なにがあったのか。
騒々しさにルーファスたちも揃って様子を見に部屋から出てみれば、ちょうどジュリアスが外から駆け込んできたところだった。
「なにがあったのですか」
いかに慌てていようが質疑応答は落ち着いて優雅に丁寧に、が王宮流の基本。
俺様ルールをまかり通している者も若干いるが、これは例外。
宮仕えは、大抵、これが出来ないと三流扱いされる。二流にもなれない。
本人だけでなく、仕える主さえも同列扱いで恥をかくは必至。
だから、ジュリアスも主の冷静な問いの前で、一瞬で息を整えると、背筋を伸ばして礼儀正しく答えた。いつも通りに。
「はい、沖の方から急な高波と共になにやら怪しげな巨大物が近付きつつあるということで、いま、この目で確認したところ、確かに漂流物かなにかはわかりませんが、何かが近付いてきていることは確かです。殿下方におかれましては、危険がないか確認できるまで外にお出にならない方が宜しいかと存じます」
しかし、ルーファスは当り前に首を横に振った。
「そうはいかない。危険なものならば余計、隠れているわけにはいかないだろう。すぐに沿岸の者たちを避難させよう」
「人手がありませんが?」
と、カミーユが至極真当に答えれば、
「それでしたら、駐屯の兵士や自警団の者たちがおりますし、警報を鳴らしさえすれば、この辺の者たちは高波で避難するのに慣れておりますから」
と、ジュリアス父が言った傍から、かんかんかん、と木づちを鳴らす音が響き渡った。
ほら、と声も出れば、玄関口から見える通りの人々にも坂を上る動きがみられた。
すると、「ああ、そうか」となにもない宙を見ながら、ひとり納得したように魔女がうなずいた。そして、
「ちょっと行ってくる」、とルーファスたちに告げた。
「その間に、よければシュリを海際まで連れてきてくれ」
「シュリを? なぜだ」
ルーファスが問う。
「この辺の海の主が挨拶に来たようだ」
「海の主?」
「巨大蛸だよ」
「巨大蛸っ!?」
「ああ。大方、シュリが退屈して愚図ったかしたんだろう。水の精が呼んだようだ」
この辺の読みの確かさは、流石に養い親ならではか。
あああ、とカミーユが疲れたように溜め息をこぼした。
「着くなりこれですか……」
「そういうことだ。害はないだろうが、騒がれて大蛸に暴れられても困るだろう。かと言って、呼ばれてシュリに会えなかったとなれば大蛸の気もすまないだろうし、先に行って注意をしてくる」
ルーファスは唸り声をあげ、「わかった」と答え、返事を聞いた魔女は鳥に姿を変えて飛び立っていった。
あんぐりと口を開けて見送ったのは、何も知らされていなかった約一名。
「お父さん、気にしなくていいから」
ぽん、と慰めるようにジュリアスは細い父の肩に手を置いた。
「あの人のことは、どうかお気になさらず」
にっこり微笑んで付け足したのは、息子の主人の男装の麗人。
「考えるだけ無駄ですから」
「俺はシュリを迎えに行ってくる。おまえ達はここに待機して、異変があればすぐに知らせろ」
と、ルーファスは、やっぱり気にも留めない。
「御意」
「あ、あの、お気をつけ、」
「お父さん」
慌てて見送ろうとするジュリアス父の肩から息子は手を離さなかった。
一歩出遅れたその間に、ずかずかとした足取りでルーファスも家を出ていった。
「どうぞ殿下のことはお気遣いなく」
カミーユが同じ微笑みで、外した感に狼狽えるジュリアス父に言った。
「気を遣うだけ損ですから」
無駄ではなく、損。
「はあ……」
呆けた返事をした父の背を、やはり慣れるまでにすこし時間がかかった息子は二度、軽く叩いて慰めた。
そして、ひとり残った主に向かって言った。
「カミーユさま、咽喉は乾いてらっしゃいませんか。冷たいお飲み物でもいかがですか?」
「ああ、いただこうか」
「では、いまお持ちします。お父さんも疲れただろう。こっちですこし休んだら?」
「……ああ、でも、大蛸なんだろ?」
