「そういう時は、追いかけては駄目なんだよ」
 後から話を聞いた二番目の兄は、遊戯室でゲームをしている最中、そう教えてくれた。
「猫は怖がりだから、追いかけられれば必死で逃げるんだよ。だから、そういう時には追いかけずに、他のおもちゃや餌で気をそらせてやると良いんだよ。そうしたら、すぐにそっちへ飛びつく。猫は気移りしやすいからね」
「でも、たいへんな事故になるところだった、って父からききました」
 真面目くさった顔で言うコランティーヌに、兄はくすくすと笑った。
「そうだね。でも、なにもなかったから良かったじゃないか。腹を立てるより、そっちを喜ぶべきだと私は思うよ」
「でも、そんなぎょうぎのわるいねこは、殿下のおそばにおいておいちゃいけないって言っていました」
「行儀の良い猫なんて、この世にいないよ。そんなのは猫とは言えないね」
 二人が話している間、当のチャリオットは、遊戯室の窓際の隅に置かれた台の上で蹲り、窓の外をじっと眺めていた。
「なにを見ているんだ?」
 傍に寄って訊ねても、にゃあ、とも答えず、外の風景を眺めるばかりだ。答えたところで、私に分かるものでもないが、不思議で仕方なかった。
 同じ風景を見ていて面白いのか。それとも、私が見えないなにかでも見えるのだろうか、と。
 チャリオットは、遊戯室に連れてくるといつもこの台の上に座って、私達が遊んでいる間も外を眺めているか、寝ているかのどちらかだった。
 起きている時は、雪に埋もれる都や、都の外の遠くに霞んで見える山並みなどの風景を、窓ガラス越しにじっと眺めている。なにが面白いのだろうと不思議に思うが、その横顔の、ガラス玉のような半円球の瞳がとても綺麗だ。
 人とは違うその眼に映る風景は、やはり、私が見るのとは違って見えるような気がした。
 猫が人の言葉を喋れたならばいいのに、とその時、思った。
 頬を指先で掻いてやると、気持ちよさそうに眼を閉じて、低く咽喉を鳴らした。畳まれた尻尾の先だけが別の生き物のように、ふわり、ふわり、と宙を叩いた。
「ディオさまあ」
 半泣き声で私にしがみつくように、コランティーヌが寄ってきた。
「クラウスさまはいじわるです」
「いじわるなんか言っていないよ」
 兄は、相変わらず、口の中で笑うように言った。
「コランティーヌはお父上の言葉ばかり喋って、自分の意見を言わない、と言っただけだよ」
「兄上、コランティーヌはまだ小さいのですから、仕方ないでしょう」
 私の服を握り締め、縋るように見上げてくる顔を見下して、私は言った。
「そうだけれどね」、と兄は答えた。
「でも、公爵が必ずしも正しいことを言っているとは限らないだろう」
「そんなことはありません。父はいつだってただしいです!」
 コランティーヌがいままでにない声をあげた。
「そうかな」
「そうです」
「そうだね、公爵はいつだって正しいよ」
 私は分が悪いコランティーヌに加勢した。
「でも、ディオ、公爵が正しいからと言って、チャリオットを手放したりはしないだろう?」
 私にとっては、唐突な質問だった。
「当り前です」
 私の答えに、ほらね、と兄はコランティーヌに首を竦めてみせた。
 どうやら、二人は私がチャリオットを手放すべきかそうでないかで言合いになったようだった。
「チャリオットがどんなにいたずらをしたとしても、手放したりはしないよ」
 私は涙目になっているコランティーヌに言った。
「そんなことで手放したりしたら、それこそ無責任だろう。公爵だって、自分のしたことに責任をもちなさいって言っているだろ。だから、飼うと決めたからには最後まで責任をもつよ」
 その理屈を、コランティーヌはどう捉えたのだろうか。
「ディオさまのばかあっ!」
 そう言って、泣いて走って行ってしまった。
 なぜ泣いたのか、なぜ、私が馬鹿呼ばわりされなくてはいけないのか、よく分からなかった。
「あぁーあ、泣かしちゃった」
 兄が、ぺろり、と舌を出すように言ったのには、腹が立った。
 その後、泣いて行ってしまったコランティーヌを追って行って、泣き続ける彼女を宥めるのに大変な苦労を要した。
 チャリオットの事で叱られた時と同じぐらいに疲れた。

 チャリオットとはそれから八年間を、一緒に過した。
 こども時代を思い出せば、常にこの白い猫のことが重なって思い出される。
 追い掛け回すことは、その後も何度もあった。
 何処で遊んでいたのか、埃まみれになって歩いているのを捕まえて、嫌がるのを無理矢理、盥の中に突っ込んで洗ったりもした。そして、私も跳ね飛ばした湯でびしょびしょになったりした。
 一度などは、一日、行方不明になって、兵士や騎士までも手伝わせて城中を探し回ったこともある。見付かった時は、何もなかった様子で毛繕いをしていて、少し腹が立った。
 チャリオットの寝ている前足のニクキュウを触って遊んだり、紐を持って、走る後を追いかけさせたりしては笑った。
 チャリオットとの生活は、驚いたり、怒ったり、笑ったりの連続だった。
 そして、膝の上に抱いて撫でたり、一緒に眠ったりして、心癒されもした。
 その間に、私は初夏の季節に感じる憂鬱を薄れさせていった。

 だが、それはなくなったわけではなかった。




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