「ごきげんよう、ディオクレシアス殿下」
「ごきげんよう、コランティーヌ。久し振りだね。何か用事でも?」
 部屋にいた私は膝の上にいたチャリオットを下ろし、立ち上がった。
「はい。アウグスナータ殿下に御婚約のお祝いの品を父に代わってお届けに参りました。ディオクレシアス殿下にも一言ごあいさつを、と伺った次第です。この度は兄君殿下の御婚約、おめでとう御座います」
「ありがとう」
 いつの間にか、コランティーヌは一人前の淑女に変わっていた。挨拶の口上もしっかりしたもので、あの小さくて頼りない少女の面影が消えつつあることに、その時、気が付いた。
「時間があるならば、一緒にお茶でもどうだい」
「喜んで、御相伴に預からせて頂きます」
 私は侍女に言って用意をさせ、コランティーヌとテーブル越しに向かい合った。
「本当に久し振りだね、こうして向かいあってお茶を飲むのも」
「はい。こうしていると、初めて殿下に誘って頂いた時のことを思い出します」
「あの時はまだ五つだったね」
「はい。殿下にはいつもお気遣い頂いて、御迷惑もおかけした事を思い出しては、今でも恥ずかしくなります」
「小さかったから仕方がないよ。でも、あの時からすると、見違えるようだね。綺麗になった」
 それは、正直な感想だった。コランティーヌを見て、美しくないと思う者は滅多にいないだろう。いたとしたら、よほど眼が悪いか、嗜好の偏った者だと思う。
 私にとって、異性を意識させるものではなかったが、それでも魅力的に映った。
 まあ、と頬に血を上らせて、コランティーヌは恥ずかしそうに微笑んだ。
「殿下こそ、御立派になられましたわ。噂はいろいろと耳にしております。軍務では、カルバドス大公殿下の下につかれて学ばれて、目覚しい御成長振りとか。大公殿下が、いずれは自分を超える騎士になるだろうとおっしゃられたと聞きました」
 叔父がそんな事を口にしたなどと聞いたことがなかったが、照れ臭いながら嬉しい。
 と、テーブルの上に、チャリオットが飛び乗ってきた。菓子が目当てらしい。
 きゃ、とコランティーヌが軽く悲鳴をあげた。
「駄目だよ、チャリオット。向こうにいっていなさい」
 私が手を伸ばそうとすると、チャリオットはコランティーヌの側へ身体をくねらせ、するり、と逃げた。
「仕方ないな」
 立ち上がって抱きかかえようとしたその時、コランティーヌがチャリオットに手を伸ばした。
 その時、触れてしまったのが尾であったのが良くなかったのだろう。
 チャリオットが威嚇の声をあげた。間髪置かず、前脚を振り上げ、素早くコランティーヌの手を叩いた。
「痛いッ!」
「チャリオット!」
 私の声に驚いて、チャリオットはテーブルから飛び降りて、すっ飛んで逃げていった。
「大丈夫かい、コランティーヌ」
 叩かれた手の甲を押さえるコランティーヌに問う。
 コランティーヌは声もなく、真っ青な顔色で震えていた。
「手をみせてごらん」
 私は彼女の手を取った。白い手袋に覆われた右手の甲は、布が破れた形跡もなかったが、赤く血が滲んでいた。
「ああ、すぐに手当てをしないと。誰か、手当ての道具を」
 手袋を脱がせると、白くしなやかな右手の甲に、細い真直ぐな赤い線がついていた。手袋に擦れて、周囲が血に薄く染まっていた。
「ひどい……」
「大丈夫だよ、この程度の傷。すぐに治るよ。心配しないで」
 涙ぐむ顔に言った。
「でも、傷がのこったら」
「残らないよ。私もなんども引っ掻かれたけれど、どこにも残っていない」
 この程度で大袈裟な、と私は笑った。
「そんなことないです。一生、痕がのこったら、私、」
「大丈夫。そんなことはないよ」
「やはり、あの猫はよくないですわ。御手元からはなして下さいませ」
「そんな……それこそ、大袈裟だよ」
 私は半ば呆れて言った。彼女が大人になったと思ったのは、思い違いだったらしい。
 道具が運ばれてきて、侍女たちに手当てを任せた。
「引っ掻かない猫なんてどこにもいないよ。それに、不用意に触ろうとしたコランティーヌも悪い。尾は猫にとって触られるのを一番いやがるところだから」
「私の方がわるい、とおっしゃるのですか」
「そうは言わないけれど、相手は猫で、人みたいにものが分かっているわけではないよ」
「ディオさまひどいです」
 ぽろぽろと、コランティーヌは涙を溢し始めた。
 何を泣くことがあるのか、と私こそ驚く。
「いつも猫ばかりを庇われて、私のことなど、どうでも良いみたいに扱われて」
「どうでも良いとは思っていないよ」
「だったら、何故、私の方を見て下さらないのですか。いつも猫の方ばかりを見て、私の事は放っておかれてばかり」
「そんなことはない」
「私といる時ぐらいは私だけを見て下さいませ! そうするものでしょう!」
「コランティーヌ……」
 私は溜息を吐いた。
「言っていることがよく理解できない。何故、飼い猫のことを気にしてはいけないんだい?」
「もう、良いです!」
 わっ、と声をあげてコランティーヌが泣き伏した。
 手当てをしていた侍女が、恨みがましい目付きで私を見ていた。
 腹が立った。
「手当てが終ったら、帰りなさい」
 泣くコランティーヌを置いて、私は席を立った。
