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 暫くして落ち着いてから、私はエスクラシオ殿下と一緒に塔を下りた。長い螺旋階段を殿下に支えて貰いながら、自分の足でゆっくりと歩いて下りた。
 コランティーヌ妃が幸せだったという時間。それを今、私が経験していて、切望していた妃は多分、もうこの世にいない。
 途中、殿下からは、時々、「大丈夫か」、と気遣いの言葉があったが、それ以上の事は何も話さなかった。
 私も色々と疑問があったが、何から訊いたら良いのかも分からず、また、何から話したら良いのかも分からず、短く答えるだけで何も話さなかった。何も話さなくても、その時の私には、傍にいてくれる人がいるというだけで充分だった。

 塔からの階段を下りて神殿に通じる扉を開けると、そこでは、騒ぎが起きていた。
 複数の騎士や兵士達が集まり、倒れた椅子を直したり、落ちた物を拾ったりして神殿内を片付けているようだった。
「殿下ッ!」
 カリエスさんが駆け寄ってきた。
「キャス、無事で……良かった」
 心配したのだろう表情で言われた。そして、
「殿下、コランティーヌ妃が、」
「分かっている。私はこれを連れて部屋に戻る。その後、陛下へ御報告に向かう。その間、こちらの事は任せる」
「御意。先ほどクラウス殿下が聖騎士を伴い、陛下の許へ向かわれております」
「そうか。では、暫し、猶予もあろう」
「はっ」
「ランディ達は」
「無事です。グレリオが怪我を負いましたが、かすり傷程度です。妃の護衛四名については、一名は重症を負い、治療を受けさせております。一名は自害。他、二名を捕えました。今、牢に送ったところです」
「そうか。あの者達には、まだ聞きたい事がある。自害させるな。あと、ランディの手が空いたら、これの部屋へ寄越せ」
「御意」
「では、頼む」
「はっ」
 頭を下げるカリエスさんの前で、いきなり横抱きに抱き上げられた。
「おろして下さい。自分で歩けます!」
 驚いて言えば、「黙っていろ」、と低い声で言われた。
「目を閉じてじっとしていろ。おまえが相応の被害を被ったことを他に知らせる必要がある」
 ……ああ、そうか。私がコランティーヌ妃を突き落としたと思われない為に、か。
「……はい」
「人目があるところまでだ。我慢しろ」
「はい」
 見上げる表情は硬く、いつもの如くその胸中は推し量れない。
 でも、その腕の中で、私はとても安心していた。
 揺るぎなく歩く振動と鼓動を感じながら、目を閉じて、温もりに縋り付くように、じっとしていた。騒々しいばかりの雑音や人の声が、速い速度で耳元を通り過ぎていくのを聞いていた。
 ざわめきが聞こえなくなっても、殿下の腕が下ろされる事はなかった。そして、さぞかし重かろうと思いながらも、四階にある部屋に着くまでの間、私も黙って抱えられるままでいた。

 部屋に着いて早々にケリーさんが呼ばれて、私は寝室で手当てを受けた。
 頬が少し腫れて、首に絞められた手の跡が残り、腕や足に痣や擦り傷ができていたけれど、大した怪我ではなかった。
 殿下は治療の間も、ずっと、私の書斎に残っていた。
 そして、私に大事がない事を確認してから、ランディさんと入れ替わりに、陛下への報告に向かった。
「終ったら、また来る」
 ランディさんに私を託すと、そう言って出ていった。
 ……なんだろうな、この感じ。
 夜ほどの暗さはなく、しかし、明るいわけではない。黄昏に似た穏やかさだ。どこか、寂しさが過る。
 ふ、と残った気配の余韻を集めて縋る様な思いを抱いた。
「あれから、何があったのですか」
 殿下が出ていった後、書斎のテーブル席に移動した私は、前に座ったランディさんに訊ねた。
「その前に人払いを」
 ランディさんの言葉にゲルダさんが頷き、その通りにされた。
 他に聞く者がいなくなった部屋で、ランディさんはいつにない深刻な表情で、私が彼等から離れた後の事を話してくれた。

