最初は頑なさをみせていたフェリスティアも、徐々に微笑みをみせる回数が増えていった。
窓際で話すばかりであったのが、部屋の中に招き入れられるようになった。
立って話すこともあれば、時間がある時は、長椅子に並んで腰かけて話すこともあった。
彼女が微笑むたび、ルーファスは胸が高鳴る思いがした。なによりも嬉しかった。
だが、フェリスティアの目元に依然としてのこる涙の痕を消すまでには至らなかった。
何度か通うたび、ルーファスもフェリスティアが淋しくて泣いているわけではないらしい、と思うようになった。
「フェリスティアはだれかにいじめられているのか? それで、いつも泣いているのか?」
そう問いかけてみた。
ほかにそれらしい理由が思い付かなかったからだ。こうして隠れているのもそのせいではないのか、と思うようになっていた。
「誰にいじめられているんだ」
すると、答えがないままに首が横に振られた。
「なぜ、だまっているんだ。言うとまたいじめられるからか?」
フェリスティアは黙って、首を横に振るばかりだ。また、泣きだしそうな表情があった。
「心配するな。フェリスティアを泣かすようなやつは、みんな追い払ってやる。俺がかならず守る。ぜったいに、しかえしとかさせない。そんなことをしたら、かえりうちにしてやる。だから、そいつの名前をおしえろ。とっちめてやる」
「良いのです、殿下。よいのです……」
やっと、力ない声での返事があった。
「よくはないだろう」
ルーファスは言った。
「貴族のだれかなのか? だったら、心配ないぞ。そんなひきょうものは、貴族をなのるしかくもないからな。身分をはくだつしてしまえばいいんだ。そうしたらなにもできない」
「……そうではないのです」
「ちがう? じゃあ、もっと上の大臣とかそういうやつか? だとしても、平気だ。こわいことなんてないぞ」
「いいえ、いいえ!」
フェリスティアは激しく首を振った。
そのあまりの勢いに、ルーファスも口をつぐんだ。
「……そうではないのです、殿下。殿下は本当にお優しくてらっしゃる。私のような者までお気にかけてくださって……」
ぽつり、と呟くようにフェリスティアは言った。
「でも、私には殿下にご恩情を賜る資格などないのです。どうか、そのお優しさを、もっと必要としている別の者にお与えになってくださいませ」
ルーファスにはフェリスティアの言っている意味がよくわからなかった。が、彼の好意を断ろうとしているということだけはわかった。
「なんでだ? フェリスティアはこまっているのだろう? 俺がこどもだからか? 力もないから、そんなふうに言うのか?」
「殿下……」
「たしかに、まだ剣はおとなに勝つことはできないし、からだもちいさいし、ちからだって弱い。でも、男が女を守るのはあたりまえなんだ。そうあるべきとははうえもおっしゃっておられる。王子は姫を守るのがつとめだと。だから、俺はフェリスティアを守る!」
「殿下、それはなりません。貴方がそこまでする必要はないのです」
「なぜだ」
「私は殿下が思われているような姫ではありません。汚れた存在なのです。ですから、これ以上は、」
なぜ、そんなことを言うのか、不思議だった。
フェリスティアのどこにも、汚れた様子はなかったし、いつも通りに綺麗だったからだ。泣きそうな顔をしていても、誰よりも美しいと思える彼女だった。
「フェリスティアはうつくしいぞ。ほかの誰よりもきれいだ」
だから、ルーファスはそう言った。そして、そうだ、と思い付いた。
「俺とけっこんすればいい。俺は王子だからな。こんやくすれば、誰もてだしをできなくなるぞ。ええと、いまはまだこどもだけれど、あと十年したらおとなだ。そのころには、俺はだれよりも強くなっているし、いまよりもからだも大きくなって、ちからもつけている。そうしたら、ちゃんとフェリスティアを守ってやれるぞ」
「殿下……」
いまにも泣きだしそうな、困ったような微笑みが花のような顔に浮かんだ。
「そんなことはできません」
「なぜだ。俺よりも年上だからか? そんなことは気にすることはないぞ」
「いいえ、そういうことではないのです」
そう言って、自らの腹を手で押さえた。
「ここに赤ちゃんがいるのです」
ルーファスは目を丸くした。
「……赤ん坊がいるのか?」
「はい。女の赤ちゃんです」
「わかるのか?」
「はい、そう聞きました。それにこうしているとわかるのです。とても綺麗な女の子ですよ。大きくなれば、きっと、私よりも綺麗になるでしょう」
そう言って、フェリスティアは隣に座るルーファスの手を取ると、腹へと誘った。
「ね、動いているのがわかるでしょう?」
言われてみれば、布を通して丸く突き出た腹の形を感じた。
だが、握るフェリスティアの手の感触の方が気になって、中にいる赤ん坊を感じる余裕はなかった。そして、フェリスティアが既に夫を持つ身であることがわかって、ショックも受けていた。