のんびりしていていいのか、と言外に問えば、
「今、僕らにできることなんてないからいいんだよ。なにかあれば、すぐにわかるだろうし」
「ゆっくりできる内はしておかないと、肝心な時に動けなくなってしまうのですよ」
ジュリアスは当然のように、カミーユはにこやかに答えた。
「さ、では、お父上もこちらへ。ジュリアスのこどもの頃のお話などお聞かせ下さい」
「カミーユさま、さほど面白い話などございませんよ。どうぞ、キュラムの果汁です」
「そうであっても、大切な部下のことを少しでも知っておきたいのだよ。おや、これはなかなかにおいしいね、甘いだけでなく微かにある辛味がいい」
「お口にあってよかったです。ほんの少し、香辛料を混ぜてあるんです」
和やかな主従の会話を前にして、父親は息子が大人になったと実感し、寂しさと安堵にしみじみと浸った。
「早く高台に避難しろ! 波が近付いてくるぞっ!! 急げっ!!」
たとえ、外が大騒ぎになっていることに薄々気付いていたとしても。
「行くぞ」のひと言で、思いがけずシュリは迎えに来たルーファスについて街に行くことになった。
否、『ついて』という表現は相応しくない。『かっ攫われるように』が正しいだろう。
庭で海をいく物体を観察していたシュリのところへ来たかと思うと、ルーファスは前述の台詞を吐いておもむろに彼女を横抱きにすると、いきなりテラスから下の道に向かって飛び降りたのだから。
その高さ、およそ五メートルはあるだろうか。
特撮ヒーロー真っ青なジャンプ力だ。
ひゃあああああああっ!!
なぜ、わざわざ危険を冒さなければならないのか。
「いちいち回るのも面倒だ。それに急ぐ」
シュリを抱きかかえたまま転がりもせず、安全に道に着地したルーファスは涼しい顔で答えた。
確かに庭から屋敷内に戻り、玄関を通過して門まで行き、恭しく門扉が開くのを待ってから道に出て、坂道をぐるっと回って下りて来るよりも、まっすぐに飛び降りた方が格段に早いだろう。
しかし、そんな馬鹿な真似ができる身体能力を持つ者などそうそういる筈もない。
そんなところは、ルーファスはやっぱり規格外ということだ。
だが、シュリにそんなことを考えていられる余裕もなく。
そのまま蛇行する坂道を走り出したルーファスにしがみついて、叫ぶしかなかった。
その勢いは、二回、三回と折れるコースも相まって峠越えレースのごとく。
ドリフト紛いの荒技も入る。
シュリの心臓はバクバク、ひやりとした汗が流れるのも、二度、三度ではなく。
慣れた者ならばスリルも含めて『楽しい』ですむが、テーマパークもないこの世界では、それどころではない。
シュリは理由もなにもわからず叫び続けるしかなかった。
悲鳴がやんだのは、坂道を下って下って、中間地点をちょっと行きすぎたところ。
蛇行した道から分岐する細い道が、海を貫くようにまっすぐ通って見えた。
ちょっと小奇麗な中産階級の者が多く見受けられる場所ら辺だ。
そこでシュリは降ろされた。
「ここから先は人が多い。歩くぞ。迷わないようけっして俺の手を放すな」
ルーファスは言って、ぎゅっとシュリの手を握った。
物珍しくシュリが周囲を見回せば、まっすぐ歩けないほどに人の数が格段に増えていた。
皆、途中で立ち止まって、海の方を眺めて指さしたり話したりしている。
「あの、なにかあったんですか?」
手を引かれながら、やっと心臓バクバクから解放されたシュリは、前を歩く大きな黒い背に向かって尋ねた。
多分、あの海から近付いてくるアレが原因だろうと、おおよそ察してはいたが。
「第一波が届いて、魚市場んところまで水が来たらしい」
誰かが言っているのが聞こえた。
「今んところ、幸い人の被害はないみたいだってさ。でも、係留していた船に被害があったみたいだ」
「まずいな」、とルーファスが呟くのが聞こえた。
「もう少し早くてもついてこれるか」
「だいじょうぶです」
問われてシュリが答えると、少し足が速まった。
