ディオ達が不在のこの二ヶ月の間、城の中にも変化があった。
 側室のテルイーリア妃が、無事に御出産なさった。
 お披露目はまだだが、それはもう可愛らしい王女さまらしい。
 今代はじめてのお姫さまは、ミリリア姫と名付けられたそうだ。
 出産後、診察をしたケリーさんも叔父になるクラウス殿下も、「将来、美人になることは間違いないだろうね」、と笑顔で言っていた。
 陛下も大層、お喜びの御様子。
 まあ、女好きらしいし、男親にとって娘というのは別格という話もあるし、新しいお姫さまをこれまでになく気にかけているそうだ。
 約一ヶ月経った今も、お姫さまはテルイーリア妃と共に御健勝であられて、日々、健やかにお過ごしになられているという話だ。
 この慶事は、城中だけでなく民の間にも伝わり、ほぼ同じ時期に開かれた今年の花祭りを、更に賑わせた。
 だが、そんなお祝いムードの中、ぶすったれていた者がひとり。
 私ではなく――。
 それが起きたのは、突然だった。


「ウサギちゃん!!」

 ランディさんの叫び声が聞こえた時には、私はすでに転がり落ちていた。
 文字通り、物理的に転がっている最中だった。
 広い階段を真っ逆さまに。
 そして、転がる中で視界にいたのは、階段の際に立ち竦むグラディスナータ殿下だった。

 それが、二週間前の出来事だ。
 運良くまだ死んではいない。
 そうなっていても、おかしくなかったのに。
 幸いなことに、骨も折れていないかった。
 ひびぐらいは入ったかもしれないけれど、時間が経てば治るだろう。
 骨折なんぞしようものなら、ここでは、一生、不自由な思いをしなければならなかったところだ。
 妊娠していなかったのも、不幸中の幸い。
 本当に、運が悪いのか良いのか。
 我が事ながら、感心するほどだ。
 足首と手首をねん挫したし、全身、痣だらけで、見られたもんじゃないけれどさ。
 ドレスの下はすごいぞぉ。
 或る意味、『私、脱ぐと凄いんです』、だ。
 左足とかケリーさん特製のギプスでがっちがちに固められているし、肩を酷く痛めて包帯ぐるぐる巻きの、腕も一時期、三角巾で吊って固定したりしていた。
 今でも湿布や包帯だけで、一枚、多く服を着ているようなもんだ。
 でも、一週間前に比べれば腫れもひいて、久し振りにこうして動けるようにもなったところだ。
 杖が必要だけどな。
 てか、やっぱ、痛い……。
 部分的にちょっと動かしただけで、脳天突き抜ける痛みが走ったりする。

 いでででてててててててててっ!!

 でも、ブランコは漕ぎ続ける。
 一応、お詫びだしな。
 グラディス殿下個人からの、泣きべそ顔つきの。
 彼専用のとっておきの場所を貸してもらった。
 王子様だからって、こどもが個人的にできる事なんて限られているし。
 彼の反省と謝罪を受け取った印として、私はここにいる。
 もうちょっと治ってからでも良かったけれど、罪悪感を長引かせ過ぎても良くないしな。

 みっしみっし、ぎーしぎーし。

 ブランコが鳴る。
 私の身体も。
 痛ぇ……。



 御年八歳になられたグラディスナータ殿下は、私個人の意見ではあるが、その年齢にしてはかなり出来の良い子だと思う。
 思っていた。
 見た目の可愛らしさが、上出来なこともあって。
 しかし、それに反して、一度、騒ぎはじめれば、特に弟のローディリア王子と一緒の時などその年の男の子らしい怪獣なみの騒々しさではあるが、普段は王子様らしい物腰と態度の使い分けもできて、尊大すぎることもなく、弟思いのお兄ちゃんらしさもある。
 ディオの話では、少々、気の散りやすい面もあるが、基本的に何事にも物覚えが良い方らしい。
 もう少しじっくり構えて努力をすることを覚えれば、あらゆる面で伸びるだろうと言っていた。
 クラウス殿下の見立てでは、少し人見知りする傾向があるらしい。
 用心深いとも、小心とも区別がつかない程度ではあるが、繊細な面も感じられるというところだろう。
 多分、これらの評価は他の人とそう変わらないものだろう。
 だから、皆、安心しすぎていたんだと思う。
 でも、そうじゃなかった。
 王子だからと言って、良い子だからと言って、八歳の男の子だ。
 まだ親に甘えていたい年頃だ。
 その点、普通の男の子と変わらない。
 育ちきっていない感情の制御がうまくいかず、爆発することだってあるのを、皆、忘れていた。
 引き金になったのは、生まれて間もないミリリア王女。
 皆の関心が赤ん坊に集中したことで、自覚はないにしてもグラディス王子は寂しかったに違いない。
 或いは、はじめて孤独というものを知ったのかもしれない。
 同じような状況はローディ王子の生誕時に経験はしていただろうが、その時は王妃さまがいたし、陛下も周囲の者たちもそれなりに気遣いはしただろう。
 しかし、今回、はじめて長期に渡って母親と弟と物理的な距離に隔てられた上、父親も娘にすっかり気を取られている。
 護衛の中でも、遊び相手にもなっていたギャスパーくん達もいない。
 叔父であるクラウス殿下や他にも周囲に人はいるのだろうが、子供らしい我侭を言える相手でもないのだろう。
 それでも、彼なりに我慢はしていたようだ。
 が、なにが切っ掛けか、限界を越えた。
 寂しさは度を越した甘えとなり、理不尽さを覚えて、怒りに姿を変えた。
 そして、所謂、三面記事でおなじみの、『まさか、あの子が』という事をやらかしたわけだ。
 不注意と運の悪さが手伝って、殆ど事故のようなものではあったが。
 私も、毎日、短時間ではあるが、彼とは顔を合わせる者の一人だ。
 お伽話を話して聞かせたり、たまには激しいものではないけれど、遊び相手も務めたりしているから。
 他の人たちよりは気安いところがあったのだろう。
 ……まあ、体格面とかで舐められていた一面もあったかもしれないけれど。
 言ってみれば、丁度よい八つ当たり相手だったわけだ。
 たまたま臨界点間近のところで、南棟の廊下で行き合ってしまった。
 私は、どうすれば次の冬までにマスクを広く普及させることができるか、と相談を受けてケリーさんの所からの帰りだった。
 細菌やウイルスなんてもんが認知されていない世界だからね。
 この程度の事が、けっこう難問だったりするんだよ。
 考えながら歩いていたこともあって、前から殿下が来たことはわかってはいたけれど、その顔色や様子を見ることまではしていなかった。
 それが出来ていれば、結果は違っていたかもしれない。
 ただ、廊下の端に寄って、頭を下げて道を開けただけに過ぎなかった。
 一旦、グラディス殿下を見送ってのち、ランディさんが呟いた。
「護衛はどこだ?」

