「覚悟は出来ているのか」
 カスミを伴侶に迎えることを陛下に申し出た時、真っ先に発せられたのはその問いだった。
 はい、と揺らぎなく答える。
「生半可な覚悟で許されるものではないぞ。場合によっては共倒れどころか、国全体を巻込むことになる」
「決してそうはならぬでしょう。そんなことはさせません」
「それだけではなく、おまえ自ら弱点を負うことになる。瞳の色を知らずとも、他国、そなたに敵対する者達があの者の存在を知れば、狙われることにもなりかねん」
「承知しております」
 人払いした接見室に二人きり。長椅子さえも王座に変えて見せる陛下に向かい、はっきりと答える。
 カスミを身の内に抱える時に、一番最初に考えたのがそのことなのだから。
 私自身に敵は多い。内外、問わず。
 他国の王、将たる者達。自国の政敵と呼ばれる者達。他、私が把握している以外にもいるのだろう。味方と自称する者達の中にさえ。私が死んで喜ぶ者など、掃いて捨てるほどいよう。それだけのことをしてきた自覚はある。
「万が一、あの者の正体が他国に露見した場合、責のすべてはそなたが負うことになる」
「元よりその覚悟は出来ております。そして、絶対にそうならないことも、お約束致します、タイロンの名にかけて」
 憎まれることには慣れている。死神の二つ名は、既に、己の血肉同然に馴染んでいる。
「連れ添う内に気持ちが変わることもある。他の女に気移りすることもあろう。逆にあの者が、不貞を働くこともあるやもしれぬ。そうなったとしても、手放すだけにはいかぬぞ。それでも求めるか」
「そのような事は決して起り得ないことをお約束致します」
 私は、この手に握った手を二度と失うわけにはいかないのだから。

 誘ったのは、どちらからか。
 求めたのは、どちらからか。
 そんなことは、言っても意味のないことだ。ただ、カスミと距離を置いていたこの数ヶ月の間も、私の心は彼女を気に掛けることをやめなかった。私の手を離れ、直接、関る理由がなくなったあとにも、私以外の頼る者がいるとわかっていても、どこかしら頼りなさを感じていた。
 折に触れ、彼女にどんなことがあったか話す兄達の話に自然と耳は傾けられ、日常の中でどうすればよいかと指示を求める侍女達の報告に、答える煩わしさを感じなかった。気候が変われば、必要な身の回りの物を用意させることも、当り前にさせた。
 無理に忘れようとする必要も感じなかったが、必要なくとも常に心の中に存在があった。色々な意味で厄介な存在、という以外にも。一目でも顔を見たいという欲求はなかったが、腕に収めた時の感触と匂いと温もりを、なにかにつれ思い出した。馬上や、吹き付ける高い風の音から。
 何気ない日常の中で、ふと、どうしているかと思い、大丈夫かと細やかな思いが浮かんだ。
 ルリエッタの時のような強い感情は抱かなかった。チャリオットを思い出す時の気持ちに似ていた。柔らかい毛皮の手触りやぬくもり、仕草を思い返すのと同じように。
 昨日、彼女がいることが多いという夕方の図書室に足を向けたのも、単なる気紛れからだった。
 会えるかもしれない、会えないかもしれない、別に会えなかったからといってどうということはない、そんな気持ちからだった。
 しかし、久し振りに顔を見て、会話を交わした時、胸の奥に忘れかけていたなにかを思い出した。
 チャリオットの話を自然と口にしていた。他の誰にも話すつもりもなかったものを、自らすすんでさえしていた。
 なにひとつ気負うことなく話していた。
「でも、傍に誰かにいて欲しい時もあるでしょう。それこそ、食事の時とか。今日みたいに時間がある時など」
 その通りだ。まさに、いまがその時だった。
 その手をとった時、このまま傍にいて欲しいと感じた。ひとりになりたくはなかった。それは等しく、とうに己にとって彼女は身近にいて当り前の存在になっているということにも、今更ながら気付かされた。 唇が触れた瞬間、はじめてはっきりと彼女が手放せない者になっていることに、呆然となった。いつの間にか、無彩色だった風景が色づいていることに気付かされたような驚きを感じた。
 去ろうとする際に見せた、彼女の笑顔の鮮やかさ。
