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 グロリアはどこだ?
 と、問われて答えられるものは、そこにはいない。
 カミーユは『仕事を放って』と言ったが、本人にしてみれば、『無理やり、強制的に連れ去られた』以外のなにものでもない。
 さぼったわけでも、望んで職場放棄をしたわけではない、と大声で言いたいところ。
 今は、そんなことを言っていられる場合じゃないけれど。
 でも、誰に、と問われて答えるなら、エンリオ・アバルジャーニー以外にはいない。
 そして、その原因を作った彼が、どこでなにをしているかと言うと、
「そこだっ! いまだっ!! 叩き込めっ!!」
 街を挟んで、昨日とは反対側の森の中。
 木々が取り囲む、視界も利かなくなった薄暗い中に立って、大声を張り上げている最中。
 声が向けられる先には、立つ影ふたつ。
 ひとつは、女騎士グロリア。
 彼女はここにいた。
 遠目ではよくわからないが、近づけば、血の匂いがするだろう。
 しかし、荒い息で肩を揺らしながらも、二本の足はしっかりと身体を支えて立っている。
 手には、剣。
「いぃぃやぁああああっ!!」
 叫び声にも似た気合いの声とともに、その剣が大きく振りかぶられた。
 次の瞬間、どうっと音をさせて、向かい合ったもうひとつの影が地面に倒れ伏した。
「ぼやぼやすんな! 早くとどめををさせ!!」
 すかさず飛ぶ、エンリオ・アバルジャーニーの指示にグロリアは従った。
 相手が事切れる感触が、剣を通して伝わった。
「よくやった」
 枯葉を踏む音をさせて、エンリオ・アバルジャーニーが近づき、倒れた獲物を確認する。
「まずまずの大きさだな。おまえさんは、あっちで少し休んでいるといい」
 倒れ伏すのは、赤い毛皮をもつ熊。
 熊としては中ぐらいの大きさだ。
 それでも、元からかなり大きな動物だけれど。
 女ひとりの腕力で倒せたこと自体、快挙だろう。
 しかし、それを成し遂げた本人に笑顔はなく、苦しげに息を吐きながら眉根も寄っている。
 揺れる身体を引きずって、近くの木の根元に腰を下ろした。
 息を整えながら、水筒の水を飲んだ。
 錆びた味とともに、ぴりっとした刺激が唇に走った。
 口の端を切っていたらしい。
「おう、これをつけておけ」
 放られた傷薬入りの容器をキャッチした。
 グロリアは、熊から受けた傷を点検した。
 大方は打撲傷だ。
 皮の胸当には大きなツメ跡が残っているが、下まで通ってはいない。
 腕や肩などは、身に付けた鎖帷子が爪の攻撃を防いでくれた。
 ところどころ千切れて傷もついたが、深手は負っていない。
 ほっとした。
 彼女も、一応は女だから。
 傷口に軟膏を塗った。
 じんわりとした熱と痛みを感じた。
 我慢できない痛みではない。
 しかし、なぜこんなことをやらされているのか、それがわからない。
「許可はとってある」
 抵抗しようとも、そう言われたら、仕方がない。
 上からの命令は絶対だから。
 それでも、酷いめにあった感は強い。
「なぜなんですか。なぜ、こんなことを?」
 収まりかけの息をつきながら、グロリアは仕留めた獲物を運ぶための準備をするエンリオ・アバルジャーニーに質問した。
「肉がいりようならば、街で買えるでしょう。なぜ、わざわざこんなところまで来て、熊を仕留める必要があるんですか」
「そりゃあ、本来、そういうもんだからよ」
 呵呵とした笑い声をたてて、エンリオ・アバルジャーニーは答えた。
「それに、いま、肉はなかなか手に入らねえよ。王宮で買い占めてるからな」
「え、そうなんですか?」
「おう、シャスマールの連中用にな。あいつら、すげえぞ。一食、ひとりで牛一頭以上をぺろり、だ」
「そんなに!?」
「全員が肉食でもないが、それでも、相当数の牛や豚が消費されてんだ。お陰で肉の値段が高騰している。出荷頭数にも限度があるからな。しばらくはこの状態が続くだろう」
「シャスマールではどうしてるんですか? そんなに食べるのだったら、肉が足りなくなるでしょう」
「ああ、だから、この熊の十倍もの大きさのあるゴンゾってやつを家畜にして、それを食っている。でも、こいつが、俺達にしたらまずい肉でなあ。牛や豚に比べると、大味の上に癖があって硬い。トカゲ族の力がなけりゃ、捌くだけでも大仕事よ」
「へえ、そうなんですか」
「ああ。あと、十日ほどで披露宴するにしても、そのころにゃあ出せる肉なんざ残ってねえだろ。だから、ジビエにするにしても食材の確保が必要なんだよ。この熊肉でもその頃には柔らかくなってるだろ」