手を握ったまま、シュリはわずかに駆け足状態でついていく。
慣れない踵の高い靴で坂道を下る間に、踵に擦れる痛みを感じたが、我慢した。
大変なことになっているらしい、とわかったから。
そして、ルーファスは落ち着いてはいたが、話している余裕もなさそうだったので、話しかけるのもやめておいた。
下に行くにしたがって、人の数はますます増えた。
押し合いへし合いではないが、ぶつからないように間を抜けていくのがやっとだ。
おとなもいれば、こどももいる。
色々な話し声が耳に入ってきて、うるさいぐらいだった。
王宮でも人が多いと思ったが、こんなに沢山の人を見たのは、シュリははじめてだ。
皆、坂の上に向かって移動していく中を、ルーファスとシュリだけが下っていく。
途中、シュリは何度か手を放しそうになったが、その度にルーファスが強く握り直してくれたお蔭で迷うことはなかった。
十五分ほど歩いて海が近付いたところで、ルーファスが路地に曲がった。
そして、五軒行きすぎたところにあったちいさな家にシュリは共に入った。
「状況は」
着く早々、尋ねるルーファスの前にはカミーユがいた。
「波が到着し被害が出た模様ですが、今のところ軽微なもののようです。しかし、この先も続きますし、波も徐々に高くなることを思うと、この先、被害も大きくなるかと」
「そうか」
「しかし、これでレディン姫に対し、殿下が王宮に不在の具体的な言い訳にはなるでしょう」
「不幸中の幸いか。と言っても、素直に喜べるものではないが」
「起きてしまった状況を利用するのは悪いことではないでしょう」
ふたりの会話はシュリにはよくわからなかった。
「よろしかったら、これをどうぞ。キュラムのジュースです」
ふいに差し出されたグラスをシュリは受け取った。
差し出したのは、ジュリアスだ。
「……ありがとうございます」
咽喉を潤しながら、向けられた笑顔に妙に気恥ずかしい思いを抱く。
相手からは見えないにも関らず、目を若干逸らしながらシュリは答えた。
ずくん、ずくん。
急に脈打つように踵が痛んだ。
ずくん、ずくん、と血管がそこだけ膨らんだように感じる。
「あのっ!」
「なんでしょう。ああ、空になったグラスをいただきますね」
「えっと、あの、」
薬はないか、のひと言がなぜか言いにくい。
もじもじと言い淀んでいると、「どうかされましたか」とカミーユが声をかけてきた。
「えっと、足が……」
「足? どこか傷められましたか? ああ、靴擦れですね。シュリさまの足に合わせて作ったものではないので、合わなかったのでしょう」
しゃがんでシュリの足下を確認したカミーユが言った。
「大丈夫か」
と、いきなりまた抱き上げられたと思ったら、椅子に座らさせられた。
ルーファスだ。
「急がせたせいだな。すまない」
そして、シュリの足下に屈み込むと、おもむろに傷ついた方の足の靴を脱がせ、ドレスの裾から中に手を突っ込んだ。
「ひゃああああっ!」
シュリが叫んだ時には、すでに靴下留めは外され、靴下も脱がされていた。
恐るべき早業。
こっそり密かに積んだ修業の表れか。
しかし、披露するにはまだ早かった。
シュリが精神的に受けたのは、生理的な乙女の危機。
俗に言うところの、セクシャルハラスメント。
略して、セクハラだ。
だが、概してセクハラを行う者はそれがセクハラと認識していないのも事実。
たとえ、それが好意によるものであっても……いや、だから余計にか。
「大人しくしていろ。なにもしない。手当てをするだけだ」
ルーファスは落ち着き払って言うと、ぐい、とシュリの素足を引っ張って自分の立てた膝の上にのせた。
「じ、じじじじ、自分でできます……」
「足を動かすな」
拒否は遠慮と受け止められて、聞く耳などもってもらえない。
ルーファスは腰に下げた剣の脇につけられた小さな丸いケースを開くと、指先で中身を掬い取った。
白く固められた軟膏だ。
それを傷口に擦込んだ。
