いったい、なにがあったのか。
いったい、なにが起きているのか。
これは、めでたいと言うべきなのだろうか。
キルディバランド夫人は、誰もいない客間を眺めながら、一頻り考えてみた。
これまで空だった花瓶には豪華な花が生けられ、テーブルの上には最高級のピルディッシュのチョコレート菓子。
そして、朝一番に仕立屋が来て、ちょっとした騒ぎになりながら、部屋の主の採寸を行っていった。
言うまでもなく、ドレスを仕立てるために。
間違っても、囚人服を作るためではあるまい。
そして、これらすべての贈り主はルーファス王子。
受取人は魔女見習いの娘、シュリだ。
否、とキルディバランド夫人は首を横に振り、クラディオンの王女、と肩書きを訂正した。
或いは、今後、シュリ様と呼ぶべきかもしれない。
昨日、茶会の席で耳にした噂では、まだクラディオンの生き残りの姫がいるというだけでシュリの名はでていなかったし、シュリの存在自体、公表もされてはいないが、おそらく間違いはないだろう。
少なくとも、王子は確証を得たに違いない。でなければ、この待遇は考えられない。
――よもや、殿下が女性に花を贈る日が来るなんて!
土砂降りでも降るのではないか、と窓の外を見たが、いまのところ晴れている。
だが、夕立には気をつけておいたほうがよいかもしれない。
それを置いておいても、シュリが妖精族の血をひくと知った時の彼女の予感は当たっていたのだ。
カミーユ・ガレサンドロはああはいっていたが、こうなってしまうと無視はできない。
妖精族の耳を持つ者など、そうはいない。
百人にひとり、いや、千人にひとり。もっと、それ以上に稀少かもしれない。
その中で、このマジェストリアで知られた者と言えば、国いちばんの美姫フェリスティア・ポウリスタ公爵令嬢。悲劇のクラディオン王妃。
シュリは、十八年前にクラディオンから逃れて来た時に腹の中にいたと言われる子以外に考えられない。
無事に産まれていたのか、と驚くと同時に、よくぞ、と思う。
無念のうちに亡くなったポウリスタ公爵家の人々も、さぞや草葉の陰で喜んでいることだろう。
魔女に育てられていたのは、計算外だったろうが。
あの時、夫人自身はフェリスティア妃に目通りをする機会は得られなかった。三人目の子を出産したあとで、てんてこまいだったことを思い出す。
それでも、話を聞いて、妃にいたく同情し、その身を犠牲して故国を戦から守った姿勢に感銘し、己の幸せを省みては噛み締め、そして、彼の人になにも出来なかったわずかな後ろめたさを感じたものだ。
しかし、それは置いておいても、これはどうしたものか。
言い換えて、己はどう立ち回るべきか、と考える。
シュリの出自はどうあれ、この状況を見る限り、ルーファス王子はシュリを憎からず思っていると見て良いだろう。
昨日、一緒に出掛けてなにがあったかは知らないが、なにかあったに違いない。
その点については、シュリはなにも言おうとはしない。
が、帰ってくるなりぐったりとベッドに倒れ込み、食事もとれないほどに消耗しきっていた。
――ひょっとして、すでに?
男女の仲となっているのか?
いえいえいえいえ!
とんでもない、とキルディバランド夫人は、胸中で激しく首を横に振る。
あの純真な娘が、そんなふしだらな!
