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 悟った瞬間、自然と抵抗していた。首を絞めるその両腕を掴んでいた。
「おのれ、おのれ! 往生際の悪い!」
 一層、強まった力に抗い、絹の上質な手袋に爪を立てる。咽喉から妃の手を引きちぎる勢いで、掴んだ。膝立ちのまま、身体を大きく捩って、逃れようとした。
 耳に近く、大きく風の唸る音を聞いた。
 よろけたコランティーヌ妃の身体に当って、上から垂下っていた綱が大きく動いた。
 首から手が離された。
 途端に、気道に空気が流れ込み、噎せた。
「おのれ!」
 再び掴みかかろうとする手を逃れ、揺れながら手元に来た綱を取り、勢いをつけて妃に向けて放った。
 振り子の動きで、コランティーヌ妃に鉄の重しが飛んでいく。
 だが、早さはなく、緩やかな弧を描く動きに、たとえ妃であろうと難なく除けられる。
 掠れる鈍い鐘の音が、ひとつ小さく鳴った。
 戻ってきた綱を、もう一度、妃の正面に移動して投げつける。
「貴方がチャリオットを殺したの!? 私を殺そうとしたのも、貴方が命じたの!?」
 綱を除ける妃の対角線上に逃げながら、私は問う。
「おまえが邪魔をするから! おまえが戻って来さえしなければ、こんな苦しみもなかったであろうに! ああ、胸が焼ける様に痛い! みんな、おまえがいるから! 厭わしい! 悔しい! ああ、苦しい。何故、これ程までに苦しいのか!?」
 身悶える様な答えが返ってくる。
 この人は……
「だったら、もう止めて! 今なら、まだ、殿下も許して下さる! 目を覚まして! 私はチャリオットじゃないし、私を殺したって、意味はない!」
 無意識に存在するだろう良心が、妃を苦しめているのか。
 嫉妬や、独占欲や、他の様々な嫌な感情を、極端な形でしか表現の仕方を知らないのだ。
 姫の中の姫。国で一番の美貌と謳われる、騎士達の憧れ。
 そうあり続けようと、そうあれと教えられ続けて、表面上は完璧にこなしてきたせいで、精神の均衡が崩れたに違いない。押し殺して来た感情が、僅かな切っ掛けで、火山の噴火の様に一点集中型で顕れてしまう。それは、本人であっても、止められない。
 止める方法を知らないから。
 自分を誤魔化す方法を知らないから。
 自然に学ぶ筈のその切っ掛けを、失ったから。奪われたから。
 純粋すぎると言えるのかもしれない。素直すぎたのかもしれない。己の感情に、他人の感情に、真正面からしか対せないのだから。
 相手は猫だったというのに。人に対するものと動物へのそれは、比べられるものではないというのに。それすらも分らなかったのか。知らなかったのか。
 なんて、憐れな。なんて、可哀想なお姫さま。こんなに綺麗なのに……
 しかし、今は逃げるべきだ。今のコランティーヌ妃が、私の説得に耳を貸すはずがない。
 私は隙をみて、床に空いた出口に向かった。
「逃がさぬ!」
 強い風に背中を押された瞬間、横から飛びついてきた妃に倒された。更に伸し掛かろうとするところを跳ね除けて、這いずって逃れる。だが、起き上がろうとしたところを、また上から馬乗りされる。俯せになりながら抵抗して仰向けになり、ずるずると背中を擦って逃れながら、掴みかかる手を両手を振って払った。
 と、頭の頭頂部に、浮いた感覚があった。
 しまった!
 逃げながら、端に来すぎてしまったらしい。
 出来てしまった一瞬の隙に床に身体を押し付けられ、腰辺りで私の身体を跨ぎ伸し掛かられた。
「おまえが、おまえが、おまえがいるからっ!!」
 両手で顔をめちゃくちゃに殴られた。頬と言わず、額や鼻、口も耳もお構いなしに殴りつけられた。
 私は手で頭を庇う事ぐらいしかできなかった。それでも、殴られた。一発ずつは大して威力もなかったが、それだけ連続して殴られれば、痛みも続いた。
 ふ、と私を殴る手が止まった。
「おまえ」、と顔を覆う両手が掴まれ、床に広げて押し付けられた。
 コランティーヌ妃の美しい顔が、私の顔を覗き込むように近付いた。
 毛穴さえ見えるほど間近に見ても、妃は美しかった。本当に作り物の様だ。
 まじまじと私を見ていた妃が、急に身体を起こした。ふっ、と吹き出す声をあげると、突然、身体をのけ反るようにして笑い始めた。甲高い声をあげ、心の底からおかしそうに笑った。本気で気がふれた様だった。
「そういう事であったか!」
 勝ち誇った様に、妃は声を張り上げて言った。
「その瞳の色! その為に!! それだけで!!」
 私の瞳の色が、この場所に来て初めて分かった様だ。そして、私が殿下の傍にいる理由も。
 理由さえ納得すれば解放されるか……一瞬、そう考えたが甘かった。
「もう一度、この場所で殺してやろう」
 薄い水色の瞳が、私を冷たく見下して言った。
 ガラス玉の様だった。感情もなく、私を殺す以外に何も考えていない瞳に見えた。
「やめ、て」
 必死で出した声も、咽喉を絞めつける力に塞がれる。
 痛さと苦しさで、魚のように口を開けてのけ反る。
 苦しい……
 両手をあげて押し退けようとしても、力が入らなかった。殴りつけても勢いがない。足をばたつかせても、宙を掻くばかりだ。
 苦しい。息ができない。
 床に背中が押し付けられて、肩甲骨がごりごりと擦れた。
 這い上がる冷気が背中を凍らせ、身体の中まで染み入って心臓を硬くする。
 霞む目に、青い空が映った。どこかで見た事のある様な空だ。
 口の中に、鉄を舐めた様な味が浮かんだ。
 この苦しさは……ああ、あの時と同じだ。
 この世界に来る前、あの東京の道端で体験したあの時と同じ。見えるのは、あの時と同じ空の色だ。
 音が聞こえた様な気がした。
 ガラスが砕け散るような音。
 空が砕ける音。
 そう、この音だ。高い、ガラスが砕けるような……風の音?
 いや、違う。空の、空であった何か。
 透明な、綺麗な何かが割れた音。次元と次元の狭間にある何か。
 今、思い出した。
 あの時、その欠片がチリチリと音を立てながら、私の上に降り落ちてきた。
 きらきら、きらきら。
 ゲル状のあの中で光りながら雨のように落ちてきて、私の身体の中に染込んで消えていく。
 否、私の身体であったものに。
 あの時、既に半分、ゲル状の中に溶けていた私の肉体を再構成した。
 吸収された欠片は、溶けた私の身体の一部になる。そして、私を侵食する。
 ありとあらゆる有機体。その欠片が育っていく。
 生暖かい水溜まりの中で生命が生まれるが如く、新しい細胞は分裂し、残っていた私の遺伝子情報に沿って数を増やし、私を形作る。
 シトロエンズ――自然選択によって進化する、情報伝達、自己再生が可能な複合物体。
 なんでそんな事になったのかは分らない。
 私が、元の世界にいた私と同じかどうかも分らない。
 ただ、記憶だけは残っている。二十八年間生きた記憶。
 それは偶然になされたものか、なんらかの意志が働いていたのかは分からない。ただ、
 ああ、そうか……そうだったか。
 それを死と呼ぶのか、再生と呼ぶのかは分からない。
 欠片は私。私は欠片。
 私は空の一部になって、そして、この世界に落ちてきたのか。

