それから一ヶ月。
 雪は未だ多く残るが、久し振りに晴れ間が覗き、風もないその日、私はディオの誘いに外へ出た。珍しいくらいにもっこもこに着込んで。
 ディオが御する犬ぞりに乗って、ケリーさんから教えてもらった西側の庭を散歩する事になった。
 わんこ達、可愛いよ。可愛いんだけれど……最初、えらく吼えられた。吃驚するぐらい。怖いぐらいに、必死で吼えられた。思わず、隠れた。
 群れのリーダーとなるわんこが、私の事を完全に他所者として認識したようだ。番犬でもあるのだろう。大事な御主人さまを守るつもりで吼えた様だ。
 ……なにもしてないぞう。されてはいるけれどな。
 でも、犬の鑑。えらいぞ。吼えられる方は堪ったもんじゃないけれど。
 ディオがそれを見て、私が身内になる事を教えて、漸く、静かになった。でも、わんこ的には、まだ納得できないものがあったらしい。
 私の顔をみてそっぽを向き、お手をさせたら、凄く嫌そうに前脚をふるふる震わせながら乗せてきた。それはそれで可愛かったが、ちょっと気の毒にも感じた。
 ディオひとりが、面白そうに笑っていた。
 ちょっとムカついたので、背を向けた隙に雪玉をぶつけてやったら、むっとした顔で抱え上げられて、強制的に橇に乗せられた。大人げない!
 そして、一度、走り始めたら、思った以上のスピードに驚いた。わんこ達は走るのが大好きな様子で、雪を蹴立てて走る姿を見ているだけで愉しかった。
 犬達を騎士専用宿舎に預けて、近くの庭をふたりで散歩した。
「うわあ、」
 途中、ダイヤモンドダストが見られた。樹氷の間を陽の光に照らされて、キラキラと輝いてとても綺麗だ。テレビでしか見た事のない風景をこうして生で見られると、感動する。
 どうやら、これを見せに連れて来てくれたらしい。
 礼を言えば黙って微笑むだけだったので、頬に軽くキスしたら、唇にキスが返された。
 ちらちらと光る氷の中、澄んだ空気は冷たく、吸い込むだけで鼻の奥まで、つん、と凍りつく。
 間違いなく寒いのに、さほど感じない。
 モノトーンの世界の中で、一際、鮮やかな青と赤の色が私の視界の多くを占めている。
 時折、足を滑らせそうになりながらも、隣にある手に掴まってゆっくりと雪の浅い道を選んで歩いた。
「あと二度ほど寒波を越えて、そして、次第に春を迎える」
 ディオが言った。
「雪が溶ければ、この庭もまた違った表情を見せる。その時にまた連れて来よう」
 そして、悪戯っぽく付け加えられた。
「おまえが食べられる草も見付かるかもしれん」
「そうしたら、こっそり食事の皿の上に紛れ込ませて食べさせてあげますよ」
 白い息の塊を吐き出しながら、私は笑って答えた。

