私は四角く区切られた、空を見上げた。
一人で、雪の上に仰向けに寝転がって。
ここは、ラシエマンシィの中庭。と言っても、地面の上ではない。地下一階と二階の間。冬の間だけ作られる、雪で出来た屋根の上だ。二階の廻廊から数センチ下に降りた、そのど真ん中だ。
実質、外であるここに来る物好きは、この時期、滅多にいないみたいだ。今もいるのは、私だけ。
冬の始まりの雪が降り始めた頃、城の中で最も寒い地下二階の防寒と人が自由に動ける場所を確保する為に、毎年、作られるのだそうだ。
使い回しの木製の型枠を中庭の半分に幾つも並べ、その上を適量の水を含ませた雪で覆って、固めて、屋根と外壁を作るのだそうだ。そして、確実にそれらが固まったところで型枠を外し、切り出した氷と雪の柱で順番に支えていく。そして、雪のない地面の広いスペースが出来上がる。所謂、巨大かまくらみたいなものだ。
兵士総出のかなり大変な作業らしいのだが、造りでがあって、作業を愉しみにしている者も多いのだと、ランディさんから聞いた。
春、暖くなって自然に溶け出す頃まで、これのお陰で、兵士や召使い達も暖く過せたりもするそうだ。
私は、今、その屋根の上にいる。
人が乗っても平気なくらい、頑丈にできている。寒くなるにつれ、強度はより増していくらしい。上に雪が降り積もりもするが、吹雪にならない限りはパウダースノーなので、上から吹き込む風で吹き飛ばされて、そう多く積もる事はない。
こうして寝転がっていても、少し身体が沈むくらい。ブーツタイプのハイヒールだからちょっと歩きにくかったけれど、濡れる事もない。
広いし……寒天が作れそうだな。
私は空を見上げた。
灰色とも銀色ともつかない、四角く区切られた空。
ゆっくりと動く雲が、薄い斑の形を次第に変えて見せている。
静かだ。
一面の白の上に一体となって、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
はあ、と大きく吐き出す息は白く、広く拡散して消えるのを眺める。
と、白いものがちらちらと落ちてきた。
雪だ。
空の欠片。
けれど、私の身体に染込んでくる事はない。
ついた氷の粒を、手袋を嵌めた手でこすり落す。
私と同じ空から落ちてきたものではあるのに、質感もなにもかもまったく違う事に、不思議さを感じる。
見上げていると、白い欠片は落下する数を増やし、銀色の空をより薄く変えて見せる。
不規則に振り落ちるその様子は、見上げているだけで、眩暈に似た感覚を覚える。
と、影が落ちた。
音もなく、私の脇に立つ人影がいた。
白い中で一際、濃い黒。
だが、その髪の色は錆びた鉄を思わせる赤。
風景とは対照的な色は、薄暗い中であっても鮮やかな存在感を示す。
しかし、それさえも覆い尽くそうとでもいうのか、白が舞い落ちる。
「まだ、死にたいのか」
闇を呼ぶかのような、低い声が言った。
ちょっと怒った感じだ。心配しているのか。
「いいえ」
微笑んで見せたが、機嫌はよくならない。
「こんな場所で寝ていては、あっという間に凍りついて命を落とす」
寒くないのか、と訊ねられる。
「寒いですよ」
私は、上体を起こし答えた。
「ただ、空が見たかったんです」
「……そうか」
見上げる顔立ちは端正で凛々しい。ギリシャ、ローマ時代の彫像の様に綺麗だ。
「よく、ここにいるって分りましたね」
「空が見える場所は限られているからな」
ああ、と私は心の中で密かに思う。
なんだかんだ言いながら、この人はずっと私を見ていてくれた。
「おまえは、いつも空を見上げているな」
青い瞳が私を見下して言った。
「なにか見えるのか」
「いいえ」
私を映すその瞳の色は、晴れた日の澄んだ空の色だ。
「いいえ、なにも」
この色を見たかっただけなのだ。
地上にある空の色。
「そうか」
「はい」
その色を見ながら答えて、私は微笑んだ。
差し伸べられた手を握り、立ち上がる。
「おまえがいないと、ランディが心配して探し回っている」
ああ、それは悪い事をした。
手袋を嵌めた手が、私の頬を撫でた。
「……後悔しているのか」
意外な問い。
「いいえ、ちっとも。貴方は後悔しているのですか」
急に不安が胸の内に過る。
こどもさえ出来ていなければ、まだ、なかった事にもできる。が、「いや」、とはっきりとした答えがあった。
「欠片もない」
……よかった。
ほっ、として、その胸元にしがみついた。肩に腕が回され、じんわりとした温かさを感じた。
「先ほど、陛下にも御報告申し上げたところだ」
「陛下に?」
「公にはしないものの、おまえを伴侶とする旨を伝えた。既に御許しも頂いている」
「それって」
うん、と首肯がある。
「私の子をなせ」
思わず笑った。
プロポーズの言葉にしては酷い。もっと他の言い方はないのか。
しかも、言う順番が逆だろう。普通、こっちが先じゃないのか?
「はい」
それでも、頷いた。
「これより先、何があろうと、何者からよりもおまえを守ろう。目の前に立ち塞がる棘があれば、切り開いてみせよう。だから、決して私の傍を離れるな。他の男に目を移す事も許さん」
「はい」
こんな時にまで偉そうだ。
でも、浮気はしないよ。そんなに器用じゃないから。
この手を握っていられるだけで、充分だ。
「ひとつ、約束をしろ」
「なんですか」
躊躇うような間があいた。
「……私より先に死ぬな」
ああ、存外、寂しがり屋なんだな。男だしな。そういう事もあるか。……私よりも、ずっと強くてしっかりしているのにね。
「名前、呼んでくれませんか」
「カスミ」
「はい」
答えて、唯一、晴れた空の色を見上げる。
私が生きていくのに必要なものは、そんなに多くない。でも、これまで手に入れられないものばかりだった。それが、今、手に入った事を知る。
「貴方が望む限り傍にいますよ、ディオクレシアス」
ゆっくりと、空が落ちてきた。
でも、砕ける音はなくて、視界が影になっただけだ。
苦しみも辛さもない。
代わりに、唇についた雪の欠片を拭うような、温かい感触があった。
錆びた鉄の味もない。
影が消えれば、極上の微笑みがあった。
その表情に、思わず見蕩れる。
……なんて事だ! 私がここまでこんな風になるなんて! しかも、実質、夫となるオトコに! まったく、世の中、何が起きるか分らない。
一寸先は闇。
でも、それは闇ばかりではなくて、その中で青い、晴れた日の光を私は見付けた。そして、何処までも高く澄みきった空を。
「部屋に戻ろう。ここは冷える」
「はい」
差し出された手に捕まり、新しくも見える白い道を踏みしめた。
途中、振り返れば、二人の足跡が、並んで続いているのが見えた。