今朝の湯浴みの際にも、そんな痕跡は見当たらなかった。
それに、ルーファス王子にしても……しても……
――ある得る。
なんだかんだ言って、王子はまだ若く健康な男子。
異性に関して、これまでなにもなかったことの方が不思議なのだ。
よほどマニアックな好みでない限りは。
であったにしろ、もし、嘗てのフェリスティア妃並みの美貌を目の当たりにしたとすれば、そうそう平静でいられるとは思えない。
夫人もはっきりとシュリの顔を見たわけではないし、フェリスティア妃も知るほどではないが、その祖母に当たる人の美しさは知っている。
輝くばかりの美貌。少女のようなういういしさと儚さを同居させた、愛らしい性格。
ひとつ微笑みを浮かべれば、眼にする者は別世界に誘われた。
あれも、ひとつの伝説。
社交界では、花を手折らんと、手ぐすね引いて待っていた男共のなんと多かったこと。
屋敷門前に、自国だけでなく他国からもわざわざやってきた求婚者が蟻の如き長い列を作ったと聞き及んでいる。
結局は、社交界きっての貴公子、現国王陛下のお従兄弟にあたるポウリスタ公爵の手中に落ちたわけだが。
嫉む者も多かったが、格のちがいに同じ土俵上に立てるわけもなく、いっそ清々しいまでに負けを認めるほかの女たちの様子は、まだ小娘だった夫人の心にも印象深い。
だからこそ、フェリスティア妃の悲劇はいまだ人々の心に深く根挿しもしているのだ。
もし、王子が同様の美貌を前にしたとすれば?
しかも、たったふたりきりで!
ケダモノの本領発揮。
嫌がろうが、なんだろうが、力づくであんなことやこんなことまで。
『ああれえ! いや! およしになって!』
『よいではないか、よいではないか』
――そういえば、最近、私もご無沙汰……いえいえいえいえ!
暴走しかかる妄想を、夫人はきわどいところで押しとどめた。
咳払いひとつ。
兎に角、と冷静さを取り戻しては改めて考えを巡らせる。
密かに想う相手がいる云々が引っ掛かるが、既成事実があれば無視はできない。
なかったとしても、おそらくは時間の問題。
となれば、シュリは後ろ盾がないにしろ、未来の王妃か、最悪でも側室に据えられる確率は高い。
これは、シャスマールがどうでるかも影響してくるだろう。
女王陛下は、できればシャスマール王室との縁戚関係は結びたくない、とお考えのようである。
そして、だったらクラディオンの姫を娶った方が良い、というのが、昨日の席での大方の意見だった。
まだまし、レベルではあったが。
おそらく、王宮全体としてもその流れはでてくるだろう。
しかし、問題は、シュリだ。
昨日からの様子を言えば、明らかに戸惑い、怖がっているようだ。
最初のようにベッドに潜り込んで泣くまではいかないまでも、王子の名がでるだけでびくびくしていた。
たとえ今、求婚したところで、抵抗は目に見えている。
しかも、見習いとは言え魔女だ。
また、あの師匠の魔女も黙ってはいまい。
王子の意中の女性というのも無視はできまい。
シャスマールのレディン姫のこともある。
カミーユ・ガレサンドロがどう動くかも気になる。
ざっ、とそこまで考えて、キルディバランド夫人は首を傾げた。
――しばらく様子をみましょう。
そう結論づける。
彼女が忠誠を誓うのは、マジェストリア王室。
女王陛下の意向は第一にして、方針が決まればそれに従う。
ルーファス王子の意向はその次。
陛下は……考える必要はないだろう。
カミーユ・ガレサンドロの動向にはいつも通り警戒しつつ、妥協点の確認とすり合わせを行う。
有象無象の世論については、これもいつも通りになあなあで。
シュリについては、嫌がる娘に言うことをきかせるのは本意ではない。
それに、まだシャスマールとの婚姻が反古になったわけではないのだ。というより、現時点では最も可能性が高い。
だから、当面はどちらに転んでも良いように動く。
だが、レディン姫の滞在中、顔を合わせることのないように気をつける必要があるだろう。
どうであれ、いまのうちから手を打っておいて間違いはない。
そこまで決めてキルディバランド夫人は、やれやれ、と一息ついた。
――他人に合わせるのも楽ではないわ。
そう思いつつ、他人に合わせること自体が自分の都合であることに、大抵の者は気付かないものだ。
それを処世術と言い、そういう者が集まって世間と言う。