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 あれ、と不意に声をあげた同僚の声に、マーカスは顔をあげた。
 同僚の視線は、彼の左手首に注がれている。
「なにそれ。そんなもんあった? 痣? 入れ墨か?」
 同僚の目敏さに、ああ、と笑ってマーカスは右手で左手首をこすった。
「まじないだよ」
「まじない?」
「うん、さっき、殿下といっしょにいたシュリさんに頼んで、このあいだ彼女のまじないってのをすこしみせてもらったんだ。僕らの使っているものと全然違っていて、おもしろかった」
「へえ、そうなんだ。ちょっと見せてくれよ」
「すこしだけなら」
 興味深げに手首を覗き込む同僚に、マーカスは袖をまくって腕をあげてみせた。
 こすっても消えることなく、周囲を僅かに赤みを増しただけの赤いちいさな花弁がひとひら、そこにあった。
「なんだ、これ。魔方陣とかじゃないんだな」
「うん、いちばん簡単なのらしい。呪文だけでやるやつだってさ。本格的なものになると魔方陣も使うそうだけれど、色々と手間が必要なんだと。呪文もすこし長かったな。詩を詠む感じで。それでも随分とはしょったらしいけれど。取りあえず、僕たちが使う魔法とは別物だってことはわかった」
「どう違うんだ?」
「ううん、何と言ったらいいのかよくわからないけれど、兎に角、違う。あえて言うならば、僕らがこどもの頃に想像していた『魔法』により近い印象かな? 純粋に、見ただけで『魔法だ』って思えるようなさ。なんてことはないんだろうけれど……ちょっと、感動した」
「よくわからないけれど……そうなのか。じゃあ、咄嗟になにかできるってわけでもないのか」
「そうらしい。本物の魔女になるとまた違うらしいけれど。彼女は見習いだそうだから」
 へえ、としげしげ眺める同僚から、マーカスは自分の左腕を取り戻した。
「バラかなんかの花弁だろ、それ。ずっと、そのまんま?」
「いや、数週間ほどで消えるらしい。これも花弁に見えるけれど、実はそうじゃないんだってさ」
「じゃあ、なに?」
「精霊が具現化したものだって言ってた」
「へえ! 精霊!」
 一際、おおきく相槌があった。
「精霊ってこんなんかよ。俺、もっと人間みたいなもん想像していた。ちっちゃい妖精みたいなさ!」
 マーカスもそれには頷いた。
「うん、彼女の説明だと、一般的な精霊って決まった姿をしてないんだそうだ。だから、同じまじないをしても、その時々で出てくる色や形、大きさもちがってくるって聞いた。虫みたいにそこら中を飛び回っていて、感情はあるけれど、動物に似て、とても単純なものらしい。そうじゃないのもいるらしいけれど」
「へええ、そんなのはじめて聞いた! な、もういちど見せてくれ、それ」
「やだよ、あんまり他人には見せるなって言われてるんだ」
 袖をひっぱる手を振り払った。
「なんで」
「精霊が怖がるからだってさ。あんまり騒ぐと、効果もないうちに逃げちまうんだと。基本的にその場の感情や気分で動くもんらしい。考えて行動するとかはないんだそうだ。だから、呪文とかでも精霊の気に障らないように丁寧に言う必要があるんだとさ」
 えーっ、と不満そうな声があがった。
「じゃあ、それ解析してみろよ。なんか新しいことがわかるかもしれないぜ?」
「それもしない」
「なんでだよ」
「だって、効果がないうちになくなったら、このまじないが本当に効くものかどうかもわからないじゃないか。そういうのは、効果があった上でこそだろ」
 マーカスの弁に同僚は、「そりゃあそうかもしれないけれど」、と惜しそうに彼を見る。
 それを断ち切るように、マーカスは言った。
「精霊にもよるんだけれど、これは特に気をつけろって言われた。好奇心をいちばん嫌うんだそうだ。見付けにくいから捕まえるのにもコツがいるって。だから、解析はやらない。やるとしたら、もっと別の機会にするさ」

 マーカスがそのまじないを頼んだ時、庭に連れ出された。
 暫くうろうろ歩き回った上で、ようやくみつけた噴水のところでそれは行われた。

「で、効果はあったのかよ」
「いや、まだ」
「効果があった時は、すぐにわかるのか?」
「わかるよ」

「いいですけれど……なにか願いごとはありますか?」
 シュリの問いにマーカスはそう迷うことなく言った。
「じゃあ、素敵な女の子と会えるまじないとかある? ええと、ちゃんと長く付き合えるような」

 ――さようなら、サミア。彼とお幸せに。僕も幸せになるよ……こんどこそ。

 マーカスは、心の中でそっと呟く。
 絶世の美女とは言わない。
 性格も含めてちょっと可愛くて、ちょっとだけ気が強くてしっかりものの、気立てのよい女の子がいい。
 そして、彼のことをだれよりも好きになってくれる女の子。
「なんだよ。ところで、なんのまじないなんだ?」
「それも、内緒だ」
 薄く笑って答えれば、「ケチ」、と口を尖らせた返事があった。
 それは聞かない振りをして、マーカスは自分の仕事に戻った。
 窓の向こうから、植木の手入れをするハリネズミの庭師の鼻歌が聞こえてきた。




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