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 桃色の裾の広がった膝丈のドレスは、誰が見ても上等とわかるものだ。
 でも、足下は、細い素足に見るからに庶民丸だしの赤い帯のつっかけ。
 帯に白文字で、W.C.と書いていないのは幸い。
 しかし、辛うじて色目だけはあってはいるが、上下の見た目のバランスが悪い。
 ファッションチェックなんぞされた日には、一頻りけなされて、弄り倒されるにちがいないスタイル。
 だが、これが届いたのを切っ掛けにルーファスが足を放してくれたので、シュリとしてはオーライだ。
 文句を言う者もいないし、そんなことを言っている場合でもないし。
 それに、靴擦れした足に優しい履物だ。
 ちょっと、うるさいけれど。

 カコカコカコカコ、カッコン、カコカココ……

 下駄が鳴る。
 ごつごつした石畳の坂道を進むごとに足音が響く。
 でも、周囲の騒々しさはその上を行く。
 急げ、と怒鳴るように急かす声があちこちからあがり、移動する人々の間からもこどもの泣き声や不安を呟く声が途切れなくつづいている。
 先導するようにルーファスがシュリの正面前を歩いている。今度は、手は繋いでいない。
 その二歩後ろ、シュリの左斜め前をカミーユが歩く。
 時々、シュリの横に並ぶまで下がってくることもあるが、それで道で擦れ違う他の人たちとの壁にもなっている。
 ジュリアスはいない。
 出る時はいっしょだったが、先ほどルーファスがなにかを言うと、ひとり先に行ってしまった。
 と、その彼が前方から人込みを掻き分けるようにして戻ってくるのが見えた。
「殿下、こちらです」
 ジュリアスについていった先には小さな空き地があって、王宮でもみかけたよりも少しくたびれてはいるが、青い揃いの服に身を包み、腰に剣を帯びた男が六人立っていた。
 内、ひとり赤い腕章をつけた男が一歩、深く頭を下げて前にでてきた。
「現在、フラベス駐屯を任されている東砦所属のヨシュア隊、アーチボルト・ヨシュア隊長です。ヨシュア隊長、ルーファス・アルネスト・エスタリオ殿下であらせられます」
 ジュリアスが紹介した。
「面を上げろ」、とルーファスは頭を下げた男に言った。
「早々に命ずる。東砦にはすでに救援の兵を要請した。おっつけ到着するだろうから、おまえ達はそれらと共に民を海辺からできるだけ遠くへ避難させ、収めるまでの間、誰ひとり近付けさせるな。この先、全体の指揮はここにいるカミーユ・ガレサンドロが執る。これの出す指示はすべて俺の命として従え。いいな」
「ははっ!」
「よし、この近くで最も水が深いところで、陸に接する場所はどこだ」
「畏れながら、それはおそらく、海にもっとも突き出ている埠頭の先端だと思われます!」
「それはどこだ」
「はっ! その路地を直進していただくと港に出ますので、右斜め前方に見える埠頭がそうです」
「水はどこまで来ている」
「港一帯が波に覆われ、この先の路地半ばまで波が届いた痕があります」
「そうか。カミーユ、ここにラインをひき、これより先に民をひとりとして残すな。俺が戻るまでの間は、解除するな」
「御意」
「シュリ、行くぞ」
 下駄の音を鳴らせて、シュリはルーファスの後ろをついていった。
「では、手分けして民の誘導をお願いします。身体が不自由な者、老人こどもなどを特に気をつけて優先させてください。街の地図はありますか」
 カミーユが指示を出す声は背中に遠ざかっていく。

 コカコカコカコカコココ、カッコン!