「殿下、お願いがあるのですが、聞いていただけますか?」
「……なんだ」
「私でなく、助けていただきたい者がいるのです。是非、殿下のお力添えを戴きたい者が。ガレサンドロ伯爵の名はご存知ですか?」
「ガレサンドロ? いや、でも、きけばすぐにわかるとおもう」
「そうですか。では、近頃、引き取られた娘がいるのです。四歳になる、カミーユという名の娘です」
「そうなのか」
「はい。私にとって、大恩ある者の娘なのです。姉とも思えたその者は、命を懸けて私とこの子を守ってくれました。ですが、私には、それに返す術をもちません。ですから、殿下には、そのカミーユへのお力添えを願いたいのです。両親をなくし、娘ひとりさぞや心細い思いをしていることでしょう。その者が不自由のないよう、是非、殿下のご温情を賜りたく」
「……わかった。ガレサンドロ家のカミーユだな。おぼえておく」
「有難う御座います。そして、もし、これよりずっと先、今、お腹の中にいる子にまみえることがありましたら、私に与えて下さろうとしたそのお優しさを、この子にお与え下さいませんでしょうか」
「その腹の中の子に、か?」
「はい。まだ産まれてもいない者に、とお思いになられるでしょうが、この子はすでに深き因縁を背負わされる身。無事に産まれたとしても、様々な困難に苦しむことにもなりかねません。ですが、その時、殿下がお味方くださるのならば、これほど心強いことはございません」
ルーファスには、わからなかった。『ふかきいんねん』も、『こんなん』もわからなかった。それが、どんなものかも。
「フェリスティアを守りたいんだ」
ルーファスは言った。
会ったことのない娘よりも、産まれてもいない赤ん坊よりも、フェリスティアを守りたかった。
そうすれば、ずっと、彼女のそばにいられると思った。
「私は大丈夫でございます」
「だいじょうぶじゃない。泣いているだろう」
「いいえ、もう泣きません。殿下が、この子たちを守るとお約束してくださったら」
「約束すれば、もう泣かないのか?」
「はい。二度と泣きません」
これまでにない、きっぱりとした返事だった。
ルーファスの両手が包まれるように、握られた。
華奢な手は柔らかく、温かかった。
「殿下。ここで殿下とお会いできたことが、フェリスティアにとっては、なによりも幸せでございます。殿下が泣くばかりであったこの私に、今ひとたびの勇気をお与えになってくださいました。人を思う心と誇りも。もうそれだけで、充分でございます。どうか、私のことはこれ以上、お気になさいますな。そして、このままお優しくお健やかにお育ち下さいませ。国と民のために立派な王におなりあそばして下さいませ。私の為にも」
「そうすれば、いっしょにいてくれるか?」
「それは……この先、殿下にもっとふさわしい方も現れましょう」
「いやだ! フェリスティアがいい! そなた以外に、そばにはいらぬ!」
「そのようなことをおっしゃいますな。今はわからずとも、必ずおわかりになられる時がまいりますよ」
思わず身体にしがみつけば、励まされるように背中が軽く叩かれた。
「私には、この子の行く末が心配でございます。でも、殿下のような方がおられたら、安心できます。こうしてひとたび結ばれた縁《えにし》は、簡単に断ち切れるものではございませんでしょう。もし、ふたたび縁が結ばれた暁には、どうか、この子のことをよろしくお願い致します。それが、私の幸せに繋がるのでございます」
「しあわせ? やくそくすれば、フェリスティアはうれしいのか?」
「はい、この上なく」
ルーファスは、のろのろと身体を起こした。
見上げる顔は、優しい微笑みを浮かべていた。
哀しみの色はそこに見当たらなかった。
「わかった……やくそくする」
おそらく、それは、ルーファスにとって、はじめて味わう敗北感といえるものだった。
いまの自分では、この目の前にいる美しい娘を守ることはできないのだ、と悟った瞬間でもあった。
「有難う御座います、殿下」
額に掠めるような柔らかな感触があった。
「貴方に幸福と幸運を。立派な王となられることをこのフェリスティア、心より願っております」
いままで見た中で、最も美しい微笑みが、そこにあった。
フェリスティアとの会話は、それが最後になった。
次の日、訪れた部屋にはだれもいなかった。
そして、次の日も、そのまた次の日も。
ルーファスは、フェリスティアが二度とこの部屋に戻って来ないことに、暫くして気付いた。
消沈した彼を、皆がどうしたのだろう、と心配したが、説明もできなかった。
いつの間にか、王宮はいつも通りの穏やかさを取り戻していた。
フェリスティアが何者だったのか。
ルーファスがそれを知ったのは、それから数ヶ月後のことだ。