 後から、一番上の兄に呼ばれて、そのことで説教ともなんともつかない話があった。誰かが言い付けたらしい。
「おまえは、女心というものが、まるで分かっていない」
「そう言われても、言っていることが支離滅裂で滅茶苦茶なのですから、わかれと言う方が無理です」
「まあ、そういう面があることも否定できないが」
 兄は溜息を吐いて言った。
「それにしても、女性を泣かせたまま放っておくなどいけない事だろう。騎士の称号を受けるつもりならば、尚更」
「それはそうかもしれませんが、でも」
「言い訳はなしだ。コランティーヌには、詫びのカードを添えた花でも贈っておくとよいだろう」
「……はい」
「叔父上には、軍務のことだけでなく、女性の扱いも習った方が良いな」
 そんなものは必要がない、と内心、むかつきながら思った。
 たったひとりだけ、分かってくれれば良いと思った。
 ルリエッタ姫に会いたかった。

 そして、四ヶ月が過ぎて、その日がやってきた。
 約束通り、ルリエッタ姫はやってきた。
 馬車から下りるその姿に、自然と眼が惹き付けられた。
「お待ちしておりました」
 私は正式な騎士の礼で出迎えた。
 ともすると顔に血が上りそうになるのを押さえ、平常の表情を保つのに苦労した。
「この日を愉しみにしておりました。ちゃんとダンスの練習もして参りましてよ」
 ほんの少し、以前よりも女らしい雰囲気を感じたが、大輪の花の様な明るい笑顔は変わらなかった。私も自然と笑みを浮かべていた。
 私は胸を高鳴らせながら、以前よりも愉しい時を過した。
 兄とロクサンドリア姫の婚礼は、とても素晴らしいものだった。
 正装した兄も、また、ロクサンドリア姫も共にとても美しく、ふたり並んで立つ様はまるで一枚の絵を見ている様だった。不思議とどちらも凛々しくも感じもしたが、それはそれで良いのだろう。
 国中で祝いの鐘が鳴り、人々は喜びの声をあげた。
 城のバルコニーから挨拶をするふたりをひと目見ようと、国中から人が集まった。アルディヴィアの都は祝いの宴で、どこもかしこも夜遅くまで騒ぎが続いた。
 城では、祝いの舞踏会が催され、私達は約束通りルリエッタとダンスを踊った。
 二度ほど足を踏まれたけれど、痛さはなかった。それよりも、触れたその身体の感触の意外なほどの柔らかさに、心臓は鳴りっぱなしだった。
 赤いドレスが肌の色に映えて、ルリエッタ姫はとても美しかった。他の姫にはない溌剌とした雰囲気に恥じらいが含まれた様子は、そこにいるどの女性よりも可愛らしく感じた。それよりも、他の誰も眼に入ってはいなかったと言えるだろう。
 そして、私は、彼女ともっと一緒にいたいと思った。その明るい瞳の色を覗き込み、波打つ髪に触れ、笑い声を聞き、その手を握っていたいと思った。ルリエッタ姫の手は姫君らしからぬごつごつした手ではあったけれど、私はその手がとても好きだと思った。
 一週間の滞在の間に、私は幾度となく彼女にその事を伝えようとしたが、何故か、その姿を前にすると、言おうと用意していた言葉が出なかった。明日は必ず言おうと思いながら、どのタイミングで言おうか迷っている内に時は過ぎる。
 気がつけば、あっという間に時は過ぎていて、別れの日がそのぶん近付いている事に私は焦りを感じた。
 ルリエッタも年頃の姫君であるから、いつ縁談話が持ち込まれてもおかしくはない立場だ。知らないうちに誰かと婚約する可能性があった。そうなる前に、せめて、自分の気持ちだけでも伝えておきたい、と思った。
 彼女の帰国前日、二人で遠乗りに出掛けた。護衛をまいて二人きりで、自由に馬を走らせた。
 話すなら、今しかないだろう。そう決心をつけて、私は思いきって姫に告白した。
 幸運なことに、彼女も同じ気持ちでいてくれた。彼女も、ずっと、どうやって思いを伝えようか迷っていたという。
「お慕いしております。ディオさまのお傍に置いて下さいませ。これから先も、ずっと」
 そう言われた時、私の身体は宙に浮いていたと思う。
 夏の季節の草原で私たちは接吻を交わし、抱き締め合った。そして、将来を誓い合った。
 私の隣に立つ女性は、ルリエッタ姫以外にはいないと思った。
 滅多に会えない相手ではあるが、文を遣取りし、お互いの様子に思いを馳せた。
 ルリエッタに会ったのは、それから二回。
 姉姫に会うという名目で、その後、ルリエッタがラシエマンシィを訪れた二回だ。いずれも、数日間の滞在だった。その数日間を私達は、互いの心変わりがない事を確かめあい、大事に過した。
 別れの時は、いつも再会を約束した。
 私もなんども彼女に会いに行こうと思ったが、軍務の都合と雪に阻まれて、会いに行く事ができなかった。
 立場上、国賓扱いになるので、相応の理由も必要だった。私的に遊びに行くということだけでは、許されるものではなかったから。
 会えない時間は辛くもあったが、次に会う時のことを愉しみにする時間でもあった。
 そして、いつか、もっと長い時間を共に過せる日が来ることを信じて疑わなかった。




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