早速に南棟にある主治医の部屋を訪れてみれば、カリエスが扉を開けた。
 私の姿に彼はなにも言わず、口元に笑みを浮かべただけだった。うまくやった、と言わんばかりの。
「おやおや、これは斯様な場所にお珍しい。また、酷い有り様ですね。お怪我を?」
 慌てた風の医師の横には、目を丸くするカスミがいた。しかし、目が合った途端、逸らされた。
「少々、擦り剥いただけだ」
「それはいけません! 傷口から悪いばい菌が入ると、大変なことになってしまう。早く消毒をしなければ。ああ、でも、そう言えば、今朝は講義前に学生たちの質問を受けることになっていたんだった。もう行かなければ!」
 ……彼も仲間か。わかってしまえば、わざとらしい。
「ミズ・タカハラ、悪いが頼まれてくれるかな。消毒薬はここにある。必要ならば、包帯も使って。洗面器とタオルはあそこにあるものを」
 強引なばかりに、道具が入っているらしい箱をカスミに押し付けた。
「あ、はい」
「じゃあ、頼むよ。殿下、申し訳ありませんが、失礼させていただきます」
「ああ」
 カスミの肩を軽く叩いて、医師はそそくさと部屋を出ていった。
「では、私も廊下で待機しております」
 カリエスもそう言い置いて、出ていく。
 二人取り残された部屋で、なんとも気まずい空気が流れた。カスミは私の顔を見ようともしない。
 何かを言わなければ。しかし、謝罪するにもなんと切りだしたものか。
 考えあぐねていると、
「上衣を脱いで、そこに座って下さい」
 カスミの方から口を開いた。
 言われるがままに上衣を脱いで、空いていた椅子に腰かけた。程よく暖まった部屋では、汗をかいた後でも寒さを感じなかった。
 湯をはった洗面器を運んできたカスミは私の側までくると、布を浸し絞った。
「怪我はどこに?」
「腕だ、肘のところに、すこし擦れた痛みがある」
「足は?」
「多分、大丈夫だ」
 痣ぐらいにはなっているかもしれないが、
「そう。では、これでよく手と怪我の部分を洗って」
 洗面器が差し出され、石鹸が手渡された。黙って言う通りにする。カスミは立ったまま、私のすることを見ていた。
「……なにがあったんですか」
 なんと答えたものか。
「鍛練が、すこし厳しいものになっただけだ」
「そうですか」
 久し振りに間近にある顔を見上げた。ランディの言葉があったせいだろうか。硬い無表情の中に、薄ぼんやりと悩みの影が透けて見えるような気がした。
 ぐい、と頬に布が押し当てられた。そのまま、こどもにするように顔を拭われた。
「……本当に、戦うことばっかり」
 手を止めて不意に落とされた言葉は、哀しみが滲んで聞こえた。
 新しい布で濡れた手と腕も拭かれる。そして、渡された箱の中から薄い緑に色づいた透明の液体の入った瓶を取り出すと、直接、私の患部に流しかけた。
 刹那、指先から肩まで痛みが通じた。すると、カスミも眉を顰めていた。
「カスミ」
 私は言った。
「悪かった。おまえを傷つけた」
 返事はなかった。
「だが、その場の思い付きのものではあったが、なんの考えもなかったわけではない。スレイヴならば、任せてもよいかと思った。護るにも、彼ならば充分に手を尽くしてもらえるだろう。ガーネリアに嫁ぐにしても、ローディリアも、前にその妻となろう姉がいることになる。他の国に嫁がされるよりは、よほど安心もできるし、良いかと思った。逆に娘を貰うにしても、事情を知っている彼ならば、余計な期待や野心を娘に植付けることをしないだろう」
 カスミは黙って、私の腕に包帯を巻いた。必要ないと思ったが口にはせず、待った。
 包帯を巻き終えたところで、やっと、返事があった。
「私も、あれから考えたんです。それで、やっと、気付きました」
「何に気付いた」
「ここは、私が生まれ育った場所と、結婚やそういった日常的な風習さえ、ぜんぜん根っこの感覚や考え方が違うって。わかってはいたけれど、足りなかった。根本的に違っているって気付かされたんです」
「どう違う」
「好きな人を選べる方が珍しいんだって。レティとグレリオくんのような関係が、私の感覚では当り前なのだけれど、本当は違う。大抵は親同士が決めた相手と結婚するのが当り前で、他に好きな人がいたとしても、親や他にも司教や陛下の許しがなければ、絶対に許されないのですよね。殆どが政略結婚で成立っている。それが嫌ならば、家族やそれまで築いてきたものすべてを捨てる覚悟でなければ出来ない」
「そうだな」
「だから、わかったんです」
 黒い瞳が、私を真直ぐに見下ろした。
「私も、ただ貴方が好きなだけでは駄目なんだって。貴方の内にある考え方や、常識の根本をなすところから理解する必要があるって。貴方には当り前のことでも、私には違う」