 あれ?

 言われて、私もはじめて気が付いた。
 例え城内だろうと、王子様がひとりってのはまずい。
「ランディさん、護衛の人を呼んで来て貰えますか。私はそれまで、なんとか王子をお引き止めしますから」
「わかった」
 この時、素直に私の傍を離れたランディさんを、誰も責められはしないだろう。
 まさか、あんな事が起きるなど、私自身、思ってもみなかったのだから。
 ランディさんと別れた私は、急いでグラディス殿下の後を追った。
「殿下!」
 すぐに追い付けた。
 本来、こちらから声をかけてはならない相手だが、身の安全確保が理由なら許される。
 返事なく振り返ったところで言った。
「おひとりでは危険ですよ。今、供の者を呼びに行かせましたから少しお待ちください」
 すると、肩近く伸ばしたオレンジに近い色の緩くウエーブのかかった髪が振られ、再び、背を向けられた。
 まだ小さな背。
 でも、いつか一国を背負うことになる背中だ。
「かまわぬ」
「でも、何かあった時が大変です」
「いらぬ」
「だめです。ひとりにした殿下になにかあれば、私が叱られてしまいます。私を助けると思って、ここで暫しお待ちください」
 この時、さすがに私もグラディス殿下の機嫌が悪いことに気が付いていた。
 でも、何かあったのかちょっと拗ねてるな、ぐらいの認識だ。
 その理由まで深く考えるものではなかった。
「そんなことはない」
 グラディス殿下はちらりと私の方見たかと思えば、すぐに、ぷい、と顔を背けた。
「そなたが叱られるなど、あるわけがない」
 私は殿下の隣に並ぶと、その場でしゃがんだ。
 覗き込むではなく、幼い横顔を見る。
「いいえ、叱られます。殿下は大事な方ですから、その方を何故ひとりにしたと、皆から叱られます」
「そんなはずない! わたしのことなど、どうだっていいんだ!」
 突然、噴き出した怒りにあてられた。
 この感覚は、覚えがある。
 ファーデルシアの養護施設のちびっこ達が、何かの拍子に癇癪を起こした時とおなじだ。
「……どうしてそう思うんですか?」
 そういう時、ちびっ子達は決まって言った。
『おかあさんでもないのに、うるさく言うなっ!』
 それにどう答えるかは、その場のノリで更に怒鳴ったり、頭が冷えるまで放っておいたり、相手によりけりだった。
 しかし、殿下相手に放置や怒鳴り返す事は、さすがに出来ない。
 後から、不敬だとか無礼とか、誰に何を言われるかわかったもんじゃない。
 出来るだけ穏便な方法を取るしかなかった。
 それがいけなかったのか。
「うるさい! わたしにかまうなっ!!」
「でも、」
「わたしのことなんて、放っておけっ!」
 どん、と伸ばされた手に左肩を押された。
 そう強い力ではない。
 が、ピンヒールではないが、踵のある靴を履いてしゃがんだ状態が、如何に不安定なものかわかるだろうか?
 軽く片ひざをついていたところで、大した支えにもならない。
 私は、緩くバランスを崩し右方向へよろけ――そして、場所が悪かった。
「ウサギちゃん!」
 その時、護衛の者を伴って戻ってきたランディさんにも、どうしようもなく。
 普通なら尻餅程度ですんでいた筈が、階段を真っ逆さまに落ちる羽目になった。

 ……これが、事の顛末だ。




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