泡沫の欠片

 心持ち揺らめく行灯の灯の頼りなさに油を注ぎ足しながら、おんなは、そっ、と男を振り返った。その弾みで少々手元がくるったか、爆ぜるような刹那の炎の大きさが声を呼んだ。
「どうした」
 男にしてはやや線の細い、優男風の容貌に似合った悪くない声だ。
 怪我の功名。訪れてより黙って盃を傾けるばかりであった者の開いた口に、おんなは心持ち安堵する。
「いえ」、と男の隣に戻っては、手に持つを油差しから徳利に変えて酒を注いだ。
「なんぞ御気に障るようなことでもあったかと」
「べつに」、と男は空にした五本の徳利を前に顔色ひとつ変えることなく答える。
「心配せずとも、花代をけちる真似はしないよ」
「然様なことを案じているわけではござんせん」
「ほう、では、別に気に病むことでも」
 どこの席よりか、障子越しに流れ聞こえてくる三味線のつま弾く音は、拙いばかりに耳に入る。
「そりゃア、これから先もおまえ様に御会いしたいからじゃアござんせんか。つまらぬ事でふたたびまみえる事かなわないなどとは寂し過ぎましょう」
 女は口元に艶然とした笑みを浮かべ、阿る声音で答えた。途端、く、とした笑い声が男の口をついて出た。
「まあ、そういう事にしておこうか」
 揶揄するように言うと、空にした盃をおんなに渡す。
 注がれた酒をおんなは一息に飲み干すと、苦手な咽喉を焼く辛さを顔色に出さぬようにしながら盃を男に返した。
「人というのはなかなか見上げたものだね。欲の為に時には己の身も犠牲にする。さりとて、その欲はどんな形であれ己を保つ為であったりするのだから、実に奇妙なものだ」
「なんのお話」
「さて、私のような者には人のそういう様が面白く、心地良いという話だよ」
「可笑しな事を。おまえ様も、その人でございましょうが」
「人に見えるかい」
「えェ。それとも、狐狸が化けたものとでもおっしゃいますか」
 機先を制するが如く冗談めかせて言えば、男は切れ長の黒々とした瞳を僅かに細め、よせ、と少なからず機嫌を損ねた様子をみせた。
「あんな下等な連中と一緒にされては迷惑だ」
「おや、狐狸よりも上等となるとなんでござんしょうね」
「さて、何かな」
「蛇とか」
「ほう、狐狸よりも蛇の方が上かい」
「格は違いましょうが、龍神様の眷族には違わないでございましょ。さしずめ、おまえ様の名は蠎蛇《うわばみ》と申すのでございましょうな」
 空になった徳利を置き、したり顔でおんなが笑うと、男はそういう事もあるか、と薄く笑みを浮かべた。
「私が蠎蛇ならば、明日の朝までには、おまえもひと呑みにしてしまうかもしれないよ」
 かまいませんよ、と婀娜な瞳が流れて答える。夜も更けて、酒の付合いももう飽いた。
「いっそ、その方が楽かもと思うこともないでもござんせんから。それに、蛇に憑かれた者はあちらの方も大層良いとか。そのものであれば、尚更、良うございましょうしね」
 そう答えてしなだれ掛かれば、男はやけにしみじみとした様子で頷いた。
「海に千年、山に千年渡れば、一介の蛇も龍になる。が、人の身なれば、泡沫の夢ばかりの浮世に身を浸す刻は、同じ刻でも、現世で過すそれよりも永くも感じるかもしれないなぁ。いずれにしても、人の世は水泡の如きものではあるけれど」
「まァ、ご達見。あやかしの旦那は言うことが違う」おんなは、くすくすと笑い声をたてた。「おまえ様のようなお人の雑ざる泡沫は、けだし、百鬼夜行さながらの眺めかもしれませぬなァ。けれど、お気をつけあそばしな。この廓の客には護戈の旦那方もおりますので」
「あぁ、護戈衆か」男は、途端、つまらなさそうに言った。「確かに見付かれば、面倒かもしれないな。でも、まだ可愛いものだ。それよりも厄介なのがいる。こっちに見付かれば、ただじゃ済まないかもしれない。なにせ、私は逸れモノだから」
「アら、護戈衆よりも厄介とは何者でございましょ」
 その問いには渋い顔で、「鳥だよ」、と答える。
「鳥?」
「あぁ、知っているかい、蛇や龍にも天敵がいるのだよ。それが、鳥さ。連中ときたら、兎に角、気に入らないとくれば、蛇だろうが龍だろうが問答無用で鋭い嘴でひと突きにしようとする。実に、厄介なものたちだ」
 まァ、とおんなが斜めに投げ出した脚を僅かにずらせば、艶めかしくも乱れた裾から湯文字の赤と白い脹脛を覗かせた。
「ならば、わっちもおまえ様の御同類でございましょうな。鴉ほど憎きものはおりませぬでなァ」
「三千世界の鴉を殺し、かい」男は低く笑った。「遊女の戯れ唄もあったが、おまえはどちらだろうね」
「そんなのは決まっておりましょう」
 おんなは紅い唇を男の耳元に近付けて、囁く声で答えた。
 ――ぬしと朝寝がしてみたい……

 鴉の鳴き声におんなが目を覚ますと、すでに床に男の姿はなかった。
 やれやれ、と擡げた乱れ髪の先になにか小さな光るものがある。男の寝ていただろう夜具の上、指先に貼付けるように掬ってみれば、
「鱗……?」
 男が身に着けていた着物を思わせる透ける墨の色の地の薄い欠片は、傾ければ虹の色を上に乗せる。
 これは果たして、昨夜の酒肴に出したものにくっついていたものやら。これ見よがしの場所に残してあったのは、男のほんの戯れか。
 それにしても、泡沫の夢の欠片としてもなかなか洒落ている。
 そういう細かい芸もしそうな男だった、と昨夜の艶を残した女は密かに笑むと、懐紙に鱗を挟み小さな引出しの中に仕舞った。

 それから、おんなの下へ蠎蛇を名乗る男がふたたび通うことはなかった。





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