気まずさに、思わず俯く。
 くっ、と殿下の咽喉を鳴らす声がした。
「……成程な」
 一言いうと私に本を返し、カウンターをノックする様に、とんとん、と二回叩いた。
「誰かいないのか!」
 わざと低い声を響かせて、呼びかけた。
 一瞬の沈黙があって後、がたがたと奥の方で何かがぶつかる音が聞こえた。ああ、慌てているな。そして、暫くすると、ばたばたと足音をさせて見覚えのある司書がひとり走ってきた。
 ……あんただったのか。仕事場にオンナ連れ込んで何やってんだか。
「これは、ディオクレシアス殿下、お呼びで御座いますか」
 露骨に焦りの表情を見せる司書の男性を前に、殿下は澄ました表情で、
「これがゲマリア版の地勢書を探している。あと、他になにかあるか」
 と、私に訊く。いいのかよ。まだ、オンナが奥にいるだろうに、と思うが、ちらり、と見上げた殿下からは、なんとなく何か企んでいる雰囲気が感じられた。ここは黙って従っておく。
「ええと、あと植物の名と種類が分る本があれば。出来れば、絵がついているもので」
「ああ、それでしたら良い本があります。今、取って参りますので、ここでお待ちを」
「いや、なんという本だ。場所さえ分れば、私がついていこう」
 すかさず、殿下が言った。
 司書さんは、慌てふためいた様子で、
「いいえ、殿下のお手を煩らわせるわけには! 私が取って参ります!」
「かまわん。表題と在り処を教えろ」
「は、しかし、」
「自分の本を探すついでだ。気にする事はない。おまえも片付けるべき仕事もあろう」
 そうまで言われては、身分上逆らう事の出来ない相手に、これ以上は言えないのだろう。渋々、といった表情で、司書さんは、本のタイトルと書棚の位置を口にした。
 殿下は鷹揚に頷くと、
「ついてこい。こちらだ」
 と、私を促し、書庫の奥の方に足を運んだ。わざわざ、司書さんが走ってきた方角に向かって。
 どうやら、相手のオンナを突き止める気らしい。
 書架の間を進み、真ん中を行き過ぎた所で、殿下は立ち止まった。
「どなたかおられるのか」
 視線は右を向いている。棚の角から、淡い紫色のドレスが、ちらり、と覗いて見えた。
 一拍おいて、楚々とした足取りで、金髪を高く結い上げた女性が姿を現した。
「これはディオクレシアス殿下、こんな所でお目にかかれるとは、奇遇ですこと。ご機嫌麗しゅう」
 挨拶と共に、軽く略式の礼が取られた。
 この人が、相手の女性らしい。
「ウルステラ伯爵夫人であったか」
 これまで聞いた事のない和らいだ声で、殿下が答えた。
「伯爵はお元気であられるか」
「はい、お陰様で息災にしております」
 ……人妻かよ。不倫だな。
 伯爵夫人は、年は四十半ばから後半ぐらいだろうか。丸々とした顔に、少々、弛みと皺が目立つお年ごろだ。それにしては、化粧や身に着けているものが若作りっぽい。若干、結った髪に乱れが見えるのは、先ほどの行為の影響か。
「それはなによりだ。最後にお会いした際には、今年の冬は領地の方へお戻りになられると聞いていたが、お気が変わられたか」
「いえ、少々、片付けねばならぬ所要がございまして、私だけが残りまして御座います」
 夫人から慌てて取り繕う言葉があった。
「然様であったか。それでは、伯爵もお独りで、さぞかし寂しくあろう」
「いえ、息子夫婦もおります故、御心配には及びませんわ。今頃、孫の遊び相手を上機嫌で務めておりましょう」
「然様であるか」
 ふ、と浮かんだ微笑みには、見覚えがあった。……ああ、こんな所がアストラーダ殿下と似てるんだ。
 やはり、兄弟。なんか企んで笑う時の表情がそっくりだ。
「しかし、貞淑で知られる夫人がお独りで登城されているとなれば、口さがない者たちの良からぬ口の端に上らぬとも限らぬ。夫人に限ってかような事はないかと思うが、間違って伯爵の耳に入れば、あらぬ誤解も引き起こされよう。なにせ、伯爵の剣の腕は、騎士でなくともなかなかのものと聞く。決闘騒ぎなどになれば、誤解を受けた者も気の毒な事にもなろうし。お気をつけになられた方が良かろう」
 ううわ。
 だが、夫人も然る者で、ホホ、と顔を引き攣らせながらも高い笑い声を発した。
「あの人も年ですし、そんな無茶はなさらぬでしょう。元よりそんな疑いすらも持たぬ性格故、笑ってすましも致しますわ」
「ならば良いが。しかし、静かなる雪山であっても、過ぎたる大声に雪崩も起きもしよう。出来るだけ声は控えるよう、気をつけられる事だ。それが出来ねば、用なき山には近付かれぬ事を勧める」
 その心は、
『静かな場所――図書室で声を立てれば、噂にもなって大事になるぞ。隠れて浮気するつもりならば、でっかい声をあげるな。出来ないなら、図書室来るな』。
 もひとつ突っ込んで解釈すれば、
『でっかい声あげやがって、てめえ、こんなところですんなよ。噂に流して騒ぎにもしてやるぞ。図書室として利用する気がないなら、二度と来るな』
 と、いうところだろう。
「……御忠告、有り難く」
「して、夫人は、どの様な本をお捜しか」
 ……あぁーあ、容赦がないところまで、お兄ちゃんにそっくりだ。
「いいえ、探しても見付からぬ故、戻るところでございます」
