父や一番上の兄は公務で忙しく、姉や二番目の兄も、社交界の行事や勉学に忙しいために、めったに食事を一緒にとることはない。
 だが、ひとつきに一度は、全員揃って食事をする習慣があった。
 母が、生前、そうしようと決めたことだ。母が亡くなったあとも、それは続いていた。
「猫を飼うことにしたのか」
 チャリオットのことが話題にのぼり、一番上の兄が言った。
「はい」
「野良猫だなんて。飼いたかったのであれば、どうせなら、もっと血統の良い猫を飼えばよいのに」
 姉は言った。
「あれがよいのです」
 私は答えた。
「猫は好かんな」
 父は言った。
「犬と違い、言うことを聞かなさすぎる。薄情な性質であるしな」
「死に目も人には見せないと聞きますわ。見た目は可愛らしくとも、きままでずる賢くて、飼い主にも平気で爪を立てる」
 姉が答えた。
「そんなことはありません」
 私はすこし、むっ、としながら答えた。
「臆病なんですよ」
 と、二番目の兄が言った。
「犬とちがって群れをつくりませんから、ほかに守るものがいないと思っているのでしょう。怖いから、死に際にも姿を隠すし、ちょっとしたことでも驚いて、爪を立てるんです」
「随分とくわしいのね」
 姉が言うと、二番目の兄は、「そう本に書いてあるのを読みました」、と笑って答えた。
「まだ子猫なんです」
 私は言った。
「母猫をなくして、一匹だけのこされていました。だから、飼うことにしたんです」
「ディオはやさしいね」
 二番目の兄が私に笑いかけた。
 そうだな、と一番上の兄も答えた。
「だが、優しいばかりでは守れないものもある。それをこれから覚えるべきだろう」
「ディオには、まだ、そんな事を言っても分からんだろう」
 父が言った。
「それよりも、ものの価値を覚える方が先かしら。良いとされるものは、それだけの価値があるものよ。それを見る目をもたなければ」
「姉上は意地が悪い」
 二番目の兄が言った。
「そんなことはないわ。本当の事よ」
「今はそれで良いだろう」
 父は言った。
「必要な慈悲を与えることは悪いことではない。だが、ディオ、覚えておきなさい。慈悲を与えることばかりが、良い事とは限らない。何かを与えることは、何かを失わさせることにもなる。例えば、それが人であった場合は、おまえが施したことにより、人としての誇りを奪うこともある。感謝をさせる事で、他に選択する自由を失わさせることもある。誇りと選択の自由を失った人間を奴隷と呼ぶ。そして、おまえは、最初は慈悲のつもりであっても、己の力を過信するきっかけとなり、傲慢に変えるかもしれない。過ぎたる傲慢は人を滅ぼす。今はわからずとも、この事は心に留めておきなさい」
 現実、その時の私には、父がなにを言いたいのか分からなかった。だが、はい、とだけ答えた。
「ディオにはまだ難しいだろうな」
 一番上の兄が私を見て微笑んだ。
「でも、そういった事も少しずつ学んでいけば良い。それよりも、人の上に立つことになった時、その優しさはきっとおまえの役に立つだろう。それをなくさないようにしなさい」
「大丈夫よ、ディオならば」
 姉が笑った。
「だって、私達の中でこの子が一番、頑固なんですもの。言い出したら、なにがあっても聞かないわ。だから、きっと、性格もいつまでもこのままよ」
 なんだか良くわからない言い方だった。
「そうだな、そういったところは、ディオが一番あれに似ている。芯の強いところもそうだな」
 父が頷いた。
「性格は、兄弟の中で、一番、母上に似ているよね」
 二番目の兄の言葉が、妙に嬉しく感じた。

 チャリオットを飼い始めて、途端に私の周囲は騒がしくなった。
 拾ったばかりの頃はひょろひょろして頼りなかったのが、腹いっぱいに食べられるようになって元気が出……元気が良くなりすぎた。あちこちを駆け回っては、引っかき回すことが多くなった。
 侍女の悲鳴があがることなんて、しょっちゅうだ。
「寝台にネズミの死体がっ!」
「カーテンがっ、ああ、そんな所にのぼって! こらっ、下りなさいっ!」
「家具に爪あとがっ! ああ、大切な御本に噛み痕までっ!」
「こんなところに粗相を、きゃあーっ、噛まないでっ! 痛い、痛い、痛いっ!」
 兎に角、毎日が賑やかになった。
 そして、私自身、怒鳴り声をあげることも少なくなかった。
「チャリオット!」
 がしゃん、と棚に飛び上がって逃げたその拍子に、花瓶が落ちて割れた。
「こらっ、まて! それをかえせっ!」
 しかし、チャリオットは、口にくわえた、赤い房を渡すまいと、身軽に飛跳ねて逃げた。飛びついたその先から、腕を躱して逃げる。
 いったい、どこで見付けて拾ってきたものか、赤い房は、一番上の兄上が着る正装の飾り房だった。
「ディオ、わたしの飾り房をみかけなかっ、」
「ごめんなさい、兄上っ!」
 ちょうど部屋に来た兄の脇を、擦り抜けるように走って逃げるチャリオットの後を私は追った。
「まてっ! チャリオットッ!」
 真直ぐな廊下を、尻尾をたてて走る猫の後ろ姿を見ながら必死になって追った。
 何事か、と通りかかる騎士が慌てて脇によけるそのすぐ横を、走り抜ける。
 角を曲がり、更に走ったその先に、階段が見えた。
 チャリオットは、これまで階段を下りることはなかった。
 しめたっ!