「なるほど、そういうことでしたか」
 考えもつかなかった理由に、グロリアは納得の息をついた。
「まあ、それだけじゃねえがなあ」
「他に理由が?」
「ああ。ここフラべスってところは漁師町だろ? 主に魚介類を使った伝統料理をみな食ってる。けれど、もともとは山を切り開いた街だから、こうしてすこし歩くだけで、熊やイノシシがけっこうな数いるんだ。オオカミなんぞもいるが、狙うのは、楽に捕れる鹿やウサギなんかがほとんどだ。熊や猪にしたって、こどもだな。だが、狼たちだって無敵じゃねぇし、真っ先に人間に狩られる。そうなってくると、熊や猪はなかなか数が減るもんじゃねえよ。そして、こいつらを狩る猟師が圧倒的に少ねぇ。そんなことしなくたって、海に行けば美味いもんが沢山あるからな。それで、数が増えた熊や猪はどうなると思う?」
「どうなるんですか」
「こいつらが食べるのは、主に木の実だったりもするが、特に熊なんざあ縄張り意識の強い動物でなあ。出会えば、互いに争うのよ。自分の縄張りから出てけ、ってな。それで、負けた方はどんどん別の場所に追いやられる。新しいえさ場を探さなきゃならねえ。しかし、美味い木の実のある場所は、とうに別の熊の縄張りになっている。けれど、腹は減るし気は立ってくる。だから、うろついている間に人に出会えば襲うし、美味そうな匂いがすりゃあ人里にも降りて、畑からなにから手当たり次第に漁ることだってあるだろうさ」
 な、と肩越しに振り返っての答えに、息を呑んだ。
「野蛮だなんだと言って、こんな風に森に生きているもんを殺さず、家畜だけ食ってりゃいいって話もあるけれどな。けど、食う為だけに生かすだけの環境を与えて殺すのと、どう違うんだって俺は思うぜ。狩り尽くしちゃあまずいが、女だてらに騎士やってるおまえさんも、こいつとやり合ってみてわかっただろ? そう簡単にやれるもんじゃねえよ。それに、少なくともこいつらは自然が与えてくれた食い物だ。ありがてえじゃねえか」
「では、私がこの熊を殺したことで、放っておけば襲っていたかもしれない人を助けたことにもなるわけですか」
 人助け。
 それは、騎士の重要な大義のひとつだ。存在意義と言ってもいい。
 だが。
「そうは言わねえよ」
 あっさりとした否定にがっかりした。
「こいつも俺達に出会わなけりゃあ、人を襲わず、一生、森の中で静かに暮らしていけたかもしれねえ。そんで、屍を森の木々の栄養として提供していたかもしれねえ。そんなこたあ、だれにもわからねえよ。例えば、戦になれば、おまえさんも国を守るために敵を殺すことになるだろう。だが、そいつが本当は良いやつで、生かしておけば、将来、人助けをする立派な人間になるかもしれねえなんてこと、考えるか?」
「……いいえ」
「生き物を殺すってのは、相手が動物でも人間でもおんなじだ。死んだ者は可能性を奪われて、生き残った者は可能性を残す。けれど、死んだ者だって残すもんはあるかもしれねぇ。それが良いもんか悪いもんかは別にして、少なくとも殺った側は忘れられるもんじゃねぇし、忘れちゃならねぇ。もし、おまえさんが殺られる立場だったら、そう思うだろ? 殺した相手をこん畜生、この野郎とか思いながらな。そういうこった」
「殺した相手も尊ぶべきだと?」
「そりゃあ、どうかなあ? 人それぞれだと思うぜ。殺される側の身にとっちゃあ意味のねぇ話だろうし、食う為に殺しているやつが尊ぶなんて言ったところで、気休めにもならんだろう。人間相手でも色んなやつがいるからなあ。良い奴もいりゃあ、どうしようもねぇ悪党だっている。それを生かそうが、殺そうが、尊ぼうが、蔑もうが、受け取り側の都合ってやつだろう。ただ、そういうことを考えるのは、無駄じゃねえと俺は思うって話さ。それも、生きてる者の可能性ってやつだな」
 話を聞いているうちに、頭の中がこんがらがる。
「私には、よくわかりません……」
 グロリアは考えることは苦手だ。
 エンリオ・アバルジャーニーの言っていることの半分ぐらいが、『なんとなくわかる』ぐらいだ。
「そうやって、今のうちに悩んでおきな」
 エンリオ・アバルジャーニーは笑った。
「死は避けられないもんだが、生きていくことも、簡単に免れられるもんじゃねえからな」
 自称、最強で最高の料理人、エンリオ・アバルジャーニー。
 その人生哲学は、見かけによらず、深い……かもしれない。




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