 コランティーヌ妃と私が扉の向こうに消えて暫くは、誰にもなんの動きもなかった。
 ランディさんとグレリオくんは私の心配をしながら、コランティーヌ妃の護衛の騎士達と共に私が戻るのを待った。四人の騎士達は、時折、小声で言葉を交わすも、やはり、同じように所在なさげに妃の戻りを待っていた。
 その間、床に蹲っていたギリアムさんもなんとか回復して立ち上がった。そして、アストラーダ殿下の許に戻るとランディさん達に言った。
 ランディさんはギリアムさんに、コランティーヌ妃が私を連れていった事をアストラーダ殿下に伝えるように小声で頼んだ。エスクラシオ殿下にも伝えてくれる様に、と。
 事情を何も知らないギリアムさんだったが、ただならぬ雰囲気を感じ取った様だ。頷いて、神殿を出ていった。
 それからも、待った。でも、私達は戻って来なかった。
「遅いですね」
 グレリオくんが言った。
「少し様子を見てきましょうか」
 ランディさんも頷いて、二人で扉の方へ移動した。
 すると、その前を四人の騎士が立ちはだかった。
「何処へ行かれる」
「様子を見に」
 ランディさんは答えた。
「ここで待たれよ」
「少し遅くはないか」
「そうでもなかろう」
「妃が心配ではないのか」
「そちらが心配しすぎなのではないか」
 押し問答が繰返された。コランティーヌ妃の騎士たちは、どうあってもランディさん達を通すまいとした。
「何かあってからでは遅いだろう」
「何かとは、なんだ。女性二人で話すだけで、何があるというのだ」
 言い合いは次第に強さを増した。
「通せ!」
「通さぬ!」
 ついに、剣が抜かれた。
 先に抜いたのは、コランティーヌ側の騎士達だった。ランディさんが剣の名手である事は承知していたが、相手も陛下の側室の護衛を務めるだけあって、それなりに腕に自信はある。その上、四対二で数に勝る事が彼等を強気にさせたらしい。
 応じて、ランディさんとグレリオくんも剣を抜いた。
 問答無用で斬りかかってくる四人を相手に、ランディさんとグレリオくんは果敢に応戦した。神殿の扉を守る衛兵達が驚いて飛び込んできたが、小競り合いというには度を越した状態に止める事はかなわず、命を落すまではいかなかったものの、深手を負う結果になってしまったらしい。
 ランディさん達には殺す意志はなかったが、向こうはそうではなかった。本気で命の遣取りを仕掛けてきていた。一人は倒したものの、状況は次第に不利になっていった。
 エスクラシオ殿下がカリエスさんら数人の騎士を引き連れてやってきたのは、そんな時だ。
 ギリアムさんがアストラーダ殿下に伝えた内容が、急ぎエスクラシオ殿下に伝えられたらしい。それを聞いた殿下自身が、直々に駆けつけてきた。
 エスクラシオ殿下の登場に、コランティーヌ妃の騎士達は少なからず驚いた様子だった。
「この者等を捕えよ」
 殿下は一言のもとに命じた。
「神殿を封鎖し、誰も通すな」
 コランティーヌ妃の騎士達は殿下には逆らうものではなかったが、それでも決死の抵抗が試みられた。
 それにより、容赦はなくなった。手加減される事なく、騎士達は捕縛された。内、一人はその際に自害したらしい。
 その間に、殿下は塔の階段を走る勢いで上っていった。
 ランディさんとグレリオくんも、すぐにその後を追おうとした。だが、カリエスさんに止められた。
「君達は部下を連れ、急ぎコランティーヌ妃の部屋へ。侍女その他、妃に関係するすべての者をその場にて待機させろ。一人とて逃すな」
 陛下の側室である身分の方に対しそんな事をして大丈夫なのか、と疑問に思いもしたが、
「アストリアスが、今、キャスの拉致と暗殺未遂に関連して、急ぎ陛下に御許可を得ているところだ」
 との返答があった。
 それで全てが納得できた。エスクラシオ殿下は密かにその証拠を集め、水面下で根回しをしながらこの機会を伺っていたらしい。陛下とフィディリアス公爵との接見もそれに関連するものだった様だ。
 陛下の側室という身分からして、おいそれと事を公にする事も出来なかった結果だ。
 しかし、そんな中、当のコランティーヌ妃が塔の上から落下し即死。
 今、城の中では大騒動が持ち上がりつつあるらしい。いや、もうなっているのか。

「でも、こちら側は既に手も打ってある状態だ。多少、混乱はしても、直ぐに収まるだろう。心配する事はないよ」
 ランディさんは微かに微笑んで、私に言った。
「ウサギちゃんもこれまで大変だったけれど、もう大丈夫だ。殿下がすべてを収めて下さるよ」
 全てが分かったというわけではないけれど、ひとつ事が終った事だけは確かなようだった。
「よく頑張ったね」
 そう言われて、また、涙が滲む思いを味わった。




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