 石畳の坂道は、ときどき爪先がひっかかって歩きにくい。
 少し行けば、雨が降ったわけでもないのに、地面はしっとりと濡れていた。
 そこから先は色んな物が落ちていて、歩くにも大変なことになっていた。
 桶や漁師が使う網にうき。
 布きれや服。ひしゃげた鍋にかたっぽだけの靴。
 割れ板に、木くずが山ほど。
 海藻や死んだ魚も落ちている。
 乾いていないのに、荒涼としていた。
 虚しさや無念といった感情が、自然と湧き出てくる光景だ。
 きつい潮の臭いに混じって、朽ちていくものの生臭さが、鼻腔の奥にまで張り付いてくる。
 その中をシュリはときどきルーファスの手も借りて、前に進んだ。
 ざぶん、ざぶん。
 波の音が近付くにつれ、足下は常に濡れている状態になった。
 断続的に打ち寄せる波に浸かって、つっかけどころかドレスの裾まで、すでにびしょびしょだ。
 ちょっと寒い。
 脚に纏わりつく裾の鬱陶しさもあるが、水を吸って重くなったぶん歩みも遅くなる。
 先ほどから背中にべったりとなにかが張り付いているような気がしてならない。
 胸にも、なにかがつっかえたような感じがある。
 何度も突かれたみたいに、疼くような泣きたいような気分になっている。
 涙は出ないが。
 きっと、靴擦れに海水がしみるせいだろう、とシュリは思う。
 でも、この心の痛みはなんだろう?
「一旦、ここで待つ」
 シュリの行く手を遮るようにルーファスが腕を伸ばした。
 開けた場所に来ていた。
 さっきまで遠くにあった海が目の前にある。
 というよりも、すでに膝から腰まで浸かっている。
 周囲を見回せば、水、水、水。
 港らしいのだが、すっかり水没していて、どこから陸で海なのか境目がわからない状態だ。
 だだっ広い中に、シュリはぽつんと立っていた。
 水面にたゆたう銀髪は海藻のようだし、広がるドレスはくらげのよう。
 どっぷん、ざぶん、と寄せては返す波は、勢いこそ強くなくとも次から次へと途切れることなく、シュリを繰り返し押しやろうとする。
 まるで、いらない物であるかのように。
 そして、色々なものを押し流してくる。
 シュリは手を動かして、ぶつかりそうになった木の板を避けた。
 いま、向こうを流れていったのは、懐かしの金だらいか。
 金だらいといっしょになって、シュリはその場に留まりながら、ゆらゆらと身体を揺らした。
 沖には、港から逃げ出したのだろう何艘もの漁船が、うねる波間に浮かんでいた。
 船の甲板にいる人々が、指をさしたり頭を抱えたりしながら、大声をあげていた。
 船の間を、丸い赤紫のものが浮き沈みを繰り返しながら、近付いてきていた。
 あれが、巨大蛸なのだろう。
 巨大というだけあって、かなり大きい。
 近付いてきたこともあって、ますますその大きさを感じる。
 見えている部分だけでも、周囲にある船の二倍ぐらいの大きさがあるだろう。
 海鳥たちが周囲を飛び回り、口々にがなり立てている。
 餌が逃げるから来るなとか、魚を寄越せだとか、人間に気をつけろなど。
 それよりも、この水の精霊の多さはどうしたことだろう。
 目の届く範囲全域を埋め尽くさんとするばかりの、ありえない数の精霊が飛び回っている。
 明るかった風景を薄暗くし、息苦しさを感じるほどだ。
 これだけで、どれだけ異常なことか。
 一種類の精霊がこんなに集まっているところを、シュリは見たことがない。
 こんなことありえない――と。
 しかし、その思いとは別に、この事態を引き起こしたのが自分であることも、はっきりと覚った。
 魔女見習いである筈の自分が、精霊の均衡を崩している。
 泣きたい気持ちを通り越して、シュリは呆然とした。
「寒くはないか」
 ふいに、ルーファスの低い声がした。
「あ……」
「もうすこしの間、我慢してくれ」
 引っ張られるようにして肩が抱かれた。
 伝わる体温に、自分の身体が冷えてしまっていることにシュリは気付いた。
 答える必要もなく、ルーファスから次の質問があった。
「魔女がどこにいるかわかるか」
 そうだ。師匠はどこにいるのだろうか?
 シュリは目を動かし、急いでこういう時にこそ頼りになる師の姿をさがした。
「あ、あそこ」
「どこだ」
「あの大きな丸いものの天辺に。鳥の姿で」
「見えんな……こちらの意志を伝えることはできるか」
「あ、できると思います、たぶん」
「だったら、一度、こっちに来るよう伝えてくれ。この先をどうするか話したい」
「わかりました」
 シュリは、ちょうど目の前を漂っていたタツノオトシゴの形の精霊の前に指を一本たててやった。
 すると、タツノオトシゴは尾を指に搦めて留まった。
「あのね、お師匠さま、祝福の魔女に私がここにいるから来てくださいって呼んできて欲しいの。お願いできる?」
 いいよ!
 タツノオトシゴはうなずくように頭を動かすと、尾を解いて巨大蛸の方へと飛んでいった。
 周囲にいたほかの水の精霊の何匹かも、それについていった。
「呼べたのか」
「はい」
 見上げるルーファスの横顔は、とても深刻だ。
 気詰まりを感じて、シュリはすぐに目を逸らした。
 と、精霊の群れを突っ切るようにして、ぱたぱたと黒い小さな鳥が飛んで来るのが見えた。
「師匠ぉっ!」
 シュリは大声で呼んだ。
 黒い小鳥は一直線にシュリのところまで飛んでくると、シュリの頭の上にとまった。
 そして、その小さな嘴で場所を選ばずつつきまわしはじめた。
「痛い、痛い、痛い、痛い、いたい、いたいですぅ、師匠ぉっ!」
「当たり前だ、この馬鹿弟子がっ!!」
「いたいぃぃっ」
「ちょっと目を離すと、すぐにこれだ! あれほど、精霊が誤解するからひとりきりの時に不用意に口を開くなとさんざん注意していたにも関らず、このざまとは! 迂闊にもほどがあるっ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい! 師匠、ごめんなさいぃぃ!!」
「自分のしでかしたことを考えて、よく反省おし!」
「ごめんなさいぃ。反省していますぅ。ごめんなさいぃ」
 つぎつぎと容赦なく繰り出される嘴はとても痛かった。
 謝る声といっしょに、シュリの胸につっかえていたものが零れ落ちた。
 途端、目からもぼろぼろと涙が溢れて、落ちはじめた。
 落ちた雫は、海のうねりの上にぽつぽつと波紋を作った。
「ごめんなさいぃ……」
 シュリの口から出てくるのは、泣き声ばかりになった。
「その辺にしておいてやれ」
 見かねたルーファスは、魔女が化けた小鳥を手で払う仕草をみせて、シュリの身体を抱え込んだ。
 シュリの目の前は黒一色になって、全身にすっぽりと包まれる感じがあった。
 温かい感触に、シュリはよけいに涙が出てきて、泣き声を大きくした。




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