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 宮殿はとても賑やかなところだ。
 兎に角、人が多い。
 始終、人の出入りがある。
 貴族や召使いたち、兵士や騎士やらが、常に動き回っている。
 森の暮らしも動物たちがいてそれなりに賑やかではあるが、それとはまたちがう。
 シュリが滞在している部屋は、あまり人の近付かない場所にあって静かではあるのだが、ちょっとしたことで聞こえてくる人の話し声はある。
 主に夫人と侍女たちのものであるが、人自体に慣れていないシュリには、結構、気になったりもする。
 それとは別に、時折、派手な音も聞こえてきたりもする。
 どん、とした腹に響くような音であったり、ガラスが割れる音であったり。
「ルーファス殿下が癇癪起こして壁に穴をあけたりしている音だよ」
 宮殿内の一部を案内してもらっている最中、マーカスからそんな説明があった。
「壁に穴っ!?」
「うん、しょっちゅうあるけれど、気にしないで。こっちには関係ないことだから、滅多に被害を受けることもないと思うし。でも、廊下を歩いている時とかに偶然、行き合って瓦礫が飛んできたりするかもしれないから、気をつけてね」
 笑みさえ浮かべて注意がある。

 ガッシャーーーーーーーーン!

 言っているそばから、ガラスの割れる音が聞こえた。
 シュリたちから離れた場所で、砕け散る窓ガラスと、宙を飛んでいく一脚の椅子が見えた。
 なにを言っているかわからないが、怒鳴り声も聞こえた。
 マーカスもそれを眺めながら言った。
「正直に言えば、ここんところの殿下は機嫌悪くて荒れっぱなしだから、あんまり近付きたくないんだよね。もともと怒りっぽいところはあったけれど、ここまで酷くはなかったよ」
「そうなんですか?」
「うん、シャスマールの姫との婚姻の話がでてからかな。そういう話はいままでもあったけれど、今回はさすがに年貢の納め時か、って感じになってるから」
「嫌なんですか?」
「うん、すっごく。気持ちはわかるけれどさ。でも、しょうがないんだよね」
 へえ、とシュリはよくわからないままに相槌をうった。
 と、またガラスの割れる音がして、こんどは長椅子が空を飛んでいた。
「ま、すぐに慣れるよ」
「はあ」
「『王子はきょうも元気だな』ぐらいに思っていれば」
「はあ」
 あまりにも頓着しない口調に、硬直をみせていたシュリの気も抜ける。
 しかし、森の暮らし以上に危険はあるようだ、と密かに思った。


 次の日、出入りの許可が出たと呼びに来たマーカスと共に、シュリは書庫へと向かった。
「王宮内をひとりで出歩かないようにね。一応、ルーファス殿下のお客人という扱いにはなっているけれど、衛兵全員がそれを知っているわけではないから、不審に思われたりするだろう。それに、中は入り組んでいるから、迷子にもなりやすいし。行きたいところがあれば僕が案内するから、その時には言ってね」
 マーカスからの注意を、シュリは頭の中で、『マーカスといっしょにいること』、『行儀よくすること』、に置き換えた。
 書庫は、シュリのいる棟とは別の独立した棟になっていた。
 水草を浮かべる池のある庭を横に眺めながら、廻廊を渡っていく。
 すると、黒い三角屋根に煉瓦の壁に蔦の這う、一見、古めかしい小さな建物が見えてくる。
 それが書庫だ。
 小さいと言っても、シュリの暮らす森の小屋の五つ以上の大きさはあるだろう。高さも三倍以上ある。
 黒い木でできた大きな扉を開ければ、本がぎっしりとつまった背の高い書架がずらり、と並ぶ空間になっていた。
 扱う本の重さのせいだろうか。
 中の空気も、厳かで重い。
 独特の匂いが立ちこめ、外から入った瞬間に、別世界に来たかのような錯覚さえ覚える。
 吹き抜けの三階建てのつくりになっていて、見上げる壁にも隙間なく本が並んでいる。