「いたったったったった!」
「少しの間、我慢しろ。よく効く薬だ。痛みはすぐにおさまる」
ぬりぬり、すりすり。
ルーファスはシュリの素足を両手で包み込むようにして踵に軟膏を塗りたくった。
すりすり、なでなで。
手つきは優しい。
髪に隠されたシュリの顔は、真っ赤になっていた。
治療を受けているだけなのに、どうしてか、とても恥ずかしかった。
そして、理由がわからない敗北感も同時に感じた。
やっと手を止めると、膝の上のシュリの足を上下に両手で包んだままルーファスは言った。
「巨大蛸がおまえに会いにこちらへ向かってきている。今、起きている騒ぎはそのせいだ」
「蛸?」
「魔女によると、おまえが望んで水の精だかが呼んだのだろうと言っていた」
「……呼んでいませんけれど」
覚えがない。
それはそうだろう。
巨大蛸のことは話に聞いただけで、いまだシュリにとっては謎の生物で、『退屈だから、誰か来ないか』となんの気なしに呟いただけなのだから。
そんな呟き自体シュリも忘れているし、まさか、それを聞いた水の精が、頼みもしない内から呼んだなど思いもしない。
ルーファスはそれ以上、突っ込んで問うこともなく、そうか、と頷いた。
「だが、事実、向かってきているのは確かだ。それが連れてきた普段にない大波が打ち寄せてきていて、港は混乱している」
シュリは顔を顰めた。
ルーファスの報告もあったが、片足を預けたままという恰好にも。
「お師匠さまは?」
「魔女は、蛸の所へ行っている。暴れないように注意をしにいったようだ」
「止めるためじゃなくて?」
「大蛸はおまえに会わないことには納得しないだろう、という話だ
そう言われて薄ぼんやりとだが、シュリはなんであれこの騒ぎの原因が自分にあるらしいと悟った。
昨日のこともある。
自分のせいではない、と言い切る自信がどこにもなかった。
「……ごめんなさい」
「起きてしまったことは仕方がない」
怒っているようにも呆れているようにも見えなかったが、ルーファスは深々と溜め息を吐いた。
「しかし、ここの住民達は困っている。高波でいくつか被害もでているようだ。大蛸が姿を見せれば、脅えもするだろう。だから、おまえはそれを最小限に留められるよう、今から大蛸に会って沖に帰るよう説得してほしい。二度と陸には近付かないように」
「……はい」
そうすべきなのだろうとシュリも思う。
実感はなくとも。
「ごめんなさい」
もう一度、謝った。なのに、ルーファスは、
「同じことで、二度、謝るな。非公式だろうと、形だけだろうと、おまえはクラディオンの女王だ。頭を下げるよりも前に成すべきことを成す、それが王族のあり方だ」
「はい」
しゅん、とシュリは肩を落とした。
昨晩、自分で言ったことをぜんぶ撤回したくなった。
なにもかもすべて、うまくできる見込みがこれっぽっちもないように感じた。
女王様も、クラディオンの地を解放することも。
シュリがやっても、ぜんぶ失敗して、ぜんぶ台なしにしてしまうとしか思えなかった。
「大丈夫だ、心配するな」
わかったようにルーファスが言った。
「俺がついている。おまえのためならば、何が起ころうと、すべて収めてみせよう」
そして、ふいに落とされた爪先への柔らかい感触に、シュリは声にならない悲鳴をあげた。
ひっ!!
なぜ、そんなところに接吻をするのか、できるのか。
かあっ、とまた顔に血がのぼるのを感じた。
あわあわと口を動かしていると、ジュリアスの声が聞こえた。
「申し訳ありません。こんなものしかありませんでしたが、よろしかったでしょうか」
「ああ、一時的なものですから、これでよいでしょう。どうせ濡れるでしょうし」
カミーユが答えて、近付いてきた。
「殿下、シュリさまのお靴の替えの用意ができました」
そう言って差し出されたのは、つっかけと呼ばれる代物。
ミュールとかお洒落なものではなく、下駄属性のつっかけ。
日本では、便所サンダルとも呼ばれるアレだ。
赤い帯の。