名前を聞くだけで、途端にもぞもぞと腰の据わりが悪くなるのは、何故なのか。
 眼の端の方にちらちら見え隠れしている様な気分だ。携帯のメールをいつもより頻繁に確認してしまう、そんな感じ。勿論、実際にそんな事があるわけでもないのだけれど。
 アストラーダ殿下の部屋を辞去して、ここのところの日課として、そのまま図書室に移動する。
 いつも通りに、ウェンゼルさんからは護衛の申し出があるが、それもいつも通りに丁寧に断りをいれた。
 本当だったら、私は常に護衛されていなければならない立場ではあるのだが、基本的に城中に於ては、ひとりで動かさせて貰っている。
 目の色の事さえバレなければ、身分を持たない私は、本来、護衛なんか必要がない。特に命を狙われる理由を失った今では、大多数の人間にとっては、『人畜無害となった元魔女で、前の戦で功績をあげたお陰で未だ王城に奉公していられる人間』、でしかない。
 一時期流れたエスクラシオ殿下との婚姻の噂も、コランティーヌ妃の突然の死に紛れて消えた。でも、もしや、の時の為に、しょっちゅうランディさんやスレイヴさん達が付き添ってくれる、というだけの事だ。だが、護衛がついている、というだけで、逆に悪目立ちしてしまう事もあって――色んなオトコを手玉にとっているとか言われそうなんで、特に理由がない時には控えて貰っている。
 というか、みんな心配性だ。まあ、無理もないところはあるけれど。
 西棟二階。図書室の扉を開け、中に入る。と、この部屋独特の、インクと紙と埃の混ざった匂いに包まれた。でも、冷えた空気の中ではそれも薄く、すぐに馴染む。
 天井まである書架が立ち並ぶ、広い空間。大型ショッピングモールぐらいはあるんじゃないかという広さだ。そこに、ぎっしりと本が詰まっている。
 膨大な量の蔵書だ。この国の知識の宝庫。
 この世界での稀少本も数多いと聞く。しかし、その中でも本当の希少本は、部屋の隅にあるゲージで囲まれた場所に纏められていて、そこは限られた者だけが入れるスペースになっている。そこは常に錠前がかけられ、鍵は陛下と司書さんのふたりだけが所有。よほど、貴重な本ばかりが揃っているという事なのだろう。
 興味が湧く。興味が湧くが、私は、それ以外の本の閲覧だけを許されている身でしかない。
 私は、室内入ってすぐにあるカウンターに、手にしていたランプを置いた。ついでに、置いてあった器からキャンディもひとつ貰う。……司書さん、今日は誰もいないな。
 火気厳禁。
 当然の事ながら、これだけ紙の多い場所でストーブもつけられない。この場所で、じっ、としているだけで苦痛だろう。だから、司書さんも寒くて、控室かどこかに避難しているのかもしれない。でも、司書さん達がいないと、夕暮れに近いこの薄暗い中で目的の本を探すのは一苦労だ。
 薄い西日が窓周辺をぼんやりと照らす程度の明るさ。陽の届かない奥の方は、宵の暗さを見せつけている。
 どうしようか、と少し考えて、一度、ひとりで回ってみてから、見付けられなかったら、今度にしようと思った。借りる本の場所は、大体、見当がついているし、時間もある事だし。
 しん、と静まり返った中を、そろそろと歩き始める。悪い事をしているわけではないが、ちょっと、不気味な感じ。夜の学校を歩くというのは、こんな感じなのか。
 窓際に沿って進み、まずは、この国の地理が纏められている棚がある方向へ向かう。
 最近になって、なんだかんだ言って、住み着く事になったこの国の事を、少しでも理解しようと勉強中だ。知識が増えれば、その分、私のできる事がなにか見付かるかも知れないという考えもある。だが、専門書の為、難しい単語も多く、辞書を片手に読んでいる。まあ、お陰でボキャブラリーも多少は増えて、一石二鳥だ。
 ……確か、この辺り。
 部屋の真ん中辺りから少し奥にいったところで、私は曲がった。棚をひとつ、ふたつ、と数えて三つ目のところで立ち止まる。辛うじて読める背表紙を目を凝らして読んで、目的の位置である事を確認した。
 ざっ、と棚を見回して、手の届く範囲で読めそうなものを探す。
 お、これなんか良さげ。所々、地図が入っているし。
 一冊、抱える。
 と、その時、何か弾く様な小さな音が聞こえた気がした。……誰かいるのか?
 耳を澄ませてみると、微かだが、奥の方から衣擦れの音がした。間違いなく、私以外に人がいる様だ。
 カウンターには私の持ってきたランプの他には何もなかった。利用者は私だけだろうから、司書さんかもしれない。書棚の整理でもしているのだろう。だったら、参考になる本を訊いてみたら良いかもしれない。
 そう思って、音の聞こえた方へ進んだ。
 すると、人の息遣いが聞こえた。そして、高い音がまたした。
 小声で囁く声も聞こえる。二人以上いるらしい。
「美し……あなたは……ああ、なんと官能……な……だ」
 がしゃん、とゲージが揺れたらしい音。
 次に、女のあえぎ声がはっきりと聞こえた。
 あ、ヤバイ。
 足を止めて、回れ右をする。本を抱えて、そそくさとその場を立ち去る。
 ああん!
 背後であられもない嬌声があがった。……ああん、じゃねえよ! こんな所でいたすなよっ!!
 こっちの方が赤面する。キス程度なら日常茶飯事で目にしているが、ここまであからさまなのに出くわしたのは初めてだ。しかも、神聖なる図書室で!
「すごい……すごいわ……もっと! もっとよ! 奥まできてっ!」
 ……おおい。アダルトビデオかよ。そんな事を言うやつがいるなんて思わなかった。
 あられもない声は、もう抑える気がないようだ。というか、ぜってぇわざとに決まっている。誰がマジにそんなこと、口走るかよ。ああ、やだやだ。気分悪い。こんな場所は、とっとと退散だ。
 カウンターまで戻って、置いてあったランプを拾った所で、扉が開いた。

