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 次の日の朝、私は村の神殿を出発した。ファンブロウ――養護施設に向けて。
「こっからあんたの足だと、大体、五日ぐらいはかかるだろう。でも、こっちの道を行けば戦も避けられるし、本街道を進むよりは、ずっと早く街に着く筈だ。途中、賊はいやしないが、獣には会うかもしれん。気をつけて」
 ファンブロウへの道を訊ねたところ、一緒にいたひとりの男の人がそう教えてくれた。
「ご親切にありがとうございます」
「あんたにタイロンの神のご加護があらん事を」
「気をつけて下さいね」
 エイリンゼさんからも言葉があった。
「はい、あなた方も気をつけて。無茶をしないで下さいね。神の御恵みがあらん事を」
 白々しくもそう別れの挨拶をして、彼女達は南へ、私は北に向かう道を辿った。細い道は緩やかに蛇行を続け、森の中へと続いていた。
 エイリンゼさん達の説明では、首都はここから見て北東の位置にあると言う。
 ランデルバイア軍が進む本街道は、東に真直ぐ向かって進んだ後に北へと続く街道と合流する。幅も広く整備された、普段は安全な道であるが、途中、近くに三つほど砦があるから、そこで戦に行き合う可能性が高いという話だ。
 その代わり、と教えてくれたのは、地元の人間だけが使う生活道で、北東へと森を抜けるとっておきの近道。細く、整備どころか獣道に毛が生えたような道ではあるが、村同士の行き来などに便利に使われているそうだ。大した荷を運ぶこともないから、山賊もいない。でも、野生動物はいるので、注意が必要だ。途中、分かれ道に道標が立っているから、そこを右に折れれば、ファンブロウの都の外れに出るそうだ。
 気負うでもなく、ヤケクソになっているわけでもなく、私は森の道を進んだ。
 森の中は、とても静かだった。鳥の鳴き声などの自然の音以外は、私の存在を示す音ぐらいしかない。擦れ違う人もいない。戦争の最中である事が嘘のようだ。
 と、がさがさと不自然な葉擦れの音が、頭上でした。
 なんだ?
 立ち止まって上を見上げる。だが、何も見えない。今度は右後ろで音がした。……どうやら、野生の猿のようだ。テリトリーから出てけって事らしい。へえへえ、直ぐに出ていきますよ。チンパンジーみたいなやつだったら、勝ち目ないし。最悪、殺される。だって、やつら、頭良い上に凶暴なんだもん。力は人間の数倍あって、人間の赤ん坊を襲って食べる事もあると聞いた時、ぞっとした。
 なんにせよ、早いところ退散した方が良いようだ。でも、猿がいるならば、近くに食べられる木の実とかがあるかもしれない。私は注意深く周囲を観察しながら、また、歩き始めた。
 道を塞ぐ倒木を跨いで越え、岩の上で休憩を取った。
 休んでいる途中、野生の鹿を見かけた。立派な二本の角を持つ、大きな牡鹿だ。森の主といった風格を感じた。茶色の毛皮が木漏れ日に光って、とても綺麗だった。枝分かれした二本の角に風格が漂う。
 牡鹿は、立ち止まり、私をじっと見た。
 私も牡鹿を見つめた。
 その間、まるで、時が止ったかのようだった。
 もし、神様がいるのならば、こんな形をしているに違いない……そう感じた。
 牡鹿が再びゆっくりと歩き始めると、時もまた動き始めた。
 私は、木立の向こうをゆったりと行き過ぎていく牡鹿を見送った。
 なんだか、浮き立った心が静かに落ち着いた気分がした。そして、少し、幸せな気分になれた。
 自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分で判断できる。或いは、その選択が間違っていて、命を落とす羽目になっても責任は私だけにあって、他の誰にも迷惑がかかるものではない。少し寂しくはあるけれど、それでも誰かに煩わされるよりは、ずっと良い。そんな風に感じた。
 言うなれば、開放的な引き篭もりだな。仙人気分。
 その後も歩き続け、途中、持ってきたパンがなくなれば木の実を見付けて食べたり、小川の水を汲んで飲んだりした。そして、夜はまたシェルターを作って野宿した。夜半、少し、雨もあったが、問題ない程度だ。……蛇は見付けたけれど、食べなかった。もう、懲りたよ。
 そうやってとことこ歩いて三日。言われた標識も無事に見付かって道を間違える事もなく、大して問題も起きず、危険もなく過ぎた。熊は見なかったが、餌を探す猪の親子は見かけて、その大きさに驚いたりしたぐらい。
 寂しくはなかった。もうすぐルーディ達が会えるという嬉しさと不安で忙しかったから。
 皆、無事でいるだろうか。突然、帰った事に驚くだろうか。なんて言うだろうか。最初、なんて言おう……寝心地の悪い手作りのベッドの上で、そんな事を考えながら眠った。
 四日目。
 もうすぐ森から抜け出られるだろう、という頃、背後に蹄の音を聞いた。
 まさか!
 と、振り返った時には既に遅し。
「キャス!」