 明り取りの窓は高い位置にあり、薄暗くはあるが、書架の間に等間隔に設置された小さな丸いランプが、そこまでの暗さを感じさせない。
 ランプはシュリの使っている部屋にも置かれているものと同質のもので、魔硝石と魔方陣を組み合わせたものだ。
 炎を使わず光を使うものなので、火事の心配もない。そして、周囲の明るさに反応して点灯する仕掛けになっている。
 マーカスに従って、後をついてゆく。
 高い位置にある本を取る為なのだろう、可動式のはしごのついた書架の間を進む。
 整理の途中なのか、本をいっぱいに積んだ台車の脇を通った一番奥の壁際に、コの字型をしたカウンターがあった。
 カウンターの中にはふたりの人間がいて、ひとりは女性で椅子に座ってなにやら書き物をし、もうひとりの男性は、立って壁に設えた本棚から本の出し入れをしていた。
「あれ、こんな時間に珍しい。本をさがしに?」
 近付いた彼女たちを見て、椅子に座っていた女性が声をかけてきた。
 ゆるやかなウェーブがかかった肩までの赤毛に、細い銀縁の眼鏡をかけた若い女性だ。
「いや、それもあるけれど、タトルじいさんに用があって。いるかい?」
「館長なら、ここのところ日中は外ね。甲羅干し。天気良いから」
 苦笑まじりの返事に、ああ、とマーカスはどこか呆れた様子で頷いた。
「どの辺にいるかわかる?」
「さあ、そこまでは。いつも同じ場所とは限らないし」
 すると、棚の整理をしていた卵色の短髪の男性が振り向いて答えた。
「池の付近じゃないかな。柳の木のところ。ここのところあの辺がお気に入りらしい」
「ふうん。しばらく戻らない?」
「どうかな。昼過ぎまでは無理だろうね。ひっくり返っていたら戻るどころじゃないだろうし」
 そう言いながら、くすくすと笑った。
「そうか。じゃあ、ロスタの頃のことがわかる資料、なにかないかな。大乱以降ので」
 それには、カウンターふたり揃って、どこか困ったような表情を浮かべた。
「それは、むずかしい注文ね」
 女性が言った。
「やっぱりない?」
「そうね。通り一辺倒の歴史程度ならば、少しぐらいならあるけれど……探しているのはそういうものじゃないのよね?」
 確かめる言葉に、マーカスも、うん、と答える。
「できるだけ当時の様子が詳細にわかるやつがいいな」
「だったら、皆無と言っていいわね。ただでさえ、六百年前の資料なんて稀少なのに、分裂後の混乱で散逸してしまったというし。クラディオン側には多少、残っていたみたいだけれど、それももうないし。市井の古書店をしらみつぶしに当れば、どこかに一冊ぐらいは残っているかもしれないけれど、確証はないわね」
「だよなあ」
 マーカスの深々とした溜息がもれた。
「表に出てないのであるのかもしれないけれど、それは館長に聞くしかないわね」
「結局、じいさんか」
「そういうことね」
 くすくすと女性が笑い声をたてた。
「わかった。じゃあ、じいさんに聞いてくるわ。柳の木のところだな」
 再確認すれば、男性も苦笑まじりに頷いた。
「ついでに、早めに戻るように伝えてくれよ。二階、西側の整理がいつまで経っても終りませんって」
「ああ、伝えておく……あ、そうだ」
 行きかけて、マーカスは急に立ち止まった。
 シュリは寸でのところで、ぶつかるところだった。
「ダイアナ、きみ、サミアと仲良かったよね? 彼女に会ったら、これ、渡しておいてくれないかな。前に頼まれていた髪留め。風で乱れないよう簡易結界張れるやつ。ようやく手に入ったからって」
 そう言って、ちいさな髪留めを差し出した。
 ええっ、と女性は眉を顰めた。
「そんなの自分で渡しなさいよ。わたし別にサミアとは友達ってわけじゃないわよ。会ったら話はするけれど」
「あれ、そうなの? でも、サミアは君にことづけておいてくれればいいから、って言っていたよ」
「……あのこったら!」