 ここで追詰めようと私は走る速度をあげた。
 と、チャリオットは房を加えたまま、階段の手すりに飛び乗った。そして、そのまま斜めに滑り降りていくのが見えた。
 猫の思いがけない行動に唖然としながら駆けつける。と、
「陛下ッ!」
 私が見たものは、階段の途中で頭を押さえる父と、気遣う護衛の騎士たち。そして、そのひとりの手の中で暴れるチャリオットがいた。
 聞けば、手すりをすべり下りたチャリオットと、ちょうどその時、階段を昇ってきた父の頭の高さが同じくらいになったのだろう。必死のチャリオットはこれ幸いと、父の頭を踏み台にして逃げようとしたらしい。だが、父もぼんやり歩いていたわけではなく、すぐにチャリオットに気がついた。
 それでも、遅かった。
 驚く父の頭めがけて、チャリオットはジャンプした後だったから。
 当然、父はそれを除けようとした。それでも、チャリオットは父の頭に爪をたててしがみつき、バランスを崩しながらも、後ろ足で蹴って跳ねた。
 その勢いに押されて、よろける父上を護衛の騎士たちが慌てて支えた。
 父上を足場にしたチャリオットだったが、そこで万事休す。階段ではつぎの着地点が定まらず、後ろを護衛していたまだ年若い騎士に飛びつく形になった。
 そして、取り押さえられた。
 くわえていた赤い房は、階段に転がった。
 その時、チャリオットを取り押さえたのが、まだ騎士に昇格したばかりのアストリアスだった。
 今でもその時のことをなにかの拍子に思い出しては、からかわれる事がある。
 でも、その時はそれで大変だったのだ。
「これはどういうことですかな、ディオクレシアス殿下。ひとつ間違えれば、大事故に繋がるところだったのですぞ! 階段で転倒されていたら、額に傷どころか、打ち所が悪ければ死に至ることもあるのですぞ! 陛下の御身になにかあったら、どう責任を取られるおつもりなのですかっ!」
「……ごめんなさい」
 私は、青筋を立てて怒る、父の護衛責任者であるクラレンス将軍に、おとなしく謝った。勿論、父にも。
 父の額には、数日間、チャリオットに蹴られてできた数本のみみず腫れが残った。
 あと、一番上の兄と、私の部屋の侍従長と女官と、そして、私の教育係となったばかりのフィディリアス公爵にも謝った。あと、説教のために受けられなくなった語学と歴史の教師と、剣術の指南役にも。
 流石にげっそりして、戻った部屋の長椅子でぐったりしていると、にゃあ、と鳴きながらチャリオットが傍に寄ってきた。
「おまえのせいで、散々だ。ずいぶんと叱られたんだぞ。なのにおまえはここでのんびりか」
 恨みがましく睨みつけて言ったが、チャリオットは何を言っているか分かっていない様子で、瞳孔を丸くして見返した。そして、私の膝の上に乗ってくると、そのまま丸くなった。
「まったく……おまえは勝手気ままなものだな」
 呆れて怒る気にもなれず、その頭を撫でた。すると、咽喉を鳴らしながら、もっと掻けと言わんばかりに頭を回す。
 私は、それから求められるがままに、飽きるまでチャリオットを撫でて過した。




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