 その時、カスミにとってはほんの戯れで、ここは彼女にとって仮の場所でしかないと、言葉にはせずとも伝わった。いつでも、ここを離れられるのだ、と。そして、今、引き留めなければ、二度と触れることを許されない存在となるに違いないと、本能的に感じた。
 ……この手を放せば、永遠に悔いることになる、そう覚った。
 もし、このままカスミを行かせてしまえば、これから先、私は他人の満たされた盃を横目に、空になった盃を大事に抱えて生きていくことになるだろう。初夏の黄昏た空を眺める思いで。
 そして、やっと、気付いた。自分が何を待っていたかを。
 カスミが、恩に着てではなく、卑屈になるでなく、隷属するでなく。慈悲に縋ろうとするでなく、益を求めてではなく、何者としてでもなく、ただ望むのを待っていた。私の傍にいることを。
 自ら望んで。
 そうでなければ、意味がなかった。
 そうでなければ、己が望む彼女を手に入れられないとわかっていたから。
 自由で、気侭で、図々しく、臆病でありながら頑固で強かで、とらえ所のないしなやかさを内包する優しい存在を。猫に似た、誇り高い魂をもつ女を。
 そう気付いた時、どうするかは考えるまでもなかった。
 ……そして、私はカスミを得た。

 答えた私に、陛下は傍付きの侍従を呼ぶよう言った。私は立ち上がり、室外で待機しているだろう男を呼び入れた。陛下は侍従の男の耳元になにごとかを囁き、再び、部屋を出ていくのを見送った。そして、「しかし」、と私に視線を戻すと言った。
「苦手にしていようとも、そなたはこれまで以上に公私を区別させなければならぬであろう。これまで通せた我も抑えなければならなくなろうな。さもなければ、身内でも特に五月蝿い者たちにつけこまれ、いらぬ騒ぎを撒き散らかされることになりかねない。その中であの者の存在が明るみになるやもしれぬ。それを避けるためにも、不本意であっても譲歩せねばならぬこともあるだろう」
「はい」
「吾であっても、庇うことのできない局面もあろう。或いは、対立せねばならぬ時も。それでも堪えねばならぬ。守るものを得るということにはそういう面もある」
「すべて承知しております」
「或いは、それを避けるためにも、表立っては有力な貴族の娘を正妻に迎える手もある。それにより、そなたの意見も通しやすくもなろう」
「それは……」
「例えば、ヴァルドハイム侯爵令嬢はどうだ? 財務長官である侯爵の二番目の娘が、十八とまだ年若くはあるが、まずまず美しくあるし、健康だ。この先、子を何人も成すこともできよう。父親である侯爵は政治的足場固めも着実であるし、それなりに発言力もある。そなたの力にもなろう」
「いえ、お気遣いには感謝いたしますが、それはご遠慮申し上げます」
「断るか」
「はい。私が特定の貴族との関りを持つことで、現在ある軍の制度を揺るがしもするでしょう。内部摩擦による崩壊は避けるべきかと存じます」
 それ以上に、カスミに累が及ばないとも限らない。コランティーヌの時のことを思えば、それこそ避けなければならない。ふたりの女を同等に扱うなどという芸当は、私には無理だ。
「ふむ、そういうこともあるか」
 わかっているだろうに、素知らぬ顔で陛下は頷いた。
「しかし、それは別にしても、一時の過ちであって、命を惜しんで絆されただけならば、今からでも吾が預かってもよいぞ。吾の側室となれば、近づける者は滅多におらぬからな。一度、そなたの手がついたぐらい、吾も気にはせぬ」
「兄上っ!」
 思わず知らず、声を荒げていた。口から出してしまってから、すぐに我に返った。
「……陛下、お戯れを……」
 言い直せば、くくっ、と咽喉が鳴らされた。
「そうだな、悪い冗談だ。気にするな」
 そう答えてからも、しばらく面白そうに笑う声が続いた。
 からかわれるにしても、少々、過剰に反応しすぎたらしい。舌打ちしたい気分になった。
「しかし、おまえに兄と呼ばれたのは、久方ぶりだ」
「失礼を」
「そのままでよい。どうせ他には誰にもいないしな。元より他には聞かせられない話でもある。兄弟として話すべきことでもあろうよ。公にならぬとはいえ、私にとっても義妹に迎える者の話であるし。私もこれ以上、義妹と呼ぶべき者を妻に迎えたくはないしなあ」
「私もお渡しするつもりはありません」
 砕けた口調に言い返せば、ほう、と面白そうに私を見る。