 あれから、幾つもの朝を二人で迎えている。毎日、お互いの顔を見るのが当り前になった。
 ゲルダさん達に、時折、『奥方様』と呼ばれるようになったのには、まだ慣れないけれど、すこしずつ新しい立場に慣れつつある。
 私達の関係は公にされてはいないものの、既に皆の知るところだ。知って、静かに見守ってくれている。
 聖騎士ひとりだけがもんの凄い勢いで駆け寄ってきて、大袈裟にまたとッ散らかった妄想を喋りたくろうとしていたみたいだけれど、その前に速攻で蹴り倒した。
 ついでに、傍にいたウェンゼルさんが失神させてくれたおかげで静かになった。
 瞬殺だ。流石! おかげで、風邪もうつらずにすんだというものだ。
 赤い鼻の下をかぴかぴにしながら昏倒する聖騎士は、それでもどこか幸せそうな表情をしていた。ひょっとすると、危ない世界でも開いたかもしれない。
 アストラーダ殿下は報告した時に、「やっと義妹ができた」、と笑った。
「義理の妹ならば、なにかにつけかまう事もできるしね。ウェンゼルもそっちの方が良いだろう。私の命で、おおっぴらに護衛を任せられる様になるし」
 と言えば、そうですね、と脇に控えていたウェンゼルさんも微笑んだ。
「少なくとも、貴方に何かあった時に、はらはらしているだけという事はなくてすむでしょう」
 そう言いつつも、私を通じて弟をかまいたいだけなんじゃないか、と思ったりもする。
「あの子の傍にいてやって」、とアストラーダ殿下は私に言った。
「あの子はともすると、どんなに危険であろうとも、一人でなんでも決めて走っていってしまうから。時には立ち止まらせて、息をつかせてあげて欲しい。いつでも、戻ってこられる場所も必要だろうしね」
 それは、私にとっても必要なものだった。照れ臭くも頷けば、
「それと、他人行儀はやめて、そろそろ呼び方も変えて貰わないとね」
 と、アストラー……クラウス殿下は悪戯めいた笑みを浮かべた。
 おにいさまとは、ぜってぇ呼ばん! 呼んでやらん!
 アストリアスさんからは、「殿下の事を頼むよ」、という一言があった。とても安心した表情で。
 カリエスさんからは祝いだと言って、私が気に入っていた蛙の置物を貰った。
 グレリオくんとレティからは、「どちらにもこどもが産まれたら、良い遊び相手になれますね」、と言葉があった。
 スレイヴさん達にも、直接、言わなくても伝わっていた様だ。
「君にそんな顔をさせられるのが私でなくて、残念だよ」、とスレイヴさんは笑って言ってくれた。
 ギャスパーくんには、「あんなやつのどこがいいんだよ」、と文句がましく言われたが、サバーバンドさんが、私の代わりに拳骨を見舞ってくれた。
 ただ、ランディさんだけには、もう一度、私の方から謝った。どうにも落ち着かなくて。そうしたら、
「なんとなく、こうなる予感はしていた。ずっと前からね。君は最初から殿下のものだったし」
 そんな答えがあった。
「分っていたけれど、でも、君に対する想いは変わらなかった。それだけの事だよ。そして、今もね」
「幸せになって」、とそう言って微笑んでくれた。
 ディオにその話をしたら、ディオも同じ言葉を聞いたそうだ。私より前に、私との事を直々に伝えた時に。ただ、
「もし、貴方が彼女を裏切り苦しめる事があれば、その時は遠慮なく奪わさせて頂きます」
 と、笑顔で付け加えられたそうだ。
 冗談なのか、本気なのか。
「そんな事はありえん、と言っておいた」
 と、ディオは、にやり、とした笑みを私に向けて言った。
「そうですね。もし、そんな事があれば、まずは、大量のケラトと言わず、豆と言わず、手当たり次第に色んな物をぶつけて差し上げます」
 私もにっこり顔で答えてやった。
 そんなわけで、ランディさんは護衛の騎士として、今も私の傍にいてくれている。でも、彼にも誰か良い人が出来て幸せになって欲しいな、とは密かに思っていたりする。

「どうせ食べさせられるならば、草よりも魚の方がマシだ」
 ディオが言った。
「都合さえ合えば、夏には海に連れていってやろう。所領が海近くにある。そこの城で暫く過すのも良いだろうな」
 それは愉しみ。夏だったら、烏賊なんかが捕れるだろうか。蛸とか……嫌がるかな。でも、またそれも面白いだろう。でも、それよりも寒天用の海藻だ。きっと、色々と役に立つだろう。
「是非、連れていって下さい。遠乗りにも付き合いますよ」
「ああ、そうだな。それも良いな」
 でも、それも可能かどうか。
 もう暫く、この二人だけの時間を愉しみたいが、いつ新しい命が芽生えるかも分らないから。ひょっとすると、もう芽生え始めているかもしれない。
 それこそ、神のみぞ知る。
 でも、もうちょっとの間だけ、この温もりを独占していたいと思う。
 掴む腕に、身体を寄せる。
「寒いのか」
「いいえ、それほどでも」
 寄り添い、問う声に見上げて微笑む。
 あまり、空を見上げる事はなくなった。
 必要な空は、手を伸ばせば届くところにあるから。
 春はもう少し先でかまわない、と思う。
 必要な温もりを感じていたいから。
 本当に、もう少しだけでいいから、この時を過させて、と密かに願う。

 風が地面の粉雪を巻き上げ、氷の軋む微かな音が耳に届けられた。

 春の訪れはまだ早い。
 でも、誰も名を知らない花が、ここに咲いている。


 それは、私だけが知る唯一の花。







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