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 唸り声をあげる風の音に混じって、その声ははっきりと私の耳にも届いた。
 ふ、と首を絞める力が弱まった。
「よせ、コランティーヌ! その者を殺してはならぬ!!」
 身体の上で、身を捩る感触があった。
「ディオクレシアス様……」
 呆然とした声が答えた。
 薄く目を開くと、馬乗りになったままで肩越しに振り返るコランティーヌ妃が見えた。
 殿下の姿は私からは見えなかったが、その声だけは聞こえた。
「責めを受けるべきは、この私だ。その者には関係はない。やめよ」
 その言葉に、私の首に置かれた手の力こそ多少は緩みはしたが、放される事はなかった。微かな震えが伝わった。
 暫くの間、動きはなかった。
 私の上にいる妃は、殿下を見つめているというよりは放心しているかの様だった。しかし、その内、小さな声で、嫌、という呟き声がその口から洩れた。
「コランティーヌ」
「いや、嫌、嫌、嫌、嫌っ」
「コラン、」
「嫌っ、見ないでっ! そんな目で私を見ないでっ! 嫌ッ!!」
 首から手が離れた。途端、気道に空気が流れ込んで、噎返った。
 妃は私の上に乗ったまま、取り乱した様子で両手で顔を覆い、叫んだ。
「嫌っ! 見ないでッ!」
 どうして、と前のめりになりながら言う。
「どうして、今になって……あれ程、お願いしても、お呼びしても来て下さらなかったのに……御待ち申し上げておりましたのに……どうして……」
 私の頬に水滴が落ちて、横に流れていった。
「斯様なまでに、この者が大事ですか。私よりも。ずっと、御慕い申し上げていたこの私よりも」
「そうではない。そなたが大事だからこそ、これ以上、傷つけたくないからこそ来たのだ、コランティーヌ。そなたの気持ちは陛下もよく御存知だ。そして、御父上も。皆、そなたの事を思っている」
「嘘ッ! 嘘ッ! 嘘ッ! 何故、今頃になってその様な事をおっしゃるのです! 何故、もっと早くにその御言葉を聞かせて下さらなんだ!? 何故、そのような目で私を見るのです!? 何故、幼き頃のように私を見て下さらぬ!? 手を差し伸べて下さらなんだ!? それだけで……ただ、それだけで良かったものをッ!!」
 ……たまんねぇ。
 こんな愁嘆場、目の前で見せつけられてしまう方が嫌になる。その声を聞いて、ほっ、としてしまう自分が嫌になる。
 どうしてこの人は、いつも、いつも……
 目を閉じる。
 かかる体重に、身体は自由にならない。意外に重い。未だ息苦しさがある。手を動かすのも億劫だ。胸が締めつけられる様に痛い。すぐに逃げ出したいのに、それも出来ない。何故、こんなに弱ってしまっているのか。大分、回復したと思っていたのだが、戦のダメージはまだこんなに残っているのか。
 ……それとも、そうしたくないだけなのか。
 床に転がっていても、吹く風の強さを感じた。生き物のような長い鳴き声が、耳の中に流れ込んでくる。
 金切り声が、すぐ近くであがった。
「嫌ッ! 来ないでッ! 来ないで下さい! 近づかないでッ!!」
「コランティーヌ、こちらへ。こちらへ来い。そこは危険だ」
 上に乗っていた体重が、じりじりと横に移動していった。
「嫌、嫌、嫌! 来ないでッ! 近づかないでッ」
「コランティーヌ! よせッ!」
 脇腹に蹴られる様な感触があって、身体が軽くなった。
 やっと、深く息が出来るようになった。息を吸い込み、身体を横にする。また、咳が出た。
「嫌よッ! 寄るなっ! この嫌らしい、ノラネコッ! 穢らわしいッ!」
「コランティーヌ、何を言っている! こちらへ来るんだ!」
「やめて! 近づかないでっ! 嫌よッ!」
 もう一度、開けた目のすぐ脇を掠めて、レモンイエローが横切った。

 あ、ヤバイ。それ以上、後ろに行ったら……

 転がっている私のドレスを捲り上げる強さの風があった。
 その時、薄く黄色いドレスの端が、視界から消えた。
「コランティーヌッ!!」
 高い悲鳴と、聞いた事のない殿下の絶叫が、同時に聞こえた。
 風が、勝ち誇る獣の咆哮をあげた。
 長く鳴いては次第に小さくなり、そして、普通の風の音に戻った。
 きぃ、きぃ、と綱が揺れながら軋む音を聞いた。
 私は息を吐き、力の入らない重い身体を起き上がらせようと身じろぎをした。
「……無事か」
 低く静かな問い掛けと共に、ゆっくりと身体が抱き起こされた。
 見上げる顔にはっきりとした表情は浮かんでいなかったが、哀しみが透けて見えた。
「殿下……」
 掠れる声で応える。
 冷たい水の色を思わせる瞳が私を映した。
 否、これは空の色。
 私が落ちた空の色。
 高く澄んだ、何処までも続く深さを秘めた空の色だ。
 深遠なる青。
 妃は、この色に恋をしていたのか。
 見蕩れながら、そう思った。
 地上にある空。
 それが僅かに伏せられ、色を濃くした。
「コランティーヌ様は?」
 返事はなかった。
 ただ、胸の中に抱え込まれるように抱き締められた。かかる力は私を慰めるというより、縋るものに感じた。
 それで、どうなったか分かった。
 落ちたのだ。この高い塔の上から。
「殿下、」
 呼びながら、その腕に触れる。自分より太く力強いそれを、軽くさすった。
「大丈夫です、殿下。大丈夫です」
 背中に回された腕が、一層、強くなった。
 表情は見えなかったが、少年の様にも感じるその人に私は繰り返し言った。
「大丈夫です、殿下」
 言いながら、鼻の奥が痛んだ。
「大丈夫です……」
 唇が震え、嗚咽が洩れた。
 解放された筈の咽喉に、また、詰まる痛みがあった。
 声が出なくなった。
 目頭に熱い痛みが走って、止める間もなく涙が溢れ落ちた。
 身体ががたがたと、大きく震え始めた。
 涙は次から次へと流れ落ちてきて、私は泣きながら、抱き締める温もりにしがみついた。震えを止めようと、必死になって縋った。
 その時、はっきりと、「カスミ」、と呼ばれた。少し発音は違うけれど、間違いなく私の名前だった。
 人が自分の名前を呼ぶのを聞いたのは、本当に久し振りだった。
「カスミ、もう大丈夫だ。安心しろ。おまえの命を狙う者は、もういない」
 吐息のような、夜を思わせる静かな声がそう言った。
「終ったんだ」
 終った……?
 信じられない思いで、その言葉を反芻する。
 終わった?
 死なずにすんだ?
 まだ、生きていられる?
 そう思ったら、もっと沢山の涙が出てきた。

 ……こわいよう。こわかったよう。

 私の中にいるちいさな女の子が泣いていた。安心して泣いていた。
 そして、殿下の腕にしがみつきながら、私もぼろぼろとみっともなく、いつまでも泣き続けた。
 そんな私を、殿下は泣き止むまで、ずっと抱き締め続けてくれていた。




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