落ち方がゆっくりだったせいもあるのだろう。
 私も庇うところは庇う余裕があったお陰で、こうしてまだ生きている。
 二週間近くをベッドで過ごしたにしても、元々、引き篭もりみたいなもんだしな。
 そして、グラディス殿下は、陛下をはじめとする大人達にド叱られたようだ。
 陛下と共に見舞いに訪れた殿下のしょげ具合から言って、相当にみっちりやられたらしい。
 スミレに似た可愛らしい花束を頂き、そして、殿下のブランコに乗るお許しを頂いた。
 見舞いだよ、見舞い。
 謝罪ではない。
 王様だからね。
 こう言ってはなんだが、グラディス殿下にとって、ある意味良い勉強にもなった、という言われ方をされた。
 陛下の話によれば、自分の手で人に怪我を負わせたことが、殿下にとってなによりショックだったようだ。
 守られるのが当たり前の王族にとって、そういう事を知る機会は滅多にあるものではなく、また、己の軽率な行動がどのような事態を引き起こすとも限らない事を、身をもって知ることが出来ただろう事に感謝する、といつものわけのわからん回りくどい言い方でのお言葉を頂戴した。
 これが謝罪しない代わりの、陛下方の精一杯の誠意の表し方らしい。
「しかし、其方の命があった事だけが救いである。もし、万が一の事があったならば、今頃、吾もディオクレシアスに会わせる顔がなかったであろう」
 少しだけ素の顔を見せて陛下は私に言った。
「今、こういう形で其方を失えば、あれは二度と愛する者を持とうなどと思わないであろうから」
「それは少し大袈裟だと思いますよ。多少は、気持ちに尾を引くことはあるかもしれませんが」
 現に、こうやっておざなりにされているしな。
 ミイラ女状態で、私は答えた。
 すると、
「致し方ない部分があるにしても、やはり、あれは相変わらず、女性の扱いに足らぬところがあるらしい」
 と、陛下は苦笑を浮かべられ、
「帰国後、吾からも言ってきかせよう」
 それだけ言って、部屋を去られた。
 なんとなく含みも感じられたが、それ以上突っ込む気力もなく、私も流して見送った。

 なぜ、陛下がそんなことを言ったのか。
 なぜ、ディオが、自らガーネリアに行くと言いだしたのか。
 私が、ディオの初恋に纏る出来事――亡くなったガーネリアのお姫さまの話を知ったのは、もっと後の事だ。



 みしみし、ぎーしぎし。

 身体は痛いが、こうして風に吹かれていると、心の中に滞っていた塊みたいなものも少しずつ風化されていくようだ。
 確かに高価な物を貰うより、この方が良かったかもしれないと思う。
 詫びとして、殿下自身でできる事を、と一生懸命に考えてくれたのかもしれない。
 肩たたき券とか、お手伝い券とかと同じと考えれば、妥当なところなんだろう。
 王子様に仕事の手伝いとかをさせるわけにはいかないしな。
 思えば、殿下と私の腹立ちの根っこは一緒だ。
 表し方が違っていただけで。
 ……とは言え、そう簡単に許すつもりもないけれどな。
 本当に、いつ何時、なにがあるかわからないんだからな!
 危険な筈だったディオにじゃなく、私に、だったけれど。