 あ。

 エスクラシオ殿下だった。こんなところで会うなんて、珍しい。しかもお供も連れず、独りだ。ていうか、なんでこういう時に限って!
「なんだ、珍しいな」
 殿下も私を見て言った。
 一応、ランプをまた置いて、素知らぬ顔で、その場で軽く挨拶のお辞儀をする。
「誰もいないのか」
 カウンターを見て私に問う。いや、いるっちゃあいるんだけれどね。
「本をお捜しに?」
 誤魔化して訊ねれば、「他になにがある」、と鼻先で笑われた。
「持っているものはなんだ」
「地理の本です」
「ほう、どんなものだ。見せてみろ」
 手渡せば、ばらばらと頁を捲って中を確認しながら、うん、と頷いた。
「これも良い本だが、ゲマリア版の地勢書の方がより詳細な内容になっている。それは読んだか」
「いいえ。こう暗くては背表紙さえはっきりしませんので」
「確かにそうだな。しかし、それならば心当たりがある。ついてこい」
 いや、そりゃあ、まずいだろう。
「結構です。今日のところはそれで」
 行きたくねえ。行きたきゃ、一人で行け。その本、返せ。
「だが、そちらの方が何も知らない者が読んで分りやすくもあるが」
「や、でも、殿下もお忙しいでしょうし」
 でも、出来れば、このまま帰った方が良いぞ。だから、本を返しやがれ!
「かまわん。どうせ、暇潰しの本を探しに来ただけだ。おまえの読む本を探す程度の時間はある」
「いや、でも」
「なんだ。やけに遠慮深いが、どうかしたのか」
 どうしたも、こうしたも! そっちこそ、どうしてそうかまうんだ!
 殿下は私の顔を見て、そして、部屋の奥を見通す様に眺めた。その時、本が数冊、床に落ちる音がして、

 ああっ!

 艶めいた女の悲鳴に近い声が、静まり返った室内に響いた。……ぅあちゃーっ、やりやがった!




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