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 殿下は、チャリオットの定位置だったという窓際に視線を流した。
「おそらく、塔から落ちたのだろうと。いくら猫でも、あの高さから落ちて無事の筈がない。地面に横たわっているのを召使いが見付けて埋葬した、と戦から帰って、兄上より聞かされた。皆、散歩の途中で迷いこんだのだろうと言った。が、私にはそうは思えなかった。チャリオットが一匹でそんなところまで行くとは、どうしても思えなかった」
 そうだろうな。猫の行動範囲って、そんなに広くない筈だから。
「でも、コランティーヌさまとは限らないわけでしょう」
 いや、そうじゃない。
 ――嫌よッ! 寄るなっ! この嫌らしい、ノラネコッ! 穢らわしいッ!
 妃の最後の言葉は、なんだったのか。
 錯乱した上で、罪悪感から見た幻なのか。それとも、殺されたチャリオットの恨みによるものだったというのか。
 いずれにせよ、妃の手によって行われた事なのだろうと察せられる。
「あれがチャリオットを嫌っているのは、薄々、気付いていた。元々、生き物は好かない性質だった様だ。チャリオットは私の飼い猫であったから我慢していたところもあったのだろう。だが、一度、チャリオットがコランティーヌに爪をたてた事があった。コランティーヌが不用意に尾に触れた事に起因したものだったが、その時、私がチャリオットを庇った事が気に入らず、すこし諍いになった事があった」
「ああ、そんな事も言っていました。殿下は、自分よりも猫の方ばかりを見ていたと怒っていました」
 まるで、猫に嫉妬していたかの様に。いや、実際、していたのだろう。その青い瞳に映される事を、真に欲していた者として。
「人と比べられるものではないのだが……あれは、そういうところがあった」
「独占欲ですか」
「それもあったろうが……いや、少し違うな。あれは、あれが理想とする世界に生きていた節がある。突拍子のないものではないし、女性としては当り前に理想とするものであろうが、現実に行えるかと言えば難しいだろう。コランティーヌの理想では、私は何よりも彼女を一番に優先するべき存在だった。例え彼女が間違えていたとしても真っ先に庇い、労り、慈しみ、愛し、最上の敬意と忠誠を誓う彼女の騎士である事を求めていた。だが、そうではなかった。その事をはっきりと見せつけられた形になって、それで怒りもしたのだろうと思う」
「それは……」
 しんどいなあ、それは。思われる方は堪ったもんじゃないな。
「おそらく、父親の影響もあるのだろう。あれの父親も完璧を求めるところがあった。常に理想を求めよ、と私によく言ったものだ。理想に近づくよう努力せよ、と。だが、それは己に対してであって、他人に求めるものではない事が、あれには分からなかったのだろう」
 ――そうあろうとしてきた結果なのです……
 コランティーヌ妃の言葉。
 彼女も、なんの努力をしてこなかったわけではなかった。ただ、自分に出来る事は、他人にも出来ると思い込んでいたのだろう。  同じレベルを目標に設定して努力しても、血反吐を吐く様な思いをしてやっと出来る者と、そう難もなく出来る者と個人差がある。それが分っていなかったように思える。
 妃のした努力がどれほどのものだったか私には分からないが、何処を努力すべき点であるか、人それぞれに価値観が異なる事も分からなかったのではないか、と感じる。
 その感覚は、限られた社会、及び、人間関係の中で育った者ならではの弊害と言えるのかもしれない。
「だが、あれに、そうはなれない事を言い諭せなかった、私の責任でもある」
「でも、普通、そういった事は自然と自分で覚えていくものでしょう。失敗しては、妥協と打算を繰返して。でなければ、身近な大人……親などが教える事です。それを知らずにいた、覚えなかった、自己責任の方が大きいと思います」
 言ってしまえば、彼女は精神が未熟だった。それは、誰の責任でもない。彼女自身の問題だ。知ろうとする意志さえあれば、周囲の環境がどうあれ、知ることが出来る範囲のものだと思う。それとも、この環境では難しいのだろうか?
