言わないで。今は頭に血が上っているから分からなくなってるかもしれませんけれど」
「もう、沢山ぞ! おまえなど、此処に来るべきではなかったのだ! ラシエマンシィにいてはならぬ者! 穢れた魔女ッ!!」

 ……吃驚した。

 すとん、と音をさせて、その言葉が私の中に落ちてきたから。
 それがあまりにも唐突すぎて、吃驚して動けなくなった。

 ……最初から、誰かがそう言ってくれたら良かったんだ。

 そうしたら、ルーディも死ななくてすんだ。辛い思いも、哀しい思いもしなくてすんだ。
 私も、ここに、この世界に来たくなかった。
「おまえが一歩、踏み出すごとに大地は血を流し、触れる物すべてを腐らせる! その目に映すものすべてを穢れさせ、その声を耳にしたものすべてが呪われよう! おまえの存在は、この美しいランデルバイアをいつか滅ぼすに違いない!! 斯様な者を、あの御方の、ディオクレシアス殿のお傍にこれ以上、置いておくわけにはいかぬ! いてはならぬっ!!」
 息が止まっていた。それから、ゆっくりと、溜息が洩れた。
 肩から力が抜けた。
 これは、安堵の息だ。
 酷く詰られていることは分かっていた。理屈もへったくれもない、言いがかりでしかないという事も理解していた。でも、ずっと、私は、こうして私の存在を否定してくれる言葉を聞きたいと思っていた事に気付いた。
 私の周囲にいる人は優しい人が多くて、私を傷つけまいと目や耳を塞ごうとして懸命だった。その為に多くの努力をはらっていてくれる事も知っていた。感謝すべきである事も。
 でも、私は、私を見失った。
 この世界は綺麗で、美しい物や好きな人も多くあったけれど、それと同じくらい汚くて、醜い物も嫌な人もいた。それは、元の世界と変わらない。ただ、違うのは、私が、ここでは美しい物を壊し人々を傷つける絶対の存在である事。
 なのに、私を大事にしてくれる人達がいた。好いてくれる人達がいた。
 どうして大切にされるか分からなかった。私は、私自身の存在価値がどこにあるか、分からなかった。けれど、こうして面と向かって罵倒されて、やっと安心した。『やっぱり、そうだったんだ』、と納得できた。
 私がこの人であっても、同じ事を言うだろう。
 捩れた紐が、ほどけるが如く。
 振り切っていた針が、丁度よい場所に戻ってくる感触。

 ……私は、この世界に来たくはなかった。いるだけで、好きな人達を無条件に傷つけるから。

「おまえなど、この世から消えていなくなってしまえば良いッ!!」
 風よりも高い声が叫んだ。
 整った顔立ちを歪ませ、結い上げていた髪が風に乱されているのを気にする事もなく、私に罵声を浴びせかけてくる。もう、完璧な姫はそこにはいなかった。コランティーヌという名の、恋に狂った、ただの女だ。
 平常心を失った女の酷い言葉。でも、私もそう思う。
 息苦しさを感じた。
 手袋を嵌めた両手が、私の首を締めていた。
 間近に、憎しみを見た。
 嫌悪を見た。
 これが、殺意というものか、とぼんやり思った。
「おまえなど、ここで果てるがよいっ! 消えてなくなれッ!! 私の前から! ディオクレシアス殿の前から、消えてしまえッ!!」
 振り絞るような声と共に、首が締めつけられる。
 案外、力があるのだな、とぼんやり思った。
 伸びた手に綱が触れた。
 のけぞる背の勢いで、握った重しが揺れて、頭上の鐘がひとつ微かな音をたてた。
「この穢らわしい野良猫ッ! いつも、いつも邪魔をしてッ! あの方を独り占めにしてっ!」
 ……独占なんかしてないよ。放置されっぱなしだ。
 膝が折れて、床についた。それでも尚、首を絞める力が緩む事はなかった。
「おまえなぞ、あの時に死んでいれば良かったのだ。何度も、何度も、閉じこめても直ぐに逃げ出す。放りだしても直ぐに戻ってくる。その度に、私がどんなに頼んでも、ディオクレシアス殿は共にいてはくれなんだ。たかが野良猫の分際で、私の手を傷つけても、叱ってもくださらなんだ。それどころか、事もあろうに私の方が悪いとおっしゃられる。それが、どれだけ悔しかったか、おまえに分かるか」
 ……なんの話だ?
「悔しい、恨めしい。どんなにお慕いしても、私を見て下さらぬ。その御手で触れて下さらぬ。おまえに情をかけられるその横で、見ている事しか出来なんだそれが、どれだけ悔しかった事か。恨めしいばかりであった事か! 漸く、消せたと思っていたのに! なんと、忌忌しい白い毛!」
 これは……チャリオットの話か? 漸く、消せた?
 急に、目が覚める様な気分を感じた。ぼやけていた焦点が、目の前のその人に合う。
 チャリオットを、この人が殺した!? 行方不明になった事もあると聞いた事がある。それもこの人の、コランティーヌ妃の仕業だったというのか!?




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