しかし、その日を迎えることはなかった。
私がガーネリアの王城を訪れることも、搾りたてのミルクの味を味わうこともなかった。
凶報がもたらされたのは、春になりたての季節のことだった。
グスカ国によるガーネリア国への侵攻。
それは、なんの前触れもなく、寝耳に水の出来事だった。
私はその前の年に正式な騎士の称号を得て、一人の軍人として戦場に立つことになった。
しかし、初陣と語るには、あまりにも苦すぎる、惨過ぎるものだった。
「御武運を。勝利を願いお祈り致します。そして、御無事の御帰還を心よりお待ち申し上げております」
見送りに出てきたコランティーヌの言葉は、私の耳を素通りしていった。その美しさも眼には映っていなかった。
頭にあるのは、ルリエッタの事だけだった。
どうか無事で。どうか無事に。
それだけを願っていた。
しかし、ガーネリアに救援の進軍を開始して、彼の国に到着するまでもなく、次の報が届けられた。
「ガーネリア国王城、陥落させられたとの報せがっ!」
見えない波が身体に打ち付けた様な感覚があった。
間に合わなかった!
どっ、と冷たい汗が流れ、身体の芯から冷えた。自然と身体が震え、止めようにも止められなかった。
脳裏にルリエッタの笑顔が浮かんでは、消えていった。
「使いはどこだ」
「既に事切れてございます。その報せだけを持ち、やっとの思いでここまで辿りついた様子で」
それは、よほど容赦のない攻めを受けた事を知るに充分なものだった。
「それで、国王陛下と御家族は」
叔父が冷静に問う声が聞こえる。
「陛下は果敢に抵抗するもむなしく討ち死にされたとの事です。ファルスタッシュ王子も、激しい戦闘の中、行方知れず。他の御家族も散り散りになり、行方が知れないとの事です」
「ルリエッタは……ルリエッタ姫は、どうされた」
震えながら、私はやっとそれだけを問う。
「生憎」、と言葉短く答えがあった。
矢も楯もたまらず、天幕を飛び出した。
「ディオクレシアス!」
直ぐに叔父が後を追ってきた。肩が掴まれた。
「落ち着け!」
「落ち着いてなどいられません! ルリエッタが!」
「行ってどうなる!」
「しかし、このままでは!」
「落ち着きなさい!」
頬を張られた。
「感情に流されるな。そう教えた筈だ。その背に一万の兵の命を預かっている事を忘れるな。私になにかあれば、おまえが兵たちの命を守ることになる。それを忘れるな」
そう言われても、実感は湧かなかった。
心を占めていたのは、やはり、ルリエッタのことだけだ。だが、できたほんの隙間で義務と責任を思い出した。
「よし、深く呼吸をしろ。頭を冷やせ」
言われるがままに、深呼吸をした。鼓動の動きが、すこしだけ緩やかになった気がした。
肩に軽く叩かれた。
「まだ、決まったわけではない。最後まで望みは捨てるな」
「……はい」
「あれだけ元気の良い姫だ。無事に逃げ延びることもできよう」
慰めの言葉が、とても可能性の低いものであることは分かっていたが、私はそれに縋った。一縷の望みを抱いて、ガーネリアへの進軍を続けた。
しかし、彼の地が近付くにつれ、報せは悪いものばかりが増えていった。
ファルスタッシュ王子の戦死が確認され、国王に続き、王妃が自害したとの報も伝えられた。幼い王子ふたりがいたが、それも共に命を落したと、時間を置いて報告が届いた。
そして、グスカは、徹底的にガーネリアを痛めつけていた。
王城を陥落させ国を侵略したにも関らず、残る街や村を次々と襲っていた。すべてを焼き払い、手当たり次第に略奪や暴行を繰返していた。国民全員を皆殺しにしようとしているとしか思えなかった。グスカ軍の蛮行は、留まるところを知らなかった。
身一つで逃げてきたガーネリアの民たちを保護し、そのたびに惨状を耳にした。
「惨いものだ」
叔父も怒りを隠しきれず言った。
「元々、国としての対立は根深いものがあったが、人の道を外れているとしか言い様がない所業だ。まさに魔が取り憑いているとしか思えん。しかし、本当の狙いはランデルバイアだろう。これを足がかりに我が国の国境をも脅かすつもりだ。それだけは、なんとしてでも阻止しなければ」
私は頷きながら、たったひとつの事だけを気に掛けていた。
ただひとり、ルリエッタの消息だけは、未だ掴めなかった。
そして、私は戦場に立った。
初めて、人を殺した。
初めて、全身に血を浴びた。
初めて、斬られる痛みを知った。
初めて、人の骸を腕に抱いた。
初めて、総毛立つような恐怖を感じた。
初めて、気が狂わんばかりの憎しみを感じた。
初めて、断末魔の人の叫び声を聞き、
……生まれて初めて、号泣した。
ガーネリアは美しい国なのだ、とルリエッタは私に話した。
緑の丘は鮮やかで、色とりどりの花が咲き、暮らす人々は笑顔が絶えない国なのだ、と目を輝かせて言っていた。森には動物が多く住み、牛や羊、そして、彼女の大好きな馬たちが伸び伸びと駆け回る長閑な、平和な国なのだと聞いた。
しかし、私の目の前にある光景は、彼女の話に共通するものなど何ひとつない様に見えた。
至る所に屍が転がっていた。見渡す限り、死者が目に入らないところはなかった。
皆、血と泥に塗れ、苦しみの表情を浮かべていた。白い眼を生者に向けて、舌を出していた。
男も女も。老人も若者も、幼い子供もいた。中には、人の形をなしていない者もいた。
肉の焼け焦げる嫌な臭いが漂っていた。身体に染みつくような、生臭い臭いがしないところはなかった。
慣れるまで、何度もその匂いに吐いた。だが、徐々に平気になっていた。
私の掌の皮は硬く厚くなり、手の指の爪も擦切れ、常に泥が黒く染みついていた。
到着したランデルバイアの救援に、散り散りになって戦っていたガーネリアの残党兵は、次第に合流する数を増やした。虫の息だった兵士たちは息を吹き返し、グスカ軍を押し返そうと反撃を望んだ。
だが、王を失い、王家の血筋を持つ者がひとりとして見付かっていない状態で、そこまでをする余裕はランデルバイアにもなかった。毎日、そのことで、怒鳴りあいが続いた。
兎に角、一人でも多くの民と兵士の命を助け、保護をする。そして、ランデルバイアの国境を死守する。
それを第一目的とすることで、グスカ軍と戦った。
しかし、その戦いは、後にも先にもないくらいに、気の狂ったとしか言い様のないものだった。
多くの味方の兵が失われ、同じ数だけ敵兵の命も失われた。
中でも、最終戦となったリーフエルグ平原での戦いが、最も凄絶を極めるものとなった。
押しては押し返され、が二ヶ月に渡って続けられた。
すでに消耗戦の様相を呈していたが、どちらも退く切っ掛けさえも失っていた。
陣には、怪我人が溢れかえり、痛みに呻く声と怒鳴り声ばかりしかなかった。
怪我のない者はひとりとしておらず、皆、疲れ切っていた。
元気なのは、飛び回る蝿だけだった。