「渡しておいてくれないかな。かなり困っていたみたいだし。癖毛だからすぐくしゃくしゃになるって。早いほうがいいだろ?」
「マーカスあなたねえ……人が良いのも大概にしておきなさいよ」
 呆れとも憐れみともつかない溜息があった。
「ま、渡しておくけれど」
「ありがとう。サミアにもよろしく言っておいて」
 マーカスは手を振るように挨拶をして、踵を返した。
 またね、と答えながらの溜息と、男性の軽く笑う声が聞こえた。
 結局、シュリはひとことも喋らずじまいのまま、一旦、書庫から退出した。
「クラディオンにあった資料は、どこにもないのですか?」
 書庫を出て廻廊からもはずれ、タトル氏がいるという池の傍の柳の木に向かう途中、シュリは先を歩くマーカスに訊ねた。
「たぶんね」、とマーカスは答えた。
「生き残った人間が持ちだしていればあるかもしれないけれど、あれも突然のことだったって話だし、まずそんなものを持って逃げる人はいないだろうしさ」
「そうですね」
 シュリも頷く。と、逆に問い返される。
「シュリさんは、クラディオンのこと、どれぐらい知ってる?」
「そんなには。ロスタの大乱後三百年してから王位争いから、このマジェストリアが独立して、残されたロスタも続く内政の乱れから王様が変わって、クラディオンと変名したって聞きました。そして、二十年近く前に、突然、現れた三体のドラゴンたちによって国全体が焼き尽くされて滅びたってぐらいです」
「うん、そうだね。そのくらいだろうね」
 マーカスは頷いた。
「正確にそれが起きたのは、十八年前。三体のドラゴンは、クラディオンを焼き尽くした後、ほかのどこの国を襲うこともなく、現れた時と同様、どこへともなく消えてしまった。クラディオンだった土地には、未だドラゴンの残した毒が残っていて、作物が殆ど育たない荒地のままで放っておかれている。その後、あの土地に足を踏み入れて、生きて戻ってきた者はいないと言われている。魔法で遠視しても、その頃からなにも変わっていないらしい」
 ふ、とマーカスは足を止めると、シュリを振り返った。
「念の為に言っておくけれど、クラディオンの話はできるだけしない方がいい。特に王子たちの前ではね」
「どうしてですか?」
 訊けば、マーカスはどこか困ったような笑みを、そばかすの浮いた顔に浮かべた。
「詳しくは僕もしらない。生まれたばかりのことだしね。だけど、クラディオンが滅んだ時、このマジェストリアでもゴタゴタがあったらしいんだ。それがかなりまずい話らしくってさ、皆、話そうとしないし、訊いてはいけないことになっているんだ。特に王子の機嫌がわるくなることは間違いないよ。この間も、どこかの国の王様が関係することをつい口にしちゃったのを聞いて、その場で暴れたらしいし」
「暴れた!?」
「うん、僕も噂で聞いただけだけれど、すごかったらしい。斧でも簡単に割れないだろうってぐらい頑丈な机を素手で真っ二つに割って、その片方を放り投げたらしいよ。後でそれを片付けるのに、大の男が五人がかりでやっと運べたってぐらいのそれをさ」
 ひっ!
 シュリは悲鳴をあげた。
 じゅうぶん暖い陽射しの下で、背筋を這い上がってくるぞくぞくとした恐怖に身を震わせた。
 どこからか、あの鋭い眼で睨みつけられているような錯覚さえ覚える。
「だから、王子の前では、国の名も口にしない方が賢明だよ」
 そうマーカスの忠告に、シュリは黙ったまま何度も首を縦に振り続けた。
 『クラディオンの国名はぜったいに言わないこと』
 シュリの注意事項に新たな一項目が付け加えられた。
 だが、すこしだけ、引っ掛かりを感じた。
 なにかを思い出しかけたような気にもなる。が、形になるまえに泡のように消えてしまった。
 どうせ大したことでもないだろう、とすこしだけ首を傾げて、すぐに忘れた。




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