 見付かったぁああっ! ちっくしょぉおおおっ! ここまで来てっ!!

 カリエスさんだ。どうやって捜し当てたんだっ!?
 走って逃げる。道を外れて、薮の中に突っ込んで逃げた。
「こらっ! 逃げるなっ!」
 やだっ、逃げるっ! あんな所、戻りたくないっ! 戻るもんかっ!!
 森の中を走って逃げる。が、カリエスさんも馬から降りて、後を追いかけてきた。
 必死で逃げた。だが、数日間の空腹の影響もあって、足の速さや体力で敵うはずもなく、ついには追詰められて捕まってしまった。
「まったく」
 荒い息を吐きながら地面にへたりこんでいる私の腕を取って、カリエスさんは怒るでもなく言った。
「急に君がいなくなって、皆、心配したんだ。また攫われたかと、一時は大騒ぎだった。直ぐに君が勝手に出ていったって事は分かったんだが……ランディやウェンゼルが君を探しに出るというのを押し留めるのに、随分と難儀をした」
 難儀したのは、こっちの方だ。ああ、もう、泣きたい。
 腕を引っ張っても動こうとしない私に、カリエスさんは溜息を吐いて、手の力を緩めた。
「辛いなら辛いと、どうしてもっと早くに言わないんだ。そうすれば、君の身柄を別のところへ移動させるなりしようがあったものを。この状況で逃げ出した事で、君が敵と内通していると思われても仕方がないんだぞ」
「内通……」
「そうだ。ファーデルシアからの手紙を受け取って、その内容を公表する事を拒んだ上に逃げたとあっては、普通ならば拷問にかけられるか、即刻、処断されてもおかしくない」
 ああ、そうか。そういう事もあったか……そんな事、思い付きもしなかった。
「全く気付いていなかったという顔だな。まったく、君らしくもない」
 カリエスさんは、嘆息した。
「グスカで何があったか話を聞いたが、本当に無茶ばかりするな、君は。なにかあったら、どうするんだ」
 なにかあったら?
「……どうでもいいです」
「なに?」
「どうなったって、もう構わないです。どうしたって、この先、希望なんてないし、私ひとり死んだところで、なんの影響もないです。かえって、揉め事の原因が減って都合良いでしょう。死刑にでもなんでもして下さい」
「馬鹿な事を言うもんじゃない」
 カリエスさんは、叱る口調で言った。
「君は、君自身の立場というものをまだ分かっていないようだな。今、君に何かあれば、これまでの計画はすべて台なしになるぐらいの事は起きる。君がいなくなって、どれだけ皆が動揺したと思っているんだ」
 なんだ、それ。どういう事?
「少し、落ち着いて話そう。説明しておかなければならない事もあるしな」
 そう言ってカリエスさんは、また私の腕を引っ張って立たせると、腕を掴んだまま馬のいる場所へ連れていった。そして、道から少し離れたところに転がっていた岩の上に、私を座らせた。




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