 でも、と瞳が伏せられた。
「そう気付いたら、気が遠くなりそうになったんです。折り合いがつけられる内はいいけれど、いつか、決定的な違いに気付いてしまうんじゃないかって。これからも、色々と些細なことで衝突することになるでしょう。その内、私は貴方を許せなくて、貴方は私を許せなくなって……でも、やり直しはきかないんです。新しい道を探すこともできない。そうでなくても、これからも何かあれば、貴方は戦いに行ってしまう。もし、貴方がいなくなって、私一人でこどもを抱えていくことになったら? 陛下は守ると約束されましたけれど、国を護るために必要であれば、切り捨てられもするでしょう。もし、どうしても納得がいかない命を出されても、私には護る力などない。逆らえない。その時、私自身だけでなくこどもも不幸にする」
 涙が落ちる前に、瞳が手に隠された。
「なにも変わってなかった。私は貴方に護られているだけで、一人ではなにも出来ないんです」
「カスミ」
 腰を抱き寄せる。彼女がこんなにも小さく頼りなく感じたのは初めてだ。
「貴方の心が離れてしまったら、貴方がいなくなってしまったら……だったら、今のうちに、」
「カスミ、おまえにとって、私はそんなに頼りないか」
 嫌がる素振りを抑え込み、腕の中に押し込んだ。
「おまえの言う通りだ。私もおまえを理解する必要がある。この二ヶ月間、話もして、少しはおまえを知る事もできたが、まだ足りない。まだ、おまえの考えていること一つ、察することができないでいる。だから、これから少しずつでもそういった溝は埋めていくよう、私も努力しよう。一朝一夕とはいかないが、前に進むに必要なことならば」
 腕が余るぐらいに華奢な身体だ。愛しいだけでは足りない。
「今更、おまえとの事をなかったことにはできない。諦めるつもりもない。言った筈だ。立ち塞がる棘があれば、切り開いてみせると。切り開けぬ棘などありはしない、と」
「……剣だけでは、どうにもならないことだってあるでしょう」
 懐の内からくぐもる声が言った。
「ああ、しかし、その為に絞るだけの知恵もある。これまで培ってきたものがある。私にも、おまえにもあるだろう。それに、二人だけでは無理でも、他にも力になりたがる者達がいる」
 節介と感じるほどに。数はけして多くはないが、なんの得にもならないとわかっていながら関りたがる者たちがいる。信頼できる者たちが。
「だから、起きてもいないことで、ひとりで思い悩むな。勝手に私の傍を離れようとするな。辛いと思ったら、言葉にしろ」
「でも、それで酷いこと言うかも。怒らせて、呆れさせて、私のこと嫌いになるかも」
「馬鹿者。腹ぐらいは立てるかもしれんが、顔を見たくない程に厭う理由にはならないだろう。それ程、了見は狭くないつもりだが」
「どうしてそう言い切れるの? わかんないよ」
「わからないのは、私の方だ。どうして、そうも悲観的に物事を考える」
 わかっている。不安なのだ。それだけ、カスミに掛かる問題は大きい。場合によっては命に関るほどの。それも、一人だけに留まらず、この国に暮らす民すべてに関係してくるほどの。
 それは、私も感じていないわけではない。が、仕方ないと思って受け入れるしかない。
 手にした欠片を手放すことが考えられなくなった今では。
 臆病な猫を抱いている気分だ。傷つけるつもりはないのに、嫌がって逃げ出そうとする。だが、そう考えれば、最初の頃に比べて、随分と懐いたとも言えるのかもしれない。
「おまえはなにも出来ないわけではない。それは、私が知っている」
 私に色々なものを与えてくれた。取り戻させてくれた。
「おまえが私を必要としているように、私にはおまえが必要だ」
 くすん、と洟を啜る声があった。
「ディオ……靴投げてごめんなさい」
「当たらなかったから良い」
 裸足で逃げるように去っていった後ろ姿は、今、思い出すと笑いが込み上げてくる。きっと、これからもこういった事は多くあるのだろう。しかし、過ぎて笑い話に出来れば、それでよいのだろうとも思う。
 腕の中の感触が、柔らかいものに変わった。啜る声もない。だいぶ落ち着いた様だ。
 さて。
「部屋に戻るか。朝食もまだだ」
「着替えもしなきゃね。私まで埃っぽくなっちゃった」
 顔をあげたカスミは、もう泣いてはいなかった。目は赤かったが、いつも通り、さばさばとしてさえ見えた。生意気な猫のように。
 その唇に、軽く唇を重ねた。すると、ふわり、とした笑みをカスミは浮かべた。
 それだけで私は、私を取り巻く世界が、突然、完璧なものになったような気がした。