 伯爵夫人は、僅かに顔を引き攣らせながら答えた。
「では、司書に訊ねるとよかろう。先ほどまで何処に行っていたかは知らぬが、戻ってきたところ故。言えば、希望にかなう本を見付けても貰えるだろう。或いは、暇潰しならば、ゴライウスの哲学書などが良いかもしれぬ」
 殿下はそれだけを言うと、私を連れて、奥の書架へと向かった。
 かつかつとした足音が遠ざかり、大きな音を立てて入り口の扉が閉められる音が聞こえた。恥ずかしかったのか、逆ギレしたか。まあ、どちらにしろ、自業自得ではある。
 植物図鑑の置かれた棚の前まで来て、私は本を探す殿下を見上げた。表情を見る限り、何もなかったかの様だ。
「あのう」
「なんだ」
「先ほど言っていた、ゴライウスの哲学書ってなんですか」
 皮肉らしい事はわかったのだが、内容を知らないので、今いち意味がわからなかった。
「ゴライウスの哲学書は、婚姻の決まった娘が必ず持たされる書物だ」
 て、事は。
「妻の心得、みたいな内容ですか。夫を裏切るべからず、みたいな」
「まあ、似た様なものだな。それだけではないが」
 含み笑いの声が答えた。
「……意地悪ですね」
「場所に不適切な行為を行う方が悪い」
「まあ、そうですけれど」
「ほんの戯れだ」
 ……退屈してんだな。脅してからかった、ってところだったか。
 ほら、と植物図鑑が一冊、手渡された。
「有難うございます」
「食べられる草でも捜すつもりか」
「よく、分りましたね」
 正直に答えれば、また笑われた。冗談のつもりだったらしい。
「やはり、おまえは面白い」
「別に面白くはないですよ。殿下も肉が食べられなくなったら、私の気持ちも分るでしょう」
 私は言った。
「きっと、私がこちらでの名前を知らないだけで、美味しく食べられる植物はある筈なんです。そうしたら、殿下にも食べさせてあげますよ」
「何を食べさせられるやら。遠慮しておいた方が無難だな」
「食わず嫌いは良くないですよ。あ、そうだ。そのゴライウスの哲学書って何処にありますか」
「……読むつもりか」
 どこか戸惑う表情が浮かんだ。
「ええ、なんだか面白そうですから。こちらの女性の社会的地位ってものが理解出来そうですし」
「そういう意味で役立つかどうかは分らんが……まあ、良い。こちらだ」
 次に連れていかれた棚でも、一冊。そして、続いて、地理の棚に戻って、一冊を交換した。
「有難うございました。助かりました」
 計三冊の本を抱えて、殿下に礼を言った。すると、手が伸ばされ、本が三冊とも奪い取られた。
「部屋に戻るのだろう。送ろう」
「え、でも、殿下の本がまだでしょう」
「いや、暇潰しは充分に出来た。必要ない」
 なんだ。やっぱり、退屈凌ぎだったか。
「では、お願いします」
 結局、殿下は一冊も本を借りる事なく、私のぶんの手続きだけして図書室を出た。
 帰り際、一言もなかったが、司書さんが見るからに蒼ざめて震えていたのは、寒さのせいばかりではないだろう。
 ……まあ、君もこれに懲りるこったな。でなければ、もっと上手くやれ。
 私も何も言う事なく、ランプだけ拾って、そのまま部屋まで送って貰った。
「有難うございました」
 部屋の扉の前で礼を言うと、うん、と頷きがあった。
「これだけ近くにいて、滅多に顔を合わせる事もないというのも妙な話だ。偶には、夕食に付き合え」
 久し振りの誘いも、退屈を紛らわせるひとつなのだろうか。
「はい。有り難くお招きに預かります。いつ伺えばよろしいですか」
「本日、七時に迎えに来よう」
「分りました。では、そのように」
 ふうん。避けられていたとか、忘れ去られていたというわけではないのだな。
「では、後程」
「はい」
 多少は落ち着いて、あの時の事も話くらいはできるようになったって事か。ま、偶には良かろうよ。
「本日エスクラシオ殿下より夕食のお招きに預かりました。七時にお迎えに来て下さるそうです」
 部屋に入ってゲルダさんにそう伝えると、久し振りにロッテンマイヤーさんが御降臨あそばされるのを見た。後ろの仲間達も、しゃきしゃきと音をたてるかの様な動きをみせている。
 ……やっぱり、みんな、忘れていたというわけではないんだな。
 改めて、そう思った。

 それから支度の時間までに、淹れてもらったしょうが味の葛湯を呑みながら、借りてきた本を、ざっ、と流し読みしてみた。そして、ゴライウスの哲学書の内容に、思わず声に出して笑ってしまった。
 ゴライウスという昔の哲学者が口頭で述べた話を弟子である人が纏めた内、女性に関する事柄だけを抜粋した本で、所謂、前時代的なオトコが理想とする女性論だ。
 確かに、妻の心得的な内容ではあるが、およそ三分の一が房事における作法みたいな話になっていた。閨でのマナーと言うのだろうか。
 みだりに声を上げるべからず、恥じらうは効果的である、積極的であり過ぎれば下品である、などなど。他にも体位の事やら、その時の手や足の位置、どんな反応が起きるかまで事細かに記されている。

 ……ほんと、意地悪だ!

 意外な殿下の一面に、私は暫く笑いが止まらなかった。




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