泡沫の欠片


 食事をしに寮内の広間へ移動する途中、和真は廊下に佇む沙々女に出会った。
 その表情は相変わらず茫として、なにを考えているか分からない。何があるわけでもない庭先を、ただ眺めている。
 いつもの事だ、と気にせずそのまま行き過ぎようとしたが、ふ、と七丿隊の笹霧の言葉を思い出した。

 ――心が封じられているとはいえ。姉ちゃんに言わせると、厭な声もあるんだそうだ。悪しき言葉を語るものもいるって事だろう……

 沙々女が巫女の素養を持ち、人ならざるものの声を聞く事が出来るらしいという事は、その時に知った。
 そんな声を聞いた事もない和真には、それがどういう感じのものかさっぱり分からないでいるが、もしかして、と思う。
「なにか聞こえるのか」
 立ち止まって沙々女に問うと、彼の方を見ようともせず、墨色の長い髪が僅かに傾げられた。
「……はい」
 妙な間があって、漸く返事がある。
「なにが聞こえる。誰かがなにかを言っているのか」
 重ねて問えば、また暫く間があって、「太郎坊が」、と沙々女は答えた。
「太郎坊?」
「次郎丸に勝ったって……」
 なんだそれは? 太郎坊とは、誰の事か。勝ったとは、何に勝ったというのか。
 和真には、なんの事やらさっぱり分からない。
 しかし、沙々女に訊ねたところで答えられるものではないのだろう。
「その、なんだ。そういうのは、たまに聞こえるのか」
 戸惑いながらそう訊ねてみれば答えはなく、ただ僅かに頭が下がった。どうやら、頷いたらしい。
「そうか」
 それ以上、訊こうにもどう訊けばよいのか分からず、和真はその場を離れた。
 やはり、相も変わらず、沙々女の事が彼にはよく分からないでいる。

「太郎坊という名を聞いた事はあるか」
 広間で他の隊士達と膳を囲みながら和真は、前の席に座る友に訊いてみた。
「太郎坊?」
 案の定、訝しげな返事が返ってくる。
「いいや、聞いた事はないな。それがどうした」
「いや、次郎丸に勝ったそうなんだが、何に勝ったのかと思ってな」
「なんだそれは。どこでそんな事を聞いたんだ」
 黒羽は面白そうに笑みを浮かべて、和真に問い返した。
 それにはどう答えたものか迷う和真の横から、「それ、天狗じゃないですか」、と佐久間が口を挟んだ。
「天狗?」
「ええ、確か、口縄山《くちなわさん》に住む天狗がそういう名ではなかったかと思いますよ。隣の烏山《からすやま》に住むのが次郎丸で、領地を争っていつも相撲をとっているって伝承を聞いた事があります」
「口縄山というと、雲宕山脈の方かい」
 黒羽が問えば、ええ、と佐久間は頷いた。
「そう言えば、君もそちらの出身だったな」
「はい。こどもの頃、婆さんから聞いた話でうろ覚えですが、確かそうだったと」
「でも、天狗なんているんですかね。まあ、龍もいたんだからいるのかって気もしますけれど」
 それを聞いていた多賀井も、話に加わる。
「あれを見た後だと、なにがいてもおかしくないんだろうけれど、天狗はなあ……いたらいたで、どうしようって気にもなりますよね。物の怪には違いないだろうけれど、退治して良いもんやら、悩むところです」
「峰唐山は、龍を斬ろうとしたそうだぜ」
「うわ、やりそうだな」
「近くにいた四丿隊や三丿隊の連中が、必死になって止めたって聞いた」
「俺もそこにいたよ。凄かったあれは。五人がかりで飛びかかって止めてさ、それを一度に跳ね飛ばしやがるの」
「おまえ、いたのかよ。おまえも止めたのか」
「いいや、誰がそんな危ない真似。鵺や夜刀を相手にした方が、まだましだよ。でも、あれ見て、配置転換あっても四丿隊だけは絶対、行きたくないって思った」
 他の隊士達も交じり、会話は賑やかさを増しながら話題は横に逸れていってしまった。
 それで、と黒羽が言った。
「それを何処で聞いたんだ」
「いや、まあ、小耳に挟んだんだ」
 和真は誤魔化しながら、内心、ふうん、と思う。そう言えば、ともうひとつ、笹霧が言っていた言葉を思い出した。

 ――中には他愛ない内容のものもあるそうだから……

 なるほど、と思う。その類の話であったか、と納得もした。
 しかし、天狗の相撲の結果まで教える声というのも妙だし、それを聞いている沙々女も、尚、妙だ、と密かに感想を持つに至った。

 その頃、二丿隊詰所脇では、こどもたちが数人集まり、持ち寄った蛙を競わせて遊びに興じていた。

「太郎坊の勝ちぃっ!」
「ちぇーっ、次郎丸、もっとがんばれよ」

 その声は、当然、和真の耳に聞こえる筈もなかった。





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