「何故、ランディを選ばなかった」
 後日、折りを見て、気になっていた事を訊ねた。すると、カスミは、ううん、と唸り、
「ランディさんは、一緒にいて優しくしてあげたいの。酷いことをしたいと思わないし、出来ないと思う。だから」
 理解しがたい。それに、なんとも不愉快な気分だ。
「それは、おまえといると不幸になるかもしれないから、という意味か」
「ううん、そうじゃなくて、多分、ランディさんとだと喧嘩もできないと思うのよ。多分、文句があっても、私は全部、我慢してしまうんだろうなあって想像がつくの。これっぽっちも傷つけたくなくて。それぐらい好きよ。そして、多分、同じくらい、ランディさんも我慢をしてくれると思う。でも、それって、不幸だと思わない? 結果的にお互いの為によくないだろうって感じるの」
 そして、「だから、貴方みたいに、腹を立てて、咄嗟に物を投げつけても良心が痛まないぐらいが良いと思うのよ」、と笑った。
 なんだ、その人を鉄板か石壁であるかのような言い様は。もっと、別の言い方があるだろうに。まったく、言葉を選ばないところは、相変わらずだ。
「スレイヴは」
「スレイヴさんは、浮気が心配」
 それは納得だ。
「それに、どうしても私は三番目になるだろうから。それもねえ」
「三番目?」
「優先事項。仲間とお祖母様が同列の一位で、二番目がお務め。それで、私が三番目。多分、この順位で下がる事はあっても、上がる事はないでしょう。男の人はそういうものなのだろうけれど、目の色のことがある私にとって、それはまずいわ。せめて、二番目。順位不動の。でなければ、何かあった時に私は切り捨てられる可能性が高いし、いつかはスレイヴさんの精神的な負担になる可能性があるでしょ。そう考えると、狡いかもしれないけれど、友達でいられる距離感が一番、好きでいられるし、楽だと思うのよ」
 そう答えて、首を竦めてみせる。
「私はそうでないと?」
「ディオにとっての私は、場合によっては一番目、それか、一番目と二番目の間にもなれるぐらいと思っているのだけれど」
「ほう?」
「だって、ディオにとっては、一番大事な国を護る事と私を護ることが直結しているから」
 いけしゃあしゃあと。こういうところが、小面憎くも感じる。
 そして、うふふ、と悪戯めいた笑みを浮かべて言う。
「愛していますよ、ユーリ。誰よりも一番に」
 こういう狡いところも、小憎らしい。そんな言い方をされれば、多少の口の悪さは許すしかないだろう。
 それからも私たちは、何度も他人が聞けば馬鹿馬鹿しい内容で喧嘩し、口論を続けた。そして、その度毎に私達は、互いの理解を深くしていったと信じる。
 しかし、それとは裏腹に、ランディとカスミの関係が変わることはなかった。時には、嫉ましさを覚えるほどに。
 ランディは生涯、カスミの剣であり、楯でありつづけた。
 私は彼女と子を護り続けるために、彼の血を受け継ぐ、剣に優れた子を残すことを望みもした。が、期待に反してそれは、妹夫婦に委ねられた。家督と共に。
 彼自身は、私同様に正式な伴侶を迎えることが、ついになかった。それについては、私の名を利用もしたようだ。『主が妻を迎えない内に自分が妻を求めるわけにはいかない』、と。それは、事情を知る妻帯者たちの苦笑を大いに誘ったものだ。
 それでも、後年、さる縁あって、他国を生国とする女性との間にひとり娘をなした。父親に似た白金の髪を持つ、美しい娘だ。庶子であり、差別や偏見もあっただろうにも関らず、その娘は大切に育てられて、それなりに幸せであったようだ。政略もしがらみもなにもなく好きな男と結ばれ、その血をランデルバイアの地に溶けさせていった。
 その姿は、ランディ以上にカスミを喜ばせた。

