夜中に、ふと目覚めることがある。
それは、短い呻き声であったり、泣き声であったり。
眠っている筈の私の聴覚を刺激する。
夜の帳の中、私以外に届く耳のない場所で。
眠りながら、泣いている。
力なく、切れ切れに。
うつつのものと判じがたい声で。
暗闇の中、寝台の端に仄かに浮かんで見える白い塊。無造作に丸まった寝具のようにも見えるが、端から溶け出ているかのような髪の流れから、辛うじて人であると知れる。
私に背を向け、上掛けで身を固く縛るようにして小さくなっている。声はそこから聞こえる。
日中はそんな面をおくびも感じさせずにいるのに、眠りが知らず知らずのうちに感情の枷を外してしまうようだ。
闇に誘われ、洞窟の奥深く、秘された重く固い扉が開くように。
それでも完全に開かないように、必死で閉じようと押さえつけている様子が窺える。
隙間から溢れ出る暗赤色の濁った夢に侵されながら。
密かに落つる涙。
怯える様に、凍えているかの様に泣く。
無意識でこうなのだから、日中はどれだけ自制しているのかと考える。
初めて気付いた時、あまりにも苦しそうで、私は彼女――カスミを揺り起こした。
「悪い夢をみたか」
赤ん坊のように焦点が定まらない、湿る黒い瞳の脇に指先を滑らせた。
「……泣いてた?」
「ああ」
カスミは、そう、と短く答えると、濡れた頬を乱暴な手つきで拭った。そして、大きく息を吐いた。
「……戦場の夢をみてた。人がいっぱい死んで……私も血だらけになって……」
「……そうか」
「ディオもみる?」
「ああ」
「よく?」
「そうだな」
伸ばされた細い腕が、私に絡みつく。そして、私も抱き締め返す。
華奢な身体はとても冷えきっている。それでも腕の中にいるうちに、次第に温もりを取り戻す。
まるで、死の淵より戻ってきたかの様に。胸元から洩れ出る深い溜め息は、取り戻した生者の息吹。
怖かった、と幽かな声は幻聴だろうか。暗闇の中では判断がつきかねる。
口元を撫でる白い髪に、私は唇を埋めた。
「ただの夢だ」
「……うん」
「安心して眠れ。ここには、おまえを傷つける者など誰もいない」
「……うん」
「私がいる」
「うん……」
幼子のような頼りなさで私にしがみつきながら、カスミは答えた。
「……ディオ……、…… ……」
名を呼ばれたことはわかったが、なんと言われたのか私には理解できなかった。カスミの自国の言語だったのだろう。意味を問おうにも、先に再び睡魔が彼女を攫っていったことを知る。
寝惚けていたようだ。自然と口元が緩む。
とろり、と腕の間から滴るような感触を、今いちど抱え込む。深い眠りに入ったのだろう抵抗のない身体は、息を止めてしまったのではないかと思わせる。幽かに脈打つ音を捜し当て、安堵する。
カスミを戦に連れ出したことを悔いてはいない。あれは正しい選択だったと今も思っている。でなければ、カスミは別の危険に曝され、命もとうに失われていたかもしれない。私は守ることも、駆けつけることすらできなかっただろう。チャリオットの時と同じ様に。
その頃の私のカスミに対する感情がどうであれ、勘の類であったとしても、私は彼女を死なせまいとした。そう望み、隙あらば擦り抜けようとする魂を逃すまいと手を尽くした。初夏の生温い空気の中、この命を取り零すことだけはあってはならないと心に決めていた。巡りくる季節に連れて行かれることだけは、なんとしてでも阻止しようとした。
……今、思えば、おそらく、そうすることで許されたかったのだろう、私は。
かつて、守りきれなかった大切な者たちに。国を守り、愛する者たちを守るために逝った者を想い、今も夜の暗がりの中で静かに涙を落とす者たちに。
私にたくさんのものを与えてくれながら、報いることができなかった者たちに。
ルリエッタ。
チャリオット。
その面影は、いまも胸の内に残っている。
しかし、その想いの形も変わった。変わりつつある。風化ではなく、新雪が、やがてずっしりとした重みを伴うように。
それは、母を思い出すのに似ていると感じる。大切な想いに変わりはないが、決して、痛みを伴うものばかりではなくなった。面影を呼び起こす度、なんともいえない優しい温もりに似たようなものを感じる。
黄昏た空の色に、虚しさばかりを感じなくなったように。
カスミが私に与えてくれた。
あの時を経ていなければ、私たちがこうして交わることはなかったに違いない。今ごろは別々の道を歩き、それぞれの寝台に眠っていただろう。
独りで。或いは、別の者と共に。
推測でしかないが、確信に近くそう思う。そして、今ある形に満足する。
しかし、ただひとつ悔いるのは、完全に、とはいかなかったことだ。
傍にいながら、一度ならず、死を覚悟させた。死を望ませた。そのことが、仕方なかったとはいえ、後悔となって胸を塞ぐ。今頃になって。
公の身にあっては、カスミを守るにも限界があった。自由になることがほんの僅かでしかない身では。ましてや、生き死にを当り前に目にする戦場においては。
結果、いつも際どいところで、命を留めることだけには成功した。だが、こうして独り泣かせている。泣かせてしまっている。
神の手のなんという狡猾さ。そうやって、人の望む完璧さは、到底、手に入らないものと指し示しているかとも感じる。
だから、今、私はこうして彼女を抱き締める。足りない欠片を補うように。強ばる冷たい背中を腕の中に抱き込み、体温を分かち合う。そうやって、同じ哀しみに身を浸す。
せめて、独りにしないようにと。独りでないことを伝える為に。
そして、実感する。己も独りでないことに。
そうしながら、私も静かに打ち寄せ来る波に身を委ねる。
離れることなく。
共に、眠る。