 私は、砕けた空の欠片の一片。

 青かった空の色が、白く変色していく。
 輪郭は失われ、影という影は消えていく。

 ……今度こそ死ぬんだろうなあ……

 こんなに痛く感じるのは、そのせいだろう。
 目も開けていられなくなった。瞼を閉じ、早く苦しみが過ぎるのを待つ。
 気が遠くなっていく。
 けれど……
 今更、ちょっと悔しいと感じている。なにも出来ないままこうして死んでいくのが。
 本当は、何処かで期待していた。
 この異世界に来てしまって途方に暮れながらも、でも、日本にいた私をなしにして、新しく人生を遣り直す事が出来るのではないか、と期待していた。
 親が死んでも、姉妹が死んでも、悲しいと思うどころか、安堵してしまう自分を嫌になりながら。
 ここまで感覚が麻痺していたのかという惨めさと、どこまでも卑屈さが抜けない自分がもどかしくて、嫌だった。
 替わりのきく、いてもいなくてもどうでも良い存在は、もう嫌だと思った。後悔していた。
 何をやっても上手くいかない、他の女の子みたいに上手に生きられない自分が嫌だった。
 今度こそ、上手くやれる。ちゃんと上手くやる、とそう思っていた。
 精一杯、自分の思った通りに行動して、思った通りの結果に導ける自分になりたかった。
 周りの人に迷惑をかけずに、笑って見ていて貰える様な、そんな自分になりたかった。
 折角のチャンスだったのに……結局は、上手くいかなかった。
 もっと、悪くしただけだ。
 どう足掻いても、いるだけで人を傷つける、奇麗な物を壊すばかりの存在でしかなかった。
 大勢の人を苦しめた。辛い思いをさせた。死に至らしめた。
 こんな風に。
 ……仕方ないのかなあ。諦めるしかないのかなあ。
 ……私は、何のために生き残ったんだろう? やっぱり、もう一度、死んで償う為?
 ……誰の為に?

「コランティーヌッ!」
 聞こえたその声に、意識が呼び戻された。




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