「捕えた侍女が言っていた。城に戻ったおまえの噂を聞いてからのコランティーヌの様子は、まるで人が変わった様であったと。それまで、あげる事のなかった声をあげ、激しく叱責されるようになったと言っていた。怯えた様子で周囲を見回し、常に手袋の上から右手の甲を撫でる仕草を見せていたそうだ。……チャリオットが傷を負わせた場所だ。傷の痕は残さず治った筈なのだが、未だ残っていると言って、手袋を脱ごうとはしなかった」
 思わず、眉を顰めた。
 理由はいろいろ考えられるにしても、そこまでいけば、精神を病んでいたとしか言えないだろう。
 引鉄になったのは、私の存在。この白い髪がチャリオットを思い起こさせたか。
 だとしても、私に責任はない話だ。同情すべき点はない。だが、こうなる前になんとか出来なかったのか、と苦い思いも残る。
 美しすぎたのが、彼女の不幸だったのだろうと思う。
 そうして振り返ってみれば、コランティーヌ妃は、本当はとても孤独だったのではないか、と思った。
 沢山の信奉者や求婚者に囲まれてはいたが、外見や身分的な事ばかりが先に立って、彼女の本質に触れる者はいなかったのではなかったか、と感じる。だからこそ、幼いころの、なんの裏もなく手を差し伸べてきた殿下に恋い焦がれもしたし、間違いを犯す事にもなったのではないかと思う。
 そういう意味で言えば、美香ちゃんと同じと言える。外貌に価値の重きを置きすぎた人々の手によって、目隠しをされていたという点に於て。他人にとって都合のよい世界の中でしか生きようとしなかった本人の罪はあろうとも。
「話がずれたな」
 エスクラシオ殿下は言うと立ち上がり、テーブルの隅に置かれた酒の入ったボトルを手に取って、中身をグラスに注いだ。そして、今度はゆっくりとそれを口に含んだ。
「その事があって、おまえが塔に連れていかれたと聞いた時、疑いは確信に変わった。私が知る限り、コランティーヌはあの高さを怖れ、立ち上がる事すら出来ない者であったから。そして、おまえがチャリオットと同じ事になるのではないかと思った。そして、その通りだった」
 ……そうだったのか。
「では、最初からコランティーヌ様をお疑いだったのですか。私が攫われた時も」
 それには、「そうだな」、と曖昧な返事がある。
「可能性はあると思っていた。おまえの話から、運ばれた箱が相応に作りの良い物であった事が伺えた。王城内でそれを用意できる者は限られている。ただ、フィディリアス公が娘の為にした可能性もなくはなかった。それもあって、それまでもカリエスに命じて、密かに動きを把握するよう警戒はさせていたが、身分上、探るには限界があった。あの事件についても証拠はなにも出なかった為、政治面での影響を考えれば、あの時点ではなんとも言えなかった」
「蛇の噂が出た時、追及を止めさせたのは、そのせいで?」
「そうだ。あの話を最初に耳に出来たのは、ごく一部の者だけだった。疑いは強まりはしたが、ただ噂を流しただけでは罪に問う事もできまい。下手に突いて警戒心を煽っては、おまえの危険性を高めるだけにもなろう」
 ああ、では意図的にあの噂を流したとすれば、私を貶めるためだったか。周囲の印象を悪くして孤立させる為にとも考えられるか。
「だから、私を戦を理由に城の外に出したのですか。殿下がおられない間に、またチャリオットと同じ事になるかもしれないと思って?」
「ああ」
 なんて事だろう。なんと言えばよいのか、分からない。
 私の知らない殿下の過去では、周囲で色々な事があったに違いない。疑いばかりで証拠もなく。この先、それらを知る機会はないだろう……でも、
「コランティーヌさまの為に、ですか。罪を犯させない為に」
 答えはなかった。
 グラスを片手に立ったまま、七時を過ぎても未だ明るい窓の外を眺めている。
「愛しておられたのですか」
 陽の光の入らなくなった薄暗い室内で、影のように佇む姿を私は眺める。
「今となっては」、と長い時間を置いて、呟くような答えがあった。
「今となっては分からない」
「分からない?」
 長く伸びた影が、僅かだが戸惑いに揺れて見えた。
 溜息が漏れた。
「そう思った事もあった。その姿を美しいと思い、どういう形であれ、慕う心を愛しくも感じていた。しかし、同時に疎ましさも感じていた。恐ろしさも感じてはいたが、素知らぬ振りをした。妻に娶る事に納得した振りをした。立場からいって、そうすることが一番良いと思ったからだ。が、どこかに迷いは残っていた。父上がなくなって婚約を破棄する理由が出来た時、安堵した。が、そうした後も迷いは続いていた。それが何故かは、己でも計り知れぬ。何度か遣り直す機会はあったにも関らず、その度に手を取る事を躊躇った。思いきる事が出来なかった」
 惹かれてはいた、という事なのだろう。それとも、この人の持つ優しさが後悔となって、そう言わせているのか?
「他の女に心惹かれた時もあったが、無意識の内にコランティーヌと比較している事にも気付かされた。罪を犯させたくはなかった。が、それが愛しさ故であったか、政局の乱れを慮ってのものであったかは、今となっては分からぬ」
「……そうですか」
 幼い頃から当り前に傍にいたせいかもしれない。恋と呼ぶものを感じるには、身近すぎたせいかもしれない。だが、確かに、情と呼べるものはこの人の中に存在していたのだろう。でなければ、あんな叫び声は出なかったに違いない。
 あの刹那の、名を呼ぶ声。
 でも、それと同時に、私を守る事は、殺されてしまった愛猫への償いでもあったか。……それでも、この人の手には、結局、何も残らなかった。
「……寂しくなりますね」
 そう言うと、沈黙だけが返ってきた。
 多分、妃は、この人を待っていたのだろう。毎日、神殿で祈りながら、どうか来てくれますように、どうか会えますように、と。
 きっと、この人もそれを分っていながら、行かなかったのだ。黙って、拒絶を示した。
 この日の事を、これからこの人は何度も思い返しては、後悔するだろうか。
 こうなる前にもっと早く、彼女の手を取っていれば、何かを言っておけば、と思い悩むのだろうか。
 ふ、と殿下が初めて年相応らしく見えた。
 私と同じ年齢の、悩み、惑う事の多い。
 初めて目にする殿下が、そこにいた。
 その輪郭がいつになく滲んで見えた。
 黄昏の色だけを残して、グラスの中身が空けられた。

 その日、午後から一度も城の鐘が鳴らされることはなかった。
 それにより、妃の死を知った者も多くいたという。




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