 流れる時は、私たちの上に様々な影と光を落としていった。
 決して平坦ではなく、望む平穏には程遠い道のりが私たちの前に突きつけられた。
 切り裂く棘に傷つきもし、迫る絶望の顔を目前にすることもあった。
 徐々に回数が減りはしたが、夜、カスミの泣く声に目を覚ますこともなくならなかった。私は幾度となく、この世に完璧なものは存在しないと知らしめられては、歯噛みした。
 だが、それでも、私はその在り処を見出しもした。
 ふ、とした瞬間、向けられる微笑の中に。
 何度も、何度も、数えきれなく。
 それが、私を突き動かし、歩む力を強くしたことに間違いはない。

 ラシエマンシィの中庭は雪の屋根を落とし、季節の移り変わりを告げる風が吹き込む日が多くなった。
 まだ暖さを感じさせず、埃を撒き散らすばかりのそれに侍女達は文句を言い、兵たちは目を痛くし、口がまずくてかなわないと愚痴をたれる。
 あれから鍛練の時間で、ひとりで多人数を相手にする立ち合い方式が恒例になりつつある。私に限らず、上位職にある者やガーネリアの強者たちにも、同じような申し出を受けることが多くなっているようだ。
 あの祭りにも似た立ち合いの様子が、これまで黙っていた兵や騎士たちの挑戦心を煽ったらしい。ひとりでは無理だが、大勢でならばなんとかなると思わせたようだ。中には筋違いの目的――政治的な目論見をもってかかってくる者もいるが、そういう者は遠慮なく叩き伏せている。偶に熱が入りすぎて、朝儀に遅れることもある。
 まったくもって迷惑な話だ。迷惑ではあるが、結局、この状況を作った二番目の兄に文句を言いそびれたままになっている。
 なにも悪いことばかりではないのだから。兵の底上げに役立ちもし、鬱憤晴らしになりもしている。
 春の風も同様に。
 汗ばむ身体を冷ますに心地よい。
 皆、文句や愚痴を口にしながらも、迎える本格的な花の季節の先触れに密かに喜びを感じてもいる。

 まるで、猫。
 まるで、春風。

「意外に楽天的だったのね」
 カスミは私に言う。
「仕方なかろう。そうでも思わなければ、やっていけん。特におまえのような者を傍に置いておくためにはな」
「失礼な」
 最初は欠片だった存在は、私の中で半身と呼べるまでに成長した。
 時には精神を削り取られもするが、それ以上のものを私に与えてくれている。
「お互い様よ」
 春風のような、猫のような。
 私は、そんな半身を抱き締める。
 そして、浮かぶ微笑に満足する。

「愛しているわ」


 ……それだけで、世界は完璧だ。







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