「まあ、そういうこともあるか。おまえは野に近くある性質の者を好むようであるしな。おまえ自身、幼き頃とそう変わらず残っている面もあることを思えば、当然か」
「そういう兄上も変わらないでしょう」
「そうか?」
「そうやって、未だ子供扱いするところなど」
 九つ年が離れていることもあるのだろう。長兄たる兄は、気がついた時にはいつも私の前では保護者の顔をしていた。
 ハハ、と明るい笑い声がたった。
「気を悪くしたならば、許せ。兄として嬉しいのだ。真直ぐで、強情で、飼い猫を追いかけて城中を駆け回っていたやんちゃ者が、こうして消えずに残されていたことに。おまえが無事、一人前になり、軍人として功績を残すまでになったことは喜ばしくもあり感謝すべきことではあるが、本来の愛すべき性格が失われてしまったかと感じるにつけ、心配にも寂しくも感じていた」
「それは……」
 そんな風に思われていたなど、初めて知った。照れ臭さを知られまいと、表情を引き締める。が、兄はそれすらも気付いた様子で、また、笑い声をたてた。
「色々と難しい問題はあるが、この点だけにおいても、あの者を生かしておいてよかったと私は思っている。ロクサンドリアもこのことを知れば、喜ぶだろう」
「義姉上が?」
 カスミを気に入っていることは確かだろうが。
「ずっと、おまえのことを私以上に気にしていた。妹姫のこともあったが、本来ならばあれが持つべき荷をおまえに背負わせてしまったのではないか、と気に病んでいた」
 ああ……
 自然と目が指に嵌められた青い宝石に吸い寄せられていた。
「この十年の義姉上のご心痛は、私も存じているつもりです」
 この十年は、義姉にとっても戦いの日々だった。
 後ろ盾となる故国を失い、兄上が側室を迎えることも許容せざるを得なかった。心ない中傷や陰口、さまざまな軋轢の中で、立ち位置を確実なものにするために地道な努力を重ねてきた。そして、国母として、また、お飾りの王妃としてでなく、ラシエマンシィの唯一の女主として確固たる地位を築いた。本当に、頭が下がるほどに強い女性だ。そして、ようやく、ガーネリアを取り戻したことで、名実ともに『女王』となった。
「うん、しかし、ガーネリアの地を取り戻せたことで、あれもすこしは楽になろう。忙しくはなるが、これからの事を思えば、苦にもなるまいよ。それこそ、あの者もよき者達を連れてきてくれたようであるし、はしゃぐ子等につられ、あれも本来の明るさを思い出したかのようにみえる」
 一度、失われた命はけして戻らない。生者はその上にあって、一緒に欠けた心の形を変えることで、保ち続けるようにも思える。
 この先も、私はこの指にある石を手放すことはないだろう。しかし、それに対して抱く心が、形を変え始めているのを感じた。陽の光を浴びて咲く花のような少女の笑顔ばかりが、自然と脳裏に浮かんで消えていった。ルリエッタに再び会えたような気がして、不思議と満たされた気持ちになった。
 と、その時、先ほどの侍従が戻ってきた。口を閉じて待っていると、手にした小さな箱を兄に渡した。
「ご苦労。もう暫しの間、ふたりきりに」
 侍従が再び下がるのを待って、兄は私に向き直ると、先ほど渡された箱を私に差し出した。
「受け取れ。母上の形見だ」
「母上の」
 箱を開ければ、猫の目を思い出させる形の、幾面にもカットされた透き通るガラスにも似た宝石があった。取り出してみれば、繊細なほどに小さな指輪だ。だが、光を細かく反射する姿は、とても美しい。華奢なカスミの指に似合うだろう。
「あの頃、おまえはまだ幼く、そのような物を手元に置く意味も分からなかっただろう。だから、私の方で選び、預かっていた。あの者の指に合うかどうかまでは分からぬが、直させることもできよう」
「……有難う御座います」
「大事にしてやれ。決して誰にも奪われることなく。国のためにもだが、何よりおまえ自身の為に」
「はい、決して」
 母の形見を手に誓う。
 手にした小さな欠片を二度と失うまい、と。
「隠しもった棘に引っ掛かれぬよう、面倒がらずに、せいぜい機嫌をとる努力をおこたらぬことだな」
 兄はそう冗談めかせて私に言うと、また笑った。




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