 庭に新たな影が落ちた。

 しっかりと見るまでもなかった。
 私は、揺れる合間に、ちら、と確認して言った。
「ぉかえりなさぁぃ。ぉおつとめ、ご苦労さまでしぃたぁぁ」
 明るい光の中では異質な黒い姿に、髪ばかりが赤く光を反射する。
 私が二ヶ月待ったその人が佇んでいた。
 でも、ブランコを止めることはしない。
 笑いかけてやんない。
 つーん、だ。
 前を向いて、近付いたり遠ざかったりする空を眺めた。
 ……良い天気だな。
「不在中の事は、陛下より聞いた」
 顔は見なくとも、渋い表情のままだろうとわかる声を聞く。
「大丈夫なのか」
「だぁぃじょおぶですぅぅ。だぁぃぶよくなぁりまぁぁしたぁ」
 本当は、まだあちこち難儀しているけれどな。
 貴方がいなくたって、時間が経てば、怪我は治るよ。
 ……って、私も大概、意地悪だ。
 でも、まあ、あとちょっとぐらいいいだろう。
「だが、あまり無理はするな。部屋に戻って休め」
 送る、と少しだけ小さくなった声が言った……ん?
 横を見て確認すれば、ディオは横を向いて庭の奥の方を眺めていた。
 なんだ? 痛ててて! 気を取られすぎて、ちょい背中捻った。
 私の呻き声が聞こえたのだろう。
 ディオは私に視線を戻して言った。
「だから、無理をするなと言っている」
 さあ、と手が向けられた。
「あっちになにかあるんですか」
 ブランコを降りることなく、揺れを抑えて質問すれば、手が引っ込められ、
「……あの奥にチャリオットが眠っている」
 声をひそめる答えがあった。
 ……ああ、そうなのか。
 私はブランコを止めた。
「お参りしてもいいですか」
「ああ」
「そこにある杖を取ってくれませんか。下手に触れられるとかえって痛いので」
 もう一度差し出されかける手の前に言えば、素直に幹に立て掛けてあったそれが手渡された。
 よっこらせ!
 マジ、こういった些細な動作が痛みを誘う。
 杖を支えに、固められた左足を引き摺りながら立ち上がれば、ディオの眉がますます顰められた。
 だが、「こっちだ」、と歩を進めた。
 私はその後ろをついていった。
 柔らかい土の感触に痛みはあるも、石のような跳ね返りは感じられない。
 慎重に足を運ぶも、前に見えるディオとの距離が特に離れることはなかった。
 気遣って、ディオが、普段と比べてかなりゆっくりと歩いてくれているらしいと気付いた。
 よく見ればマントも埃っぽく、旅装束のまま着替えることもせず、私を迎えに来たらしい。
 ディオの愛猫の墓は、庭の奥まった場所の植え込みが並ぶ壁際にひっそりとあった。
 丸い大きな石だけが置かれた、小さく簡素な墓だ。
 ディオは、近くに咲いていた白い花を手折り、その石の前に置いた。
 瞳を伏せ、何かを思うように佇んだ。
 それだけの仕草にも関わらず、彼がこの猫のことをどれだけ愛していたか伝わってきた。
 私はしゃがむ事も、手を合わせる事もできない自分が、悪く思えた。
 私にとっては、ただの猫なのだけれど。
 ふいに、ディオが口を開いた。
「陛下が、グラディスは陛下よりも私に似ているようだ、とおっしゃられていた。子供の頃の私を思い出すと」
「そうなんですか?」
「私も昔、同じぐらいの年の頃、チャリオットを追い、城の階段であわや当時の王であった父に大けがを負わせそうになった事がある。そのせいだろう」
 ああ、そんな話は前に聞いたことがあるな。
 クラウス殿下からだったか。
 その時のディオも、こっぴどく叱られたという話だった。
「……そう言われてしまえば、私にグラディスを責めることはできない」
 上手いな、陛下。
「まあ、事故みたいなものですから」
 反省しているのに、これ以上叱るのは酷というものだろう。 
 かえって、ひねくれそうだ。
 ディオには黙っていてもらった方が、丸く収まる。
「だが……本当に、怪我だけですんでよかった」
「そうですね」
 私もそう思うよ。
 でも、なんか、いつもと様子が違うな……よくわかんないけれど。
 ただ、長旅で疲れているせいか?
 猫のちいさな墓の前に立っていると、夕暮れ時が近付いてきたせいか、交じり合う花の甘い匂いがより濃くなったような気がする。
 そよ、と木々の葉を鳴らして、よい風が通り過ぎていった。
「でも、思うのですけれど」、とディオのこちらを窺うような気配を感じながら、目を合わせることなく私は答えた。
「残念ながら、私は猫じゃないので、階段から落ちても無事に着地するなんて芸当はできません。今回の事は、そういった危険はどこにいても有り得るということでしょう。遭う、遭わないは別にして」
「そういうことでもあるか」
「そうですよ。私がどんなに気をつけていたって、貴方がどんなに強いか知っているにしても、お互い、常に無事でいられる保証はないんですから。明日には、重い病気にかかって死んじゃわないとも限らないんですから」
「そうだな」
「だから、貴方が危なくないと思っていたとしても、城を離れる時には、事前に知らせて下さい。それで、ちゃんと心配とお見送りをさせて下さい。でないと、もし、貴方になにかあれば、一生、後悔しそうです。そう思いませんか?」
 チャリオットは猫だから、そんなことは思いもしなかっただろうけれど、人間ならそういう無念を抱いたかもしれない。
「ああ、そうかもしれないな……今後は気をつけよう」
 ほう? 今日は、随分と素直じゃないか。
 陛下がなにか言ってくれたかな?
 ま、こっちもこのくらいで許してやるさ。
「触れても痛くないところはどこだ」
「……一応、顔ならどこでも」
 答えれば、頬に手が添えられて唇に柔らかなキスがあった。
 ほんと、いつもこんな調子だといいんだけれどなあ。
 なんでか、すぐにこういう気遣いを忘れやがるんだから。
 そうしたら、ディオも、やっといつもの調子が戻ってきたみたいだった。
「大丈夫そうだな」
「首から下は駄目ですよ。時々、肩からの痛みが走ったりするんです」
 本当のことを言ってやると、浮かんでいた微笑が消えて、つまらなさそうな表情になった。
 その顔に、私は笑った。
「部屋に戻りましょう。今日はもうお務めはないのでしょう?」
「ああ」
「こんな状態でも、お食事ぐらいは付き合えますよ。旅の話を聞かせてください」
「大して面白い話もないが」
 二人並んで、ゆっくりと墓の前を後にする。
 それだけの事に、私は、不思議と満たされた気分になっていた。
 そう言えば、 この人と二人で青空の下を歩いたのっていつ振りだ?
 誰も乗らないブランコが、微かに揺れている。
 城内から、久しくなかったこども達の賑やかな声が届けられる。
 芳しい花の香り。
 隣を歩く人の瞳の色は、今日の空の色よりも濃く、そして、吹く風よりも柔らかだ。
 そして、私は、ふいに思う。

 なんと美しい春の景色だろう!

 その中の一員でいられる幸せを感じる。
 杖つきでなければもっと良かったのだろうけれど、宵にならずとも、この一時に千金以上の価値を感じる。
 ……少なくとも、私にとっては。

 にゃあ、とどこからか猫の鳴き声が聞こえたような気がした。







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