ここのところ、レティはだいたい週三日ペースで、南棟にあるケリーさんの研究室に通っている。
 結婚後、漸く生活が落ち着いてきたこともあって、以前からの約束通りに、ケリー先生の弟子というか看護師みたいなことをしながら、薬の配合の仕方や治療の基礎知識を実地で学んでいる。そして、グレリオくんが不在の今は、毎日、通ってきている。
「まったく、我が妹ながら物好きだと思うよ。賃金もなく、お世辞にも女性が見るには耐えられないだろう事が多い場所で、自らの手を汚して働こうなどと。あんな娘ではなかったはずなんだけれどね」
 念のため、と護衛でついてきてくれたランディさんは言った。
「心配なんですよ」
 私は答えた。
「レティにとっては、必要な事だと思ったんでしょう。グレリオ君もランディさんも、御役目上いつなにがあるかわからないし。そんな時、ただ狼狽えて泣いているだけなんて嫌だから、少しでも役に立つ正しい知識を得たいと思っての事でしょう」

『教えをいただく身で賃金などいただけないわ』
 手伝いの謝礼も受け取ってくれない、と困惑するケリーさんに頼まれて話をした時、レティはそう言って明るく笑った。
「私、ケリー先生に教えて頂けることって、本当に貴重だと思うのよ。私、包帯ひとつ巻くにも、こんなに沢山のやり方があるなんて知らなかった。お薬だって、それぞれの配合の仕方や扱いひとつで、ぜんぜん効果が違うんですもの。そりゃあ、私が戦場に行くことなどないでしょうけれど、普段でも、グレリオやお兄さまが怪我をした時にきっと役に立つと思うし、そうでなくとも、将来、自分の子供が病気になった時とか怪我した時とか、知っているだけでも随分と違うと思わ。すぐにお医者様にかかれるとは限らないし、最初に適切に処置する事で助かる確率がグンと上がるって、先生もおっしゃっていたし。どこまで出来るかわからないけれど、その内、領民達にもこういった事を広めれば、長く苦しまずにすむ事だってあると思うの」
 理想も含めた正論を前に、私はそうだねと頷くしかなく、ケリーさんには受け取らせることを諦める様に伝えるしかなかった。

「そうかもしれないけれど、兄としては心配するよ。なにかと悪く言う者もいるし、陰口を叩く者も多い。それで傷つけられるよりは、大人しくしていて欲しいってのが本音だな」
 まあ、王城に出入りの許される上流貴族の女性なんかは特に、『暇なら刺繍や楽器を演奏していればいい』ってのが一般的みたいだからな。いかに身内の女性を苦労なく美しく保てているか、が男性貴族のステータスのひとつでもあるのだろう。
 個人の意志や人権云々を考えるより先に、素直にそれを受け入れている女性が殆どだろう……誰だって苦労はしたくないし、価値観は簡単に変えられるものではないから。そういうものだと割りきって、日常の平穏を優先するのは、当たり前の心理だと思う。将来的にはどうなるかわからないが、今はそういう文化だと許容するしかない。
「でも、だからこそ、レティの行動力には感心しますし、その勇気は賞賛に値すると私は思いますよ」
 本人も、世の中を変えようなんて大それたことは考えていないだろう。ただ、他者からの悪感情に流されず、自分の意志を通そうとする姿勢は、それだけですごいことだと思う。
「今は白い目で見る人も多いでしょうけれど、いつかは賛同者も現れるでしょうし、感謝する人もいると思います」
 ランディさんの心配も、わからんでもないけれどね。たまに、教材のための死体解剖とかもしているみたいだしなあ。女性が働く場所としても、極端な環境だったりするんだろう。
「そうだといいけれどね」、と答えるランディさんは、妹を心配するお兄さんの顔のままだ。
「そうですよ」、と私は笑った。
「誰にでも、世間体よりも大事なものがあるって気付く機会はありますから。グレリオ君やランディさんも、それを分かっているからレティの行動を許しているんでしょ」
 他人の目を気にしてばっかじゃ息が詰まる。脳内酸欠で自分が辛くなる一方だ。
 すると、ランディさんはしげしげと私の顔を見下ろした後、「まったく」と苦笑した。
「ディオ様の気苦労が忍ばれるね」
「どういう意味ですか」
「ウサギちゃんはウサギちゃんだな、ってことだよ」
 なんだよ、それ。
 むっとする私の頭の上で、ランディさんの手が跳ねた。


 ケリーさんの占有する空間は、一室を住居、一室を書斎兼薬の調合などを行う研究室、一室を診療室兼講義室の三部屋で構成されている。私が主に訪れるのは研究室だ。お茶や食事の時は、住居。
 こちらでは、アポを取る的な……まず先触れを出してから訪れるのがマナーなんだが、そこは同じ世界から来た者同士、かたっ苦しいのは抜きにして、お互いに適当に好きな時に出入りをしている。
 とは言え、ケリーさんも最近は忙しいらしく、部屋にいない事も多い。当然、助手をやっているレティも同様だ。
「いないみたいですね。診療室かな?」
 扉を開けた先に二人の姿はなかった。
「私が見てくるから、ここで待っていて」
 といって出て行ったランディさんを待つこと暫し、レティを連れて戻ってきた。
「忙しいところごめんね」
 そう行って謝れば、「いいえ、丁度、終わったところでしたから」、の返事だ。
「なにか御用だった?」
「ああ、うん。今、ちょっと時間いいかな? 相談したいことがあって……」
 薬の調合に使うテーブルの片隅を借りて、かくかくしかじかとレティに持ってきた簡単なデザイン画を見せて説明した。
「と、いうわけで、私自身なかなか動けないし、レティに頼めないかと思って」
 すると、あら、と小首を傾げられた。
「それは構いませんけれど、そうねぇ、こういう感じだったら、気に入った布地を持ち込んで、町の仕立屋に頼んだ方が早いのではないかしら」
「そうなの?」
「ええ、ほら、タチアナさんが踊りの衣装を頼むような。そういうところでしたら、多少、奇抜な形でも変に思われることはないでしょ。タチアナさん達も、この間、戻って来たみたいですし、紹介していただいたらどうかしら」
 おお、その手があったか! 久しぶりに、姐さんにも会いたい、踊りも観たい……あ、でもなあ。
 ちらり、とランディさんを伺えば、小さく首を横に振っていた。
「お兄さま」
 気づいたレティが呼んでも、首の振りが大きくなっただけだ。
「ダメだよ。まず、アストリアスが許可を出さないし、私も連れて行かない。たとえ仕立屋だろうと、なにが起きてもおかしくないのだから、そんな危険は冒せないよ」
 やっぱりか。
「でしたら」、とレティが声をあげた。
「タチアナさんにお願いしたらどうかしら。寸法さえわかれば作れると思いますし。タチアナさんに会うぐらいでしたら、許可されるのですよね」
「まあ、それは大丈夫だろうな」
「では、あとは布地をどうするかですね」
 にっこりと笑うレティの中では、タチアナ姐さんに頼むことが確定らしい。
「うちに店を呼んで、その時にキャスも来てもらって、選んで頂くというのはどうかしら。また、いつものように変装してもらって。店には、予めこういうものが欲しいと伝えておけば、そのような品をいくつか選んで持ってきてくれるから、選ぶのも早いでしょうし。それで買った品をタチアナさんの所へ持っていってお願いすればいいわ。ね、兄様、どうかしら?」
「私はかまわないが、ウサギちゃんはどうだい?」
「それで欲しい物が買えるなら、かまいませんけれど」
「じゃあ、決まりね。じゃあ、どんな布がいいか教えて下さる? お店に伝えるから」
 レティのお陰で話は進み、この先、順調に決まりそうだ。